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◆レビュー.《フレデリック・ワイズマン監督『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』》

※本稿は某SNSに2021年5月12日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 アメリカのドキュメンタリー映画監督、フレデリック・ワイズマンによる映画『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』見ました!

『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』

 ※公式サイト:http://www.cetera.co.jp/treasure/

 これは2014年製作のドキュメンタリー映画。

 ロンドンの中心地トラファルガー広場に位置する英国初の国立美術館ナショナル・ギャラリー、収蔵作品は2300点ほどとニューヨークのメトロポリタン美術館等から比べれた決して大きい規模の美術館ではないが、観客数年間500万院以上を誇る世界トップレベルの国立美術館。

 市民のコレクションを基に設立されたためか「アートを楽しむ事に貧富の差なし」の信念に基づいて、特別な企画展示をのぞいて入館は無料。その運営資金のほとんどを寄付で賄っているヨーロッパでも特異な美術館である。

 この英国の誇るナショナル・ギャラリーに3か月間にわたってカメラを入れ、その裏と表を撮影しつくしたドキュメンタリー。

◆◆◆

 3時間もかかる映画なので見る前は「途中ダレずに最後まで見られるだろうか?」なんて思ってちょっと心配していたのだが、見始めたら一気見だった。

 いやー、面白かった!

 ここ1年くらいコロナ禍で美術館にも博物館にも行けていなかったんで、久しぶりに「美術館を堪能した!」って気分になれてスッキリしたかもしれん。

 ドキュメンタリーと言っても、本作は良くある日本のテレビ番組のドキュメンタリーとはやり方がけっこう違う。

 例えば、俳優やタレントなんかが出てきて、美術館の中を喋りながら案内する、といった事はしない。この映画を案内してくれる案内人、コメンテーター、解説者――そういった「この映画のためだけに用意された人物」は、一切出てこない。

 BGM、一切なし。

 ナレーション、一切なし。

 状況を説明する字幕等、一切なし。

 撮影スタッフもカメラの中には一切入ってこない。映画製作スタッフからのインタビュー等も一切行わない。

 全ては、このナショナル・ギャラリーで行われている事を、無言でカメラが追うばかりの、実に客観的な作りなのである。

 こういう禁欲的な作りのドキュメンタリー作品を見せられると、日本のテレビのドキュメンタリー番組がいかに「感動的なBGMで盛り上げよう」といった安易な方法で「ドラマ」をでっちあげたり、いかに「俳優を登場させて情報を説明させよう」といった安易な方法に頼っていたりするかが分かってしまう。
 そういった日本のテレビ製作スタッフらが、普段から習慣的に安易な方法に頼ってしまっているから、様々なドキュメンタリー番組で「やらせ」や「過剰演出」が常態化してしまうのだろう。

 本作は、そういった状況を分かり易く説明する製作スタッフの介入が必要最低限に抑えられた作品なので、全ての状況は「フィルムの編集」によって言外に示されるだけなのである。
 いやはや、そんな「制作スタッフの"演出的介入"」を一切削ぎ落した内容で、これほど面白いドキュメンタリーを作れるとは! さすがドキュメンタリー映画界の巨匠である。

 勿論、製作陣のメイキング映像があるわけではないので、この映画にどの程度の作為が入っているのかは、フィルムを見てしか想像する事は出来ない。
 もしかしたら、ナショナル・ギャラリーのスタッフにあれこれと演技指導した事もあったのかもしれないが、それさえもフィルム上からはうかがう事はできない。

 だが、これだけの客観描写を徹底しているのだ。製作陣も気を使ったであろう。
 館内のスケジュール、ミーティングの予定、業者の出入りのタイミング、各専門家たちの仕事予定……そういった館内の動きを把握し、それに合わせて館内各所のカメラの配置場所や配置台数を決定し、入場客との事前の取材交渉等々……少なくともそういった細かい努力なしには、これほどの素材は準備できなかったであろう。

