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◆読書日記.《方方『武漢日記 封鎖下の60日の魂の記録』》

※本稿は某SNSに2021年9月8日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 中国の小説家・方方(fang-fang)による2020年初頭に75日間ロックダウンされた湖北省・武漢の様子を記録した『武漢日記 封鎖下の60日の魂の記録』読了。

方方『武漢日記 封鎖下の60日の魂の記録』


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 2020年1月初頭。
 「中国は武漢で正体原因不明の肺炎が発生」というニュースが世界で流れ始める。

 当初、湖北省の役人や政府系メディアは「ヒト-ヒト感染はない。予防も制御もできる」と明言していたのだが、巷では早くも「SARSではないか?」という噂が飛び交い始めていたという。

 そして、1月20日。中国の国家衛生健康委員会の高級専門家グループのリーダー、鍾南山教授が遂に「ヒト-ヒト感染は起こる」と明言、医療関係者14名が感染した事も報道された。

 1月22日。武漢を都市封鎖するという情報が報道される。

 1月23日。武漢は全域で突如都市封鎖される。
 この日から住民はもちろん、その時期にたまたま武漢に滞在していたボランティアも、仕事で訪れていた会社員も全て武漢外に脱出不可能になった。

 突如の都市封鎖のために静かな混乱に陥っていた市民の中にあって、いまある自分の仕事を中断してでも「全国からの注目を集めているこの武漢の庶民の日々の実情を知ってもらう」とブログ上で日記を公開し始めた女性がいた。

 それは湖北省作家協会の元主席、中国で最も名誉ある文学賞の一つである魯迅文学賞受賞作家であり、中国では「新写実主義」の代表的作家として有名な小説家・方方(fang-fang)氏であった。
 彼女は1955年南京生まれで、幼い頃から武漢に引っ越してきて以来ずっと湖北省で過ごしてききており、その作品の多くの作品は武漢を舞台にして庶民や貧民の家族関係や人間関係を描いてきた作家であった。

 方方氏は、ときに共産党の政策を否定的に描いた小説が発禁処分を受けるという経験も持っている。
 何しろ、武漢の女性は意志が強く、曲がった事が嫌いで、相手が役人でも軍人でも堂々と己を曲げずに喧嘩でも批判でもするという気質を持っているそうで、方方氏も今回のコロナ禍での中国の役人らの不手際を遠慮なく批判している。

 今回の感染症の話は、武漢の庶民の間でも2019年12月末日にはすでに話に上がっていたという。
 だというのに、湖北省の役人は「ヒト-ヒト感染はない。予防も制御もできる」と明言してこの感染症の脅威を過小評価し、1月20日に至る実に20日間も間違った情報を市民に流していた。

 役人も知らなかったのだろうか? 否である。

 感染症発生の初期段階で、医療従事者らに緘口令がひかれていたのである。
 武漢中央病院の眼科医、李文亮医師は、まだメディアで「ヒト-ヒト感染はない」と言われていたころ、この感染症の脅威をはっきりとSNSで「ヒト-ヒト感染は"ある"」と明言した事により、病院の上層部から訓戒処分を受けたのだという。

 行政は既に、知っていたのである。

 医師や警察など、武漢人に非常に顔の広い著者の方方氏はこの事実をSNSを通じて仲間から知り、感染症の脅威を矮小化して伝えた人々を遠慮なく糾弾し始めるのである。

「反省と追及はセットである。厳しい追及がなければ、深い反省もない。感染症がここまで広がった以上、それは私たちが絶対にしなければならないことだ。いまのところ、人々はまだ記憶している。細かい経緯も、深く脳裏に刻まれている。いまこそ、始めるべきだ(本書P.217)」

 方方氏はたびたび、ネットの検閲に引っかかってこのブログの記事を削除され、「極左(中国での政権擁護派は左翼であり、日本で言う所の"ネトウヨ"のような存在)」から「非国民」だ「災害時に政権批判など以ての外だ!」等という猛烈な批判にさらされる事となる。

 だが、「女将(ニュージアン)」と呼ばれる武漢女性である方方氏の筆鋒は衰えない。
 何度削除されようと、何百と言う攻撃的なコメントが寄せられても、彼女はデマを流した医師や役人の責任を徹底的に追求し、庶民の現状に寄り添う事なく湖北省の政策を褒めたたえる自称「愛国者」に「節度をわきまえてほしい」と批判する。

