◆読書日記.《中谷宇吉郎『科学と社会』》
※本稿は某SNSに2020年3月8日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
中谷宇吉郎『科学と社会』読了。
終戦の3年後の1949年に出版された岩波新書の特装版。
著者は世界で初めて人工雪の製作に成功するという業績を残した物理学者であり北海道大学理学部の教授。
本書はそんな著者による社会や政治と科学的思考とのかかわり方について考える科学エッセイである。
本書では「終戦後3年めに出版された」という出版時期はわりと重要になって来る。
というのも、わりと本書には「戦時中の反省」「戦後復興と科学」について言及されている部分が多いからだ。
著者は戦時中の日本全体に覆いかぶさっていた「非合理性」を批判する。
何より日本の上層部にいる人たちの壊滅的な非科学性を批判しているのだ。この「上層部」というのはいわゆる大臣だとか軍部の将校といった人たちの事で、これらの人々は絶望的に科学的な考え方が足りなかったと指摘している。
これは科学的であったら戦争に勝てたかどうかというレベルの話ではなくて、そもそも科学的な考えさえあればあの戦争をしようとさえ思わなかっただろうという意味だ。
「日本の上層部」がどのような非科学的な考えをもっていたのか、著者は物理学者としてそういった人々と接してきたうえで驚かされた事、呆れさせられた事などをいくつも挙げて説明している。
その中で最も傑作だったのは、やはり戦時下の首相・東条英機氏が行った演説でぶち込まれたとんでもない非科学的な発言だろう。
東条英機は演説で科学者を激励していたそうなのだが、その内容に「日本と倫敦を12時間で繋ぐ飛行機を作れ」というのがあったのだそうだ。これは「早い飛行機を作れ」ではなく「地球は二十四時間で一周自転をしているのだから、飛行機は地球の引力を振り切れば、浮かんでるだけでロンドンの上に来るはずだ」という事。これは「原理的に不可能だ」と著者ははっきり否定している。
確かに将来的に12時間でロンドンまで行ける飛行機は作れるかもしれないが、それは東条英機の原則にのっとったものとは違っている。
この東条英機の演説にはまだ続きがあって「無燃料の飛行機を作れ」というものまであったのだそうだ。
東条英機の考えでは「空気中には、水素も酸素も無限にある。水素と酸素とを燃やせば、非常に多量の熱が出る。それを動力にすれば、燃料なしの飛行機が出来るはずである。そういう点に、日本の科学者はもっと創意を発揮すべきであるというような趣旨であった。(本文より)」というものだったのだそうだ。
ここまでくるとどこかジューヌ・ヴェルヌの時代の空想科学の話を聞かされているようであるが、この演説を日本の主流メディアである大手新聞社の記事で読んだ科学者たちは唖然としたという。
もっと驚いたのは、この非科学的な演説を聞いていた当時の代議士たちが全員いっせいに拍手喝さいを送った事だったという。
東条英機と言えば東京裁判で処刑された戦時首相という印象が強いが、その実、戦時中は総理大臣・陸相・参謀総長を兼任できるだけの力量を持ち「カミソリ東條」言われたほどの切れ者だったとさえ言われた日本の一大知識人でもある。
その東條からして、科学的考え方についてはこのていたらくだったのだ。
この「日本の上層部の非科学性」というのは、戦後になって一新されたかというとそうではなくて「現在でも、日本人はどうしても、事大主義と官尊の気風とからは抜け切れない」とさえ言う。
戦時中はみんな特別に気が変になっていたのではなく、どうもこれは日本特有の病理のようなものなのかもしれないという事なのだ。
著者も「国民一般の根強い非合理性」を指摘している。なぜこうも日本人は科学的・合理的な考え方が弱いのか。著者は様々な原因を挙げて考えるのである。
例えば、西洋人はえらい苦労をしながら現代に至る科学の恩恵を得ているという部分があり、そういった「苦労して勝ち取った」ものが日本に欠けているのでは?というもの。
何しろ西洋はキリスト教教会の権威下で、聖書の内容にバッティングするような科学をやれば監獄に入れられるか、酷い場合には火あぶりにされる事もあった。
教会は、科学者に対して「無神論者」や「魔術師」というレッテルさえ貼れば、処刑せずとも民衆が科学者をつるし上げて処分してくれるという状況もあった。
西洋は、そういった中世暗黒時代の中にあっても死を賭してしぶとく科学を発展させていた人々がいたわけである。
日本には、そういった下地がない。
明治になって、西洋科学の成果を知ってからあわてて日本にもその考えを接ぎ木したために、科学の根本的な哲学が抜けているのではないか、と著者は考えるのである。
「科学的知識」だけを広く国民に植え付けたので、知識はあれど、その考え方に慣らされていない。
だから耳学問で「無燃料の飛行機を作れ」等ととんでもない事を言うような人が出て来る。
著者は、そういったものは「八百屋の丁稚さんより少しは科学的に見える」が、むしろそういった中途半端な知識による「耳学問」は科学の敵で、プラスよりもマイナスの効果のほうが大きいと指摘する。
西洋人は、科学的考え方や民主主義といった現代の西側諸国の主流を行く思想を、血で血を洗うような歴史を踏み越えて民衆が勝ち取ってきたという経緯があった。
だが、日本はそのイニシエーションを受けていないのだ。
日本の数々の政変も明治維新も日本の敗戦も、日本国民にとって全ては「お上の変化」でしかなかったのではないかと思う。
だから、ぼくが思うに日本国民の意識とは「戦争が起こった所で自分達には関係のない貴族同士の権力争いでしかなかった西洋中世の封建社会」と変わってないのではないか。
日本国民が自国の政治に関してあまりに無関心なのも、こういった封建的意識が変化していないからではないか。
主権者であるはずの日本国民に、どこか「政治の話なんかはどうせ自分達とは関係のないお上の方々のやる事ですよ」といったような他人事のような雰囲気があるのは、実に非民主主義的だ。
これも、日本が西洋の民主主義的な「知識」を教えられただけで、自分達の命を懸けて戦った下地や、根本的な哲学の下地が、決定的に欠けているためなのではなかろうか。
一国の首相が、眩暈のするほど非科学的な演説を行い、居並ぶ代議士たちがそれを拍手喝采で肯定する――こんな馬鹿馬鹿しい光景は、果たして終戦を迎えて変わったのか?