 既にドキュメンタリー映画を撮って半世紀にもなるワイズマン監督である。是非ともこの映画の舞台裏も見てみたいものであった。

◆◆◆

 では、この映画の、これほどの魅力とは何だったのだろうか。

 まず、何と言っても「素材の良さ」というのが、否応なくこの映画の魅力の一つだと言えるだろう。
 何といっても、あの世界最高峰の美術館の一つ、ナショナル・ギャラリーのドキュメンタリーなのである。
 わざわざワイズマン監督が指揮をとらなくとも、これほどの魅力のある素材であれば、そこそこのドキュメンタリーを作る事はできるだけの材料だというわけである。

 「視点」も、いい。
 世界的に有名な美術館を、誰もが見る事のできる「表」だけではなく、その舞台裏も含めて見ていくという内容。
 ――個人的に言えば、ぼくが最も見たいと思っていた舞台裏でもある。

 190年ものあいだ続いている西洋の大美術館の設備は?スタッフの仕事は?専門家たちのあいだで成される打ち合わせや会議の様子は?
 彼らの仕事によって、一つの展覧会が形作られている様が、フィルムの断片によって徐々に知らされていく面白さ。
 美術館の活動が「展覧会」だけでなく、外向きにはワークショップ、ギャラリートーク、テイクワンピクチャー、教育プログラム……といった活動も行う「生涯学習施設」でもあるという事をありありと物語る。
 また、内向きには保存、収集、修復、史学的作品研究、作品の化学分析……といった文化の保存・研究機関であるという側面もありありと見せてくれる。

 この大美術館を支える多くのスタッフの日常の仕事ぶりを見る事ができるなど、そうそうあるものではない。これはある意味「お仕事ドラマ」でもあるのだ。

 この最高の素材を、上述したように、ほとんど製作スタッフの"手"が見えるような介入なしに、素材の味を最高に生かす作りにしたのが、あの客観的な作り方だったのかもしれない。

◆◆◆

 このような作り方だからこそ、本作は「あらすじ」などはない。説明できるものでも、ない。
 それはそうだろう。
 「自分の会社のここ一か月の"あらすじ"を説明してください」と言ったって、特別大きなイベントや依頼でもない限り、そんなものがあるわけもない。
 一企業にだって、社長には社長の仕事のドラマがあるし、同様に財務スタッフには財務スタッフの、人事には人事の、営業には営業の、情報システムには情報システムの、現場スタッフには現場スタッフのそれぞれのドラマというものがある。そのように各々全く異なった無数の専門業務が同時並行的に走っているのが組織の仕事というものだ。
 それは、美術館も例外ではないのである。

 しかし、さすがは世界最高峰の美術館だ、とつくづく感心した。
 「メットより規模が小さい」等と紹介されてはいるが、日本の美術館の設備の貧弱さからは考えられない充実度である。

 これが本物の美術館なのだ――と、日本の現状との、そのあまりの差に思わず呻き声さえ漏れてしまったほどである。

 先日も瀬木慎一『名画修復―保存・復元が明かす絵画の本質』の書評にて美術作品の保存・収集技術について詳しく紹介したが、ヨーロッパのように美術館内に修復セクションを置いている施設など、日本にはほとんどないのである。
 上野の国立博物館規模の施設であれば、ぎりぎり置いてあるかもしれない。
 だが、その他の大半の美術館は、そういったセクションを設ける事のできるだけの予算を賄えていないのである。
 日本のほとんどの美術館が、民間の修復家などに外部委託せざるを得ない状況である。

 日本の問題は、専門スタッフを置くだけの予算も、それを一から教育するだけのノウハウの蓄積も、持っていないのである。スッカスカなのだ。

 日本の美術館スタッフである「学芸員」がなぜ「雑芸員」と呼ばれているのかお分かりだろうか?

 日本の美術館・博物館では、専門スタッフを用意する事が出来ないため、館内の学芸員が会場設営や運搬管理、カタログ製作、照明手配、貸出作品チェック等の展覧会に関わる全般業務から、その他のワークショップや教育プログラム、保存、収集に至るまで――広く全てにわたる作業をほとんど手掛けているからである。

 専門スタッフがいない代わりに、ありとあらゆる仕事を学芸員がこなさなければならないのである。

 それに対して――嗚呼、ナショナル・ギャラリーの何と充実した設備、何と充実したスタッフ陣よ!
 本作では、ナショナル・ギャラリーの財務ミーティングで、スタッフが昨年の収益よりも今年度のほうが厳しく、スタッフの削減によって●●万程度の収支にはなりましたが……等々財務状況の厳しさについて喧々囂々議論しているシーンも出てくるが――それでも、日本のミュージアムの財務状況の寒さよりかは、マシなのである。