「現在、私はもう湖北省作家協会主席ではないが、一人の作家ではある。私は湖北省の同業者に、ぜひ忠告しておきたい。今後おそらく、功績をたたえる文章や詩を書くことを要求されるだろうが、筆を執るまえに数秒考えてほしい。功績を称えるべき対象は誰なのか。媚びへつらうにしても、節度をわきまえてほしい。私は年老いたとは言え、批判精神は衰えていない。(本書P.34)」

 ――これは、そんな方方氏による、コロナ禍初期における武漢のロックダウン期の記録である。

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 コロナ禍にあった、他国の都市の一個人のリアルな日常の記録というのは、わが国の状況を相対化させてくれる新鮮な視点であった。

 まず、特筆しておくべきは、本書のオビに文章を寄せている仏文学者の内田樹氏の指摘している部分であろう。

「中国に言論の自由がないと思っている人たちはこれを熟読すべきだ。言論の自由は、いかなる政治体制下であっても、勇敢で志の高い個人が身銭を切って創り出すことができるということを作者はみごとに証明している。――内田樹」

 もちろん、中国はネット上の書き込みの内容に関して検閲を行っている公的な部署があり、本書の元となった方方氏のブログの記事は何度も検閲に引っかかって削除されているという。
 だが、方方氏は「たとえ書くたびに削除されても、私は書く」と言い、実際60編の文章を書きあげ、これはぼくがいま手にしているように、日本や、英語版など海外での出版までもが決まったのだ。

 わが国では「日本の現政権はファシズムに片足を突っ込んでいる」という指摘に対して、「そんな政権批判が堂々まかり通っている国がファシズムなわけないだろうwww」等と突っ込みを入れるネトウヨを見かける事がある。
 こういう人たちは、勘違いしているのである。
 ぼくは以前から幾度か言っているのだが、 独裁国家であってもファシズム国家であっても、政権批判はできる。――ただし、民主主義国家と違うのは、その批判者に何かしらのペナルティや不利益が生じるのが「独裁国家」や「ファシズム国家」たるゆえんなのだ。

 そう考えると、わが国と、共産党一党独裁国家である中華人民共和国と、何ほどの違いがあるのだろうか?

 わが国では明確に「批判すると不利益を生じる」事案や、「それを言っちゃうとある種のペナルティが課せられてしまう」という事案などはいくらもあって、言論人の呉智英氏などは「日本は戦後75年、一貫して言論の自由などはなかった」とも主張している。

 方方氏は、盲目的に政権擁護をし、政府の不作為や不正、ミスに対して批判する事を封じようとする自称「愛国者」や「極左(日本で言うネトウヨ的存在)」に対して、明確に「極左は『国家と人民に災いをもたらす存在』なのだ!」と真っ向から批判している。

「彼らは改革開放の最大の障害である!これらの極左勢力を野放しにして、そのウイルスを社会全体に感染させたら、改革はきっと失敗する。中国には未来がない。(本書P.305)」

 言っている事は中国的な立場に立った批判だが、基本的には「自称愛国者などと称して盲目的に政府のやる事に媚びへつらっている連中」を批判するというスタンスには変わりない。

 これは、わが国の現状と比べてみても、ネトウヨ的な連中が「国家と人民に災いをもたらす存在」だという事と全く事情は同じだろう。

 彼らは保守だとか、共産主義者とか、そんな自ら主張しているイデオロギーで動いているわけではない。

 彼らは単なる「権威主義者」なのである。中国の極左も、日本のネトウヨも、同じだ。
 だから、本書を読んでいると、中国の自称愛国者である極左がやっている事というのは、あきれるほど日本の自民党やネトウヨがやっている事と似ている。

 政府が感染症の情報について誤魔化した事について厳しく追及すると、やれ「非国民だ」だの「災害時に政府を批判して足を引っ張るな」だのという攻撃がいっせいに押し寄せる。

 ある仮設病院に視察に来た政府高官は、ベッドに横たわる患者らに対して「共産党がなければ新中国はない」と高らかに歌っていたという。
「この歌は誰が歌ってもいいが、どうして病室で高らかに歌う必要があるのだろう?ベッドに横たわる患者の気持ちを考えたことがあるのか?これは伝染病ではないのか?患者は呼吸が苦しいのではないか?(本書P.80)」という著者のツッコミはまことに正しい。中国の政治事情であったとしても、海外のわれわれが聞いても著者の方方氏の指摘のほうが正論だと思うだろう。