著者は「否」と主張する。
現代日本でも、そんな風景を国会で見る事が果たして「ない」と言い切れるのか? ぼくでさえ疑問に思ってしまうのだ。
◆◆◆
「数」というのは、人を惑わせるような、ある種の魔力があるのかもしれない。
数があれば「科学的」だとか「合理的」だと思うのは誤りだ。
組織の上層部が「数」にこだわり過ぎると、現場は「能率が下がってでも、質が落ちてでも、まがい物を混ぜてズルをしてでも」といった形で、数を合わせようとすることがある。
「クオリティ」というのは数に表現しにくいのだ。
『科学と社会』には次のような記述がある。
物が足りない時は、質は第二で、まず量という考え方が、この戦争の前後から、いつの間にか日本人の頭の中に浸み込んでしまった。そして質を云々することが、なにか悪いことのように、一般に思われている。たとえその議論が理由で通っている場合でも、贅沢とか我儘とかいう言葉で、簡単に一蹴されてしまうような風潮になってしまった。本当は、物が足りない場合は、まず質を吟味しなければならないのであるが、その逆をいっているので、物はますます不足するのである。
中谷宇吉郎『科学と社会』より
「質」というのは数や統計には表しにくい。
だからと言って「質」を度外視して測定から外してしまっては、科学的な考えにも合理的な考えにもならない。
物事の評価方法には定量的なものと定性的なものとで違いがある。
定性的にばかり考えると「数」が抜けてしまうし、定量的に考えると「質」を度外視してしまう。
本署にも、戦直後の時期の国からの配給物は「数」を与えられても「質」が低いので、国民の困窮具合が改善されていなかったと述べられている。
例えば、戦直後の日本の燃料の主流であった石炭も、燃えない石や燃えにくい石炭が混じっていて、グラムが揃っていても熱効率が悪かったのだそうだ。
中谷宇吉郎のいた北海道ではストーブに入れる石炭が国から配給されていたそうなのだが、これもなかなか燃えず暖かくならずに困っていたそうで、ある時、珍しく質のいい石炭が配給されたときなどは、中谷氏の妻が「あなた、今度のは燃える石炭ですよ」と興奮して喜んだ等というエピソードが紹介されている。
また、中谷氏が終戦直後に聞いたある会社の工場主の話もある――工場で使っている石炭にも砂利やら石ッころが混じっていてなかなか燃えなかったのだが、たまたま質の良い石炭が配給されたら工場の生産率が三倍に跳ね上がったのだそうだ。
つまり、これは能率が三倍になったのでなく、今までの能率が三分の一だったのである。
こういった数々の呆れるような事例について、本書の著者は次のように述べている。
これほど馬鹿げたことが、堂々と行われている場合には、『余りにも馬鹿げたことは、愚からは生まれない』という原理をあてはめて一度考えてみる必要がある。
中谷宇吉郎『科学と社会』より
では、「愚」ではなく、何なのか? もう一つ引用してみよう。
能率が上がっても、下がっても、問題ではない。役に立っても、立たなくても、全然かまわない。(略)。ただ帳面の上にある一定の数字さえ並べることが出来れば、自分の責任はそれで立派に果たせる。こういう人と制度に支配されているあいだは、泣き言を言ってもはじまらない。
中谷宇吉郎『科学と社会』より
これは何を言っているのかというと、日本の役人の「お役所仕事」の無責任さを批判しているのである。
これはお役所の話だけではなく、日本の組織の考え方にも当てはまる事なのではないだろうか。
つまり「愚」ではなく「自分一人だけが責任を負いたくない」という「組織の論理」や「政治性」が、科学を歪ませるのである。
昨今流行っている新型コロナは、死亡率はさほど高くないように見えるかもしれないが、症状が重症化すると後遺症が酷いと言われているそうだ。
これも「数」の統計には現れてきにくい「質」的な条件なのだが、そのために分かり易い「死亡率」や「重症率」のみに焦点を絞って患者の症状の状況を見ないというのは「非合理的」な考えに繋がるのではなかろうか。
つまり、新型コロナを評して「風邪みたいなものだ」とか「インフルエンザのほうがよっぽど死亡率が高い」と言って矮小化する考え方をする人がいるのも、「数」だけを見て「質」を見ないという「非合理」をやっている人がいるからなのではないかとも考えられる。
よって来る所は、どこにあるか。それは「その点は認めるが、"とにかく"」という科学に背反した考え方が政治の根源に巣食っているからである。真理のほうをまず無条件に認めなければならない。そしてそれに伴って起こる困難は、次の問題として解決の道に努力すべきである。それが科学的な考え方である。
中谷宇吉郎『科学と社会』より
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