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◆読書日記.《三島憲一『ニーチェかく語りき』――シリーズ"ニーチェ入門"17冊目》

※本稿は某SNSに2021年9月19~24日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 三島憲一『ニーチェかく語りき』読了。

三島憲一の『ニーチェかく語りき』

 本書は19世紀末の思想家ニーチェが後世の人々にどのような影響を与えたのか?その影響関係を20世紀に活躍した思想家や芸術家を対象に解説していく現代思想入門。

 本書では6名の思想家・芸術家と1派の思想学派を取り上げて解説している。

 通常ニーチェの影響関係で挙げられるハイデガーやフーコーが取り上げられているのは常道としても、舞踏家のイサドラ・ダンカンや小説家の三島由紀夫などへの思想的影響関係も説明してくれている所が面白い。

 特に本書の冒頭で解説されているアメリカ出身の舞踏家で19世紀末から一次大戦期にかけてヨーロッパで一世を風靡した舞踏家イサドラ・ダンカンの舞がニーチェの思想に影響を受けていたという指摘はユニークだ。

 イサドラ・ダンカンは1877年サンフランシスコ生まれのダンサーで、幼少時から音楽や古典舞踏の教育を受けて育ったが、彼女はその古典的な慣習性に嫌悪感を示していたという。
 人体として無理な姿勢である爪先立ちを基本とするバレエのやり方を鼻で笑って相手にせず、裸足で踊ったために「裸足のイサドラ」と呼ばれた。

 彼女は古代ギリシアの美的感覚に大きな影響を受けていたようで、古代ギリシアの壺絵に描かれたギリシア人の優美さ、その踊りに深いインスピレーションを受けたという。

 ギリシャ風のチュニックを纏い、裸足で即興的なダンスを踊るイサドラの姿はロンドンの上流階級の眼にとまり、たちまちスターダムにのし上がった。

イサドラ・ダンカン

 イサドラ・ダンカンのバッカスの巫女たちの踊り――「ディオニュソス的な動き」というものについては、写真のように「頭を後方へそらせる」という動きに象徴的にあらわされているという。

『イサドラ・ダンカン 芸術と回想』でその説明がなされている。

 バッカス舞踏の最も一般的な動きのひとつは、頭を後方へそらせたものである。この動きには、全身を捉えているバッカスの狂乱が、直感される。この身振りの根本となっているモティーフは、すべての自然の中に見出される。バッカスの動きの中で、動物は頭を後方へ曲げている。「熱帯の夜、象たちはその頭を曲げ、犬は月に吠え、ライオンも、トラも同じである。これは普遍的なディオニュソス的うごきである。海の潮は嵐の時にこれと同じ線を描き、暴風雨の時の樹木もまた同じである。――シェルドン・チェニー編『イサドラ・ダンカン 芸術と回想』より

 イサドラが説明しているバッカス舞踏の考え方というのは、ニーチェが『悲劇の誕生』で提示している「ディオニュソス的-アポロン的」という美学概念と同様の物である。

 イサドラの中で、古典舞踏による形式主義的で秩序立たされ、明確なルールの定まった動きというものは、ディオニュソス的に否定されるのである。
 つまり、ニーチェの提示しているディオニュソス的な美的概念――熱狂、情熱、奔放、陶酔等々に象徴される「動き」が、型のないある種のモダンダンスの動きに繋がるパッショナブルな感覚の即興性がイサドラ舞踏の根底にあるのだろう。

 このような彼女と、「古代ギリシア主義者」であったニーチェが思想的にも感性的にも近い所にあったというのは良く分かる話で、イサドラはバッカスの巫女たちの踊り――つまりはディオニュソス的な動きを表現する事に情熱を燃やしていたという点も、ディオニュソス的思想家であるニーチェと親和性が高いと言える。

 高度に様式化された硬直化した古典舞踏に反感を持った彼女がニーチェ的な「伝統的価値観を破壊する思想」に共感したのは自然な事だったのかもしれない。
 その上、古代ギリシア的なインスピレーションも共有していたというのは強かった。彼女は、古い慣習からの反動としての「モダン・ダンス」の祖となったのである。