 日本の美術館が外部委託しているのは修復だけではない。

 この映画を見て少々驚いたのが、収蔵作品を収める額縁の制作専門スタッフまでも美術館が雇っているという事である。
 西洋美術の歴史を考えれば、それも当然の事なのかもしれない。

 作品を飾る額縁は以前も呟きにてご説明したように、施設内の環境と作品内世界の相互のイメージをスムーズに橋渡しするための重要なものなのである。
 施設内の環境に合わせて、そして、周囲に並べる絵画との取り合わせや流れ等も踏まえて、額縁をこしらえ、作品を引き立てなければならない。

 当然、額縁は作品の内容、そして作品が掲げられる場所、によってスタイルを変えなければならないのである。

 ――だが、日本ではどうであろうか。

 ぼくは寡聞ながら、美術館内に額縁制作セクションを置いている美術館など、今のところ聞いた事がない。これもほとんど外部発注と言ってよいのではなかろうか。

 それだけではない。
 日本の美術館のWebサイトを見れば、どこもかしこも「美術館ボランティア」というのを募集しているのがわかる。
 昨今の日本ではギャラリートークさえをボランティアが行っていたりすることもある。ワークショップや関連イベントなどの運営スタッフとして、ボランティアが働いている所もけっこう見かける。

 こういった現状を考えても、日本はそういった一般向けの教育普及活動にさえボランティアに頼らざるを得ないような状況にあるという事だと言えるだろう。

 これが日本のアート・シーンの現状である。
 あまりに、貧しい。
 日本政府が、あまりに「文化」に金をかけてこなかった影響が、こういった所にも出ているのである。

◆◆◆

 この映画を見て、勉強になった事は無数にあった。
 知的好奇心の満足だけでなく、資料的価値にしても、この映画は見るべき価値のあるものだと言える。

 例えば、本作ではしばしば現場スタッフが「照明」について、議論や立ち話や打ち合わせをしているシーンが出てくる。

 三面ある大きな中世のキリスト磔刑図を展示スペースに設置するシーンが劇中に出てくる。
 作品を保護ケースに入れてみると、どうだろう。頑丈な保護ケースは大きく作られている分、照明が上から当てられると、作品上部にケースが影を落としてしまうのである。
 これを気にしたキュレーターが、照明スタッフと現場で打ち合わせをする。
 作品の各部に落ちた陰の光度を図りながら、キュレーターが数メートル上の天井に張り付いた照明スタッフがに大声で十数個の照明を少しずつ動かすように指示する。
 少しでも作品をよりよく見せるためには、余計な影が落ちていては邪魔なのである。かといって、作品を保護するケースを取り換えるのは大作業だ。
 このケースの場合だと、天井以外にも床の付近や保護ケースにくっつけるようなタイプの照明を用意して別角度からも照明をあてるという方法も考えられる。だが、あまり光を強くし過ぎてしまっても、作品の退色を進ませてしまう事にもなりかねない。
 キュレーターは、こういった些細な現場での問題について、現場スタッフと密な打ち合わせによって妥協点を探っていかねばならない。

 「照明の当て方」というのは、作品とは切っても切れない関係なのである。
 それどころか、「なくてはならない問題」でさえあるケースもある。

 そういう「光の問題」をくっきりと浮かび上がらせたのが、あるキュレーターたちによる、館内での立ち話のシーンだ。

 ある男性キュレーターが、他の若手スタッフに、美術作品における照明の関係について解説している。

 17世紀、チャールズ1世の美術品管理人は、作品を飾っていた時に光が左右どちらから当たっていたかも記録していたという。

 ――「今はそんなことはしていない。電灯が上から当たるのに慣れ過ぎているからね。記録をとる重要性を分かっていない。当時は絵の光と自然光を合わせて飾っていた」

 キュレーターは説明する。
 宗教画でも、クライアントである教会の、建物の日中の内部の光の当たり方によって、画家は絵の光彩表現を変えたという。
 当時の光の当たり方を再現すれば、「その絵に最適な照明の当て方」が分かるという。
 当時の画家は、美術館のように「真上から蛍光灯で光を当てる」という環境に合わせて描いていないのである。クライアントがその絵を飾ろうと思っている、その環境の日中の自然光に合わせて、作品の光の色合いを合わせていたのである。

 キュレーターは、その最も良い例として、一枚のルーベンスの絵を若手スタッフに見せる。

 それは17世紀ロコックス市長の邸宅に飾られていた一枚なのだという。

 17世紀の暖炉は上の棚が2mほどの高さにある巨大なもので、ルーベンスの絵画はその棚の上に掛けられていた。
 そのルーベンスは、美術館で飾られるような位置ではなく、もっと高く、鑑賞者は下から見えげるようなアングルでその絵を鑑賞していた。

 当時は窓も高く、日中の光は左から右に向かってさしている。
 ルーベンスのこの作品は、自然光が左側から当たっているので、左側が明るく、右になるにつれて暗くなる。
 右側の奥の部屋に隠れている刺客たちは、自然光の光と、絵画の暗色によって、まさしく闇に紛れて左側で光に当たっている男を捕えようと虎視眈々と機会を狙っている。

 しかし、通常の美術館において上から蛍光灯でこの絵画を照らしてしまうと、左側の主題となる人物らも、右奥に隠れている刺客たちも光にさらされて目立ってしまうのである。

 この絵を、当時の持ち主であるロコックス市長の邸宅の暖炉の上に飾ってみた所「絵が見事にハマった」のだという。

 主題となる左側の男女には明るい光が当たり、絵の中に描かれたロウソクは左(の実際の窓)から吹いてくる風によって右側に向かって揺れ、右奥の戸口に隠れている刺客たちは上手く闇の中にまぎれた。

 すべては、この作品が「左側に窓があってそこから日中、自然光が入ってくる」という環境に飾られるを想定して描かれていたという事を物語っていた。……

 このように「作品に当てられる照明」というのは、美術館展示論的な問題だけでなく、イコノロジー的な問題にまで関わってくる、作品の内容に非常に深くかかわってくる要素だったという事が、この作品から分かってくる。

 美術館の仕事によっては、このような角度からも「作品の謎」が分かってくるのである。

 嗚呼、つくづく、西洋の美術館の仕事に関われていたら、と思う。
 日本の美術館で、これほど濃密な仕事ができるだろうか?  彼らは決して「専門家」にはなれない。日本のキュレーターは、けっきょくは「雑芸員」でしかないのだ。

◆◆◆

 本作はこのように、世界最高峰の美術館の内部の様々な打ち合わせや会議や現場でのやり取りを傍からカメラで追う事によって、その内幕の事情や館内の様々な問題、そればかりでなくアートに関わるあらゆる研究成果が発見される様までをも生々しく捉えた、傑作ドキュメンタリーと言って良いだろう。

 だがこの作品が捉えているのは、そんな美術館の内側だけではない。
 この美術館に来館する観客らの表情や反応なども映し出している。

 例えば、ナショナル・ギャラリーで『レオナルド・ダ・ヴィンチ展』が開催される朝、分厚いコートを着て、携帯用のイスに座って開館待ちをする人々を捉えたシーンがある。

 老人、家族、恋人同士……モヒカンのパンク・ロッカー風の男性まで見られる。
 このように階級も人種も様々な観客らが展覧会を楽しみに待つその姿が、そのままこの美術館の「アートを楽しむ事に貧富の差なし」というスピリッツの表れなのだと感じる。

 言外に示す、行間によって伝える……これこそ製作者の目に見える個人的な演出を極力排そうとする一流のドキュメンタリーの作り方なのだろう。

 最後に、館内の旧約聖書の預言者モーゼを描いたプッサンの絵の前で、カメラが捉えたある来館者が、連れの女性に披露したジョークを紹介して、この稿を終わらせたいと思う。

「……神から十戒が刻まれた石板をもらって山を降りてきたモーゼは、待ち受けていた人々にこう言った。<今、神様に会ってきたんだが、良いニュースと悪いニュースがある。良いニュースは、神様に頼んで戒めを十まで減らしてもらえたって事だ。それで、悪いニュースなんだが……。十戒のなかに"姦淫の罪"が残ってしまった>」


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