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◆読書日記.《筒井康隆『文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー』――シリーズ"ハイデガー入門"1冊目》

※本稿は某SNSに2020年2月2日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 筒井康隆『文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー』読了。

文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー

 本書から今年のぼくの「ハイデガー研究」をスタートさせる。
 念のため断っておくと、ぼくは本書を読む以前はハイデガーについてはほとんど教科書的な知識しか知らない。この段階から各入門書・解説書の類を読んで行って、最終的にハイデガーの主著『存在と時間』を通読する、という所までを目標としようと思っている。

 本書は「文学部唯野教授」とあるが、これは唯野教授シリーズとは関係のない、単に筒井康隆なりの「ハイデガー入門」に関する講義録を文字おこししたもの、といった感じである。

 ただ、さすが「唯野教授」シリーズを題に冠しただけあって、あのハイデガー思想を分かり易い文章でジョークを交えて解説してくれている。

 だが「唯野教授」を読んだときにも思ったのだが、自分としては筒井康隆の哲学理解というのはどれだけ当を得ているのか、ぶっちゃけアヤシイ部分が多いと思っている。

 というのも、例えば本書にはハイデガーの師匠筋にあたるフッサールとハイデガーとの確執についても書かれているのだが、それを説明するために簡単にフッサール思想の概説を行っている。
 で、これの説明がマズイ。
 ぼくはフッサール思想については一年かけてガッツリ勉強した後だったので、そのズレようというのがありありと分かってしまう。
 フッサール思想には一般的にも誤解が多いが、筒井康隆の理解はあまりに無理がある。

 例えば、フッサールがものを見る場合、その意味についてカッコに入れ、そうやることによって本質を見きわめろ――といった感じのが、筒井康隆の「超越論的主観性」の説明。
 で、この本質はイコール「形相」とも書く。
 そして、その形相とはイデアだという。
 これだと「本質=形相=イデア=真実」という構造かと読む人が誤解してしまう。

「フッサールに言わせれば、それはじっと見ていれば本質が見えて来るというので、このへんは宗教に近くなってくるんですけども(後略/(本文より引用)」などと書いているが、そんなことはなくて、これはまったくの間違い。
 これは『論理学研究』~『イデーン』~『西洋諸学の危機~』の流れが分かっていない断片的な理解である。

 ということで、こういった部分からも筒井康隆の哲学理解というのは正確なものなのか?というのが不安だったのだが、本書の解説を書かれている"社会学者"の大澤真幸氏によれば「唯野教授の『よくわかる』解説は『存在と時間』の理解としてまことに正確である」と書いているので、内容についてはそこまで大きく間違っていることはないのではないかと期待しようと思う。

 ただし、やはり「唯野教授=筒井康隆」には、「間違ってるとまでは言えないが誤解を与えやすい説明」や「間違ってはいないが、全く上手く説明できていない説明」というような記述も多いので注意が必要だと感じる。

 例えば、ぼくは筒井康隆の『文学部唯野教授』の中の説明で初めてロラン・バルトの「テクストの快楽」という概念に触れたのですが、これがサッパリ何を言っているのか分からなかった。
 「言っている言葉は平易なのだが、その意味する所が分からない」といった感じだった。

 その後、バルトの『テクストの快楽』は実物を読んでみて、改めて唯野教授の説明をふり返ってみてそのマズさに辟易としたものであった。「痒い所に手が届いていない」のである。

 つまり、筒井康隆は思想を解説することについては、「分かり易い文章」を書けていても、「分かり易く教えられていない」という事である。
 これは、単純に「分かり易く教えるセンス」に欠けているという事。

 そういった特徴は本書も共通していて、ぼくは本書であまりに幾つもの疑問を抱えてしまって、これじゃこの一冊でハイデガーの概要を知ろうたって絶対ムリだな、という気分にさせられてしまった。

◆◆◆

 以下、本書を読んだ限りでの「唯野教授式ハイデガー解説」の要約とそれに対する疑問点を書いてみよう。

 ハイデガーの『存在と時間』の主な研究対象は「現存在」と称する「自分=人間」の存在だ。この現存在は時間と関係している。

 ハイデガーとしては「存在の意味は時間である」という事を『存在と時間』で証明したかったそうだが、これは途中で断念する。

 だが、未完ではあるが、その中での『存在と時間』の論旨の基本線は「現存在=人間」についての研究と言うことになる。

 人間は有限の存在だが、何故有限なのか。「人間は必ず死ぬ」からだ。

 人間は必ずいつか死ぬ。これは誰でも知っている事だ。
 だが、人は普段、そんなにしょっちゅうしょっちゅう死のことばかり考えているわけではない。

 むしろ仕事に没頭したり気晴らしをしたり趣味に夢中になったり……という「死から目を背けるようにする生き方」をしている。これを「非本来性」という。

 この「非本来性」とは、良い悪いとか正しい正しくないとかいう事ではなく「非本来性というのは我々の普段の生き方ですから、それが我々の根源的な、いちばん積極的なあり方だと言っています(本文より引用)」との事。

 それに対して、その「死」を見つめて、その苦しみとか悲しみを引き受けていく生き方を「本来性」と言う。

 「非本来性」というのは倫理的に言っても本質論的に言っても良いとか悪いとかいうのではなく、我々の元々の日常の生き方の状態なので悪い意味はないというのがハイデガーの説明にあるようなのだが、この非本来的な状態になる事を「頽落」と言うそうだ。
 これも実際はネガティブな方向の言葉のことらしい。

 非本来的な「頽落」の状態に陥ってきた「現存在」は、創造的でなくオリジナルの意味生成でもない何気ない雑談=「空談」をし、あるいは「空談」の文章版である「空文」を書き……と言った事によって死から目を背け、死を忘れようとする。
 だが、そういった非本来的な行動の背後には、常に不安感が存在している。

 普段、非本来的な生活行動をしている我々は「空談」や「空文」など退廃的な行動を重ねて「不安」を紛らわせようとするが、いくら喋っても喋り終えれば不安は甦る。

 だから、非本来的な生活とは、普段から空疎な会話を何度も繰り返していく事になる。

 ハイデガーはこの「不安」というのは「死への不安」なのだという。

 「不安」の内容については、本書の文章を引用しよう。

 不安というのは、対象がないんです。なぜないかというと、ないのが当然で、これは不安のもとは自分自身なんですね。自分が死ぬということです。そしてこのときに初めて本来的な自分に直面しているんです。(本書より引用)

 「不安」は死を見つめているから「不安」になっているわけで、つまり「不安」というのはハイデガーのいう「本来的」なことなのだと。

 「現存在」にとって「死」は忘れようとしても誤魔化せない厳然とした事実として、ある。

ハイデガーの哲学は、この「死」に目を向ける本来性へと「現存在」を案内しようとする。

 「死」からは逃げる事ができないので、それを生きている内に先行して了解する。
 これを「先駆的了解」と言っている。
 「先駆的了解」をする事によって「現存在」は初めて「死」から自由になれる。
 「死」がある事を予め了解しておけば、今現在自分が何をしなければならないかという方に考えを向けてくれるのだそうだ。

 また、ハイデガーは「不安」を「良心の呼びかけ」なのだと主張しているそうだ。
 ……ここらへんのハイデガーの「不安」には、ぼくにはどうも疑問が多くて困る。
 なんと言うか、あまりに「死」に対する恐れを人間存在の中心に持って行きすぎてはいないだろうか、と思ってしまうのだ。

 我々が「空談」をするのは「死」から目をそらしているわけではないし、筒井康隆の書きぶりだと、まるで「非本来的」な行動や生活を送っていないとすぐ「不安」がぶり返してくるかのようだ。
 そんなに死の恐怖に震えている人ばっかりなのだろうか、とぼくには疑問なのだ。

 この疑問はもしかしたらドイツと事情が違っているから出てきているものなのかもしれない。

 少なくとも現代日本では、改めて「死」について考える機会もないし、「死」について友人知人と話し合う事はない。

 特に現代日本では「死」を常に身近に感じるような環境ではないので、それほど死を意識する事には違和感がある。

 だから、本書で説明しているような、人々の日常生活の背景では常に「死への不安」が付きまとって人々を苛んでいるかのように言うのは疑問しか湧かない。

 死への恐怖よりも、生活への不安、将来への不安、仕事への不安、明日のプレゼンが成功するかどうかの不安等々もっと切実な不安はいくらでもあるだろうに。

 だが、例えばチベットのように普段から積極的に家族や友人知人と「死」について語り合うような文化などもあるので、国や地域によって事情は違っているかもしれない。チベットのように宗教観が違っていると「死」に関する感じ方というのも違ってくる。
 という事はハイデガーの言う「死への不安」というものは世界共通の心理ではないのではないかとも思われる。

 そういう事もあってハイデガーの考え方は、ぼくにとってはどうも普遍性をあまり感じないのだ。

 だが、死についての不安に関しては『存在と時間』が一次世界大戦後に出版されたという時代背景を踏まえての当時のヨーロッパという時代に限定された理論ではないか、とも思える。
 事実、解説で大澤真幸氏は『存在と時間』のヒットの背景はそういう事情があると指摘している。
 つまりは、ハイデガーの「死」とそれに対する「不安」に関する考察については、国土を焼かれた世界大戦と言う終末的体験をくぐった人々に対して贈った思想であり、そういう人たちに合わせて造られた思想ではないのだろうかと思えるのである

 しかし、筒井康隆の説明だと、その辺のハイデガーの意図がどこにあったのかが見えないのだ。

 ぼくがハイデガー思想に初めて触れたのは笠井潔のミステリ『哲学者の密室』の中でたっぷり展開されるハイデガー思想に関する議論でだったが、その頃からハイデガーの死生観や人間観といったものには、いろいろと疑問があった。

 ぼくが今年ハイデガー研究をする目的の一つには、その疑問の解消というのがある。
 しかし、本書を読んでもその疑問は解消できなかった。
 解消できなかったどころか、疑問は更なる「疑い」にまで発展してしまった。

 果たして、ぼくはハイデガー思想に有意義なものを見つけることが出来るだろうか?
 当面のハイデガー研究の目的は、そんなところになりそうだ。

 本書は、本文が100ページ程度、解説文が30ページ程度の実に短い本なので、思想書ではあるが1~2時間程度で読み終えられる。
 手軽にハイデガー思想に入っていけるという点では良い入門書と言えるが、これ単体でハイデガーを語るのは問題があると思える。あくまで「入門の第一段階」としては、手ごろな一冊なのかもしれない。


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