 そういった意味で、ニーチェが「ユーゲント・シュティール(青春様式)」の体現としての思想であったという三島憲一の指摘は、ぼくとしては目から鱗が落ちるような思いであった。

 三島氏のニーチェ論は、岩波新書『ニーチェ』での、『悲劇の誕生』における美的救済論という論旨においてもユニークであった。

 ニーチェの文章はなんといっても、当時の大人の生活スタイルに対する青年の反抗を体現していた。「われわれは『ツァラトゥストラ』をすでに授業中に隠れて読んでいた。プロテスタントの宗教の時間に読むのがことのほかひそやかな喜びだった。(カール・レーヴィット)

 ニーチェの思想にある、西洋の伝統的思想や伝統的道徳を疑い、厳しく追及するスタンスと言うものが、後年のユーゲントシュティール(青春様式)の時代の先駆けとしてあった。

 青年の古い慣習を「窮屈」と感じる反抗的・反体制的な情熱を鼓舞するような力が、ニーチェの思想には伏在していたのである。

 その顕在的で、直接的な影響関係がイサドラ・ダンカンにあったというのが三島憲一の指摘の一つであった。

 確かに、ニーチェの常識懐疑的なスタンスというのは、ユーゲントシュティールに共通性が見られるのだが、それを指摘した日本の思想家というのは日本の研究者の中にはほとんどいなかったようなのである。

 何故かと言えば、日本においてはハイデガーの「ニーチェは西洋の伝統的な形而上学を"ニヒリズムの歴史"であったと看破した」という哲学的理解が主流を占め、ニーチェのそういう側面を見落としてきたというのである。

 ぼくも本年ずっとニーチェを読んできたのだが、三島憲一のこの指摘は目の前にぶら下がっていながらも終ぞ気付く事のなかったポイントを指摘されたかのようで、目を開かされた思いがした。

◆◆◆

 ニーチェの思想が後の世に広範な影響を与えたのは、ニーチェの思想が哲学だけでなく、美学についても取り扱っているという点に理由の一つがあるのだろう。その辺の事情を上にも書いたようにイサドラ・ダンカンへの影響や、三島由紀夫への影響も踏まえて本書で説明している。

 三島由紀夫については、昭和41年にドイツ文学者の手塚富雄との対談で「非常にニーチィズムなんです。戦時中に書いたものですけどね。あのころはいちばん『ツァラトゥストラ』やニーチェ全般にかぶれていたころかもしれません」と三島自身が述懐しているという。

 三島には『不道徳教育講座』という著書もあるくらい、思想的には世間一般の通俗的な「道徳」を挑発する側面を持っていた。
 これは「反逆児」の思想家としてのニーチェの影響でもあり、上述したようにユーゲント・シュティールとしてのニーチェ受容の一つでもあったと考えられる。

 戦後派という時期では、三島のような性的マイノリティは世間からの偏見の目がまだ強く、それに対する「世間への反感」も当然三島の中では渦巻いていただろう。

 そういった立場から言えばニーチェ的な「通俗常識」に対する懐疑、そして「道徳」といったものさえ根源に遡及して批判する思想的強靭さといったものは、批判的精神を鼓舞する効用があったに違いない。

 三島のディオニュソス的な陶酔の美学、残虐と祝祭の美学、破壊の美学、妖艶な美学……そういったものは、ニーチェの「キリスト教的な禁欲主義批判」につながるし、またそれはバタイユ的なエロティシズム論、禁欲主義批判にもつながってくるものだ。

 ハイデガーがニーチェを西洋の伝統的な思想史の文脈に組み込んで伝統的認識論批判ー伝統的西洋思想批判を扱ったのに対し、バタイユはニーチェの思想を本格的に宗教論や芸術論、または社会学や人類学に適用したと言える。

 芸術が宗教権力や国家権力という枠組みの中でしか通用しない理不尽に対し、もっと言えば自由さえもが国家的な制度によって保障された秩序的-アポロン的自由でしかないという現状に対し、制度を外れたディオニュソス的なスタンスへの憧憬を語ったのがバタイユであったともいえる。

 それはバタイユの労働-消尽という文化人類学的な視点にも繋がってくるし、エロティシズム論にも繋がる視点である。

 こういった視点の広さというのはニーチェ思想の特徴の一つでもある。

◆◆◆

 後世の多くの思想家がニーチェに影響を受けた理由の一つとして、ニーチェの扱うテーマ広さというのも一因としてあったのだろう。

 真理は一つではなく、多数ある。それどころか「真理」というものは、時代の要請に従って「でっちげられる」ものでもある。
 そういった批判精神の影響を受けていち早くニーチェに関する討論会を開いたのがフランクフルト学派であった。

 ドイツからの亡命知識人ら、マックス・ホルクハイマー、テオドール・アドルノ、ヘルベルト・マルクーゼ等といったそうそうたるメンバーがロサンゼルスに集まったのは1942年という戦時中の事であった。

 この討論会は、ちょうどナチスがニーチェ思想を自らのイデオロギーのために利用していた時期に「ニーチェをナチスから奪還する」目的で行われたという、戦後のニーチェ理解の先駆であったとも考えられる。

 ニーチェを読むと、彼の理論が真であるいくつかの要素が見つかります。民主主義のみでなく、社会主義も一個のイデオロギーになってしまったことをニーチェは見抜いていました。現在では、社会主義もそのイデオロギー的性格をなくすようなかたちの表現をとるように工夫しなければなりません。ある種の危機的なものごとに関してはマルクスよりも先に進んでいます。(『ホルクハイマー全集』より)

 このようにニーチェの思想には「徹底的懐疑」のスタンスが見られ、こういったニーチェの批判精神が20世紀思想に大きな影響を与える大きな一因となったのは間違いのない所であろう。

 ニーチェの「懐疑」は"早すぎた"のかもしれない。19世紀啓蒙主義をいち早く疑ったのがニーチェだったのかもしれない。

 ヘーゲルが近代西洋的知性主義が歴史の頂点に至っているものだと高らかに謳い、誰もがヘーゲルが西洋的知の一つの達成であると考えていた時代に、その西洋の伝統的知性をいち早く、真っ向から否定したのがニーチェであった。
 道徳批判やキリスト教批判、民族主義批判はそのニーチェの一側面だったのである。

◆◆◆

 ニーチェがこれだけの多様な側面を見せ、それぞれの多様な受容を与えていた理由の一つには、ニーチェが主な表現形式として「アフォリズム」を採用していたという所も大きいだろう。

 だが、このアフォリズム形式というものは、ナチスの国家イデオロギーへの悪用という副産物も生んでしまった原因ともなったと言えるだろう。

 ニーチェの思想はアフォリズム形式だからこそ、その断片を「抜き取り易い」という特徴があるのだ。この特徴は、利点でもあるが、大きな欠点でもある。

 誤解されやすいし、意図的な誤読に利用されやすいものでもあるのだ。
 その具体例がニーチェの実妹エリザーベトによるニーチェ思想の恣意的編集であった。

 日本で近年ベストセラーになった「超訳・ニーチェ」についても「元気になる」という意味では効用は大きかったのかもしれないが、これもある種ニーチェ思想の恣意的切り取りであり、恣意的編集であったという反省は必要だと思える。

 これは日本の若者がSNSを中心とした「短文文化」をメインとしている危険性にも相同的な問題なのかもしれない。

 つまり「コンテキスト」を無視した短文の抜き取り、というものというのは編集次第で如何様にもニュアンスを歪められるのである。

 だからこそ「コンテキスト」を無視してはならないのだ。これはニーチェ自身も生前、警告していた事でもあったのだ。

 最悪の読者は、兵隊による略奪行為のように、使えるものをいくつか取り出し、残りのものを汚し、ひっくり返し、そして全体を凌辱するのだ(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』)より

 ニーチェのテクストは、柔軟だからこそ、悪い方向にも利用されやすいのである。

 上述したようにSNSを中心とした「短文メインの文化」というものは、そういった自分の都合の良いように権威的な他者の文章を、引用元の文脈を無視して利用する「チェリーピッキング」の問題が必ず絡んでくる。
 ナチスによるニーチェ思想の利用はニーチェだけの問題ではない。我々の現代的な問題にも対応しているのである。


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