 また、方方氏は、武漢に来た呼吸器内科の医師として当初「予防も制御もできる」とほぼ断定的にと主張していた王広発医師が、その後自分が感染してしまった事についてまったく反省する様子も自分の発言を撤回する様子もなく、それどころか自分には一定の功績があるかのように語った事について「少しも罪悪感を抱かないのか? 仁愛の心はどこに行った? よくも、すらすらと自慢話ができるものだ」と苛烈に批判している。

「ああ、中国人は自分の誤りを認めようとしない。後悔することも稀で、なかなか罪悪感を持たない。これは文化と習慣に関係しているのだろうか?(本書P.41)」――とは言っているが、この著者の嘆きは「中国人は」のところに「日本の現政権担当者は」を代入してみても意味が通じるだろう。

 こういった中国での、自称愛国者を名乗る人々や、責任を取らず反省もしない湖北省の役人たちなどに対する著者の批判を見ていると、ほとんど今の日本の政治状況と同じなんじゃないか?という感覚を持ってしまう。

 いみじくも本書の推薦者である内田樹氏が以前、Twitter上で「日本の現政権は中国共産党と親和性があるのではないか」といったような事を指摘していた点が思い出される。

 どうやら権威主義者というものは、どこの国にとっても、国をむしばんで死に追いやっていく「ウイルス」のようなものらしい。
 ちょうど方方氏が中国の極左分子を「まるで新型コロナウイルスのように、少しずつ私たちの社会を蝕んでいる」と表現した通りである。

◆◆◆

 と言った感じで、本書は著者の方方氏の批判精神についても見どころの一つではあるのだが、彼女は何から何まで批判しているわけではなく、だいたいにおいては基本的に「政府に全力で協力する」と主張し、武漢の約二か月半に及ぶロックダウンの状況を冷静に記録している。

 方方氏が批判するのはあくまで、この大災害時にあって社会と人民に災いをもたらす言動や人物に対してだ。

 あとは、非常に冷静に、日々の生活を記録している。

 上述しているように、中国の役人や医師の中にも、日本にもいるような不届き者というのはいるものだが、それでもこの感染初期の都市封鎖は正しい判断だったと思う。

 本書では日々、このコロナ禍の感染状況で一日どれくらいの感染者が出ているのか、膨大な数が出てウイルス感染している死者の遺体がどのような処分をされたのか、最前線で戦っている医療従事者がどのくらい感染して死者を出しているのか――次々にスマートフォンに入ってくるニュースやSNS上でやり取りしている武漢の人々からの情報によって、その当時の緊迫した状況を伝えている。

 まだ感染症が確認されて何か月も経っていない初期の状況であり、ウイルスの正体も、その症状も、感染ルートも、治療法も全くわからない中、次々と感染者数が増加している状況。

 外出が制限され、ほとんどの病院が感染症対策に宛てられたために、持病を持つ人たちの治療薬や診察も滞ってしまっていたという。
 マスクも当初は入手困難であった。

 そんな中、武漢の人々はSNSでマンション内の住人達と相談しあい、代表者がまとめて食料品を買いだして、ネット上で整理券を配布して住人が順にエントランスに出てきて注文した食料を受け取るといった食料の調達ルールを決める等という工夫が自然と始まったという。

 また、海外にいる華人や他国から救援物資が次々に武漢に送られてくるようになった。

 一時的に武漢に滞在している間に都市封鎖にあって帰れなくなったボランティアや会社員に対する救援も始まった。

 医療従事者の間では日々様々な議論が巻き起こり、みな必死になって現状の改善に努めていた。

 これは、未知の脅威のウイルスに突如襲われた都市の初期の状況を庶民の視点から克明に記録した、非常に優れたドキュメンタリーであった。

「私は言っておきたい。ある国の文明度を測る基準は、どれほど高いビルがあるか、どれほど速い車があるかではない。どれほど強力な武器があるか、どれほど勇ましい軍隊があるかでもない。どれほど科学技術が発達しているか、どれほど芸術が素晴らしいかでもない。ましてや、どれほど豪華な会議を開き、どれほど絢爛たる花火を上げるかでもなければ、どれほど多くの人が世界各地を豪遊して爆買いするかでもない。ある国の文明度を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度をとるかだ。(本書P.141)」

 著者のこの主張は、違う国にあり、違う政体にある我々もおおいに納得し共感できる主張ではなかろうか。

 ――では、ひるがえってわが国の文明度は如何?


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