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◆読書日記.《川瀬右端『大相撲令嬢~聖女に平手打ちを食らった瞬間相撲部だった前世を思い出した悪役令嬢の私は捨て猫王子にちゃんこを振る舞いたい はぁどすこいどすこい~』1巻》

※本稿は某SNSに2021年12月8日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 「なろう」系のライトノベル、川瀬右端『大相撲令嬢~聖女に平手打ちを食らった瞬間相撲部だった前世を思い出した悪役令嬢の私は捨て猫王子にちゃんこを振る舞いたい はぁどすこいどすこい~』1巻、読了。

川瀬右端『大相撲令嬢』1巻

 「なろう系」小説を書籍で読むのはこれが初めてだった。
 タイトルやあらすじの感じから「ファンタジーRPGパロディ作品もパロディが重なってようやくこれだけいびつな物が出たか」という感じを受けたのだが、読んでみたら本作もある意味「出オチ」作品ではあった。

 この作品の「悪ノリ」感は嫌いじゃないのだが、「なろう系」の小説は、通常の「小説」の感覚で読んでしまうと、とても読めたものではないというのは、この作品でも共通していた。
 Webの「短文主義」文化もここに極まったかと言う感じがする。

◆◆◆

 以前アニメ『無職転生~異世界行ったら本気だす~』の原作小説を「なろう系」サイトで読んでみた感想を書いた事があるのだが、そこでぼくは「ラノベが現在、本格的に「簡易小説」化しているのが良く分かった」と書いている。

 このラノベの「簡易小説」化は、どうやらWebの「短文主義」文化とパラレルの関係にあると思われる。これはそもそも「なろう系」小説からして、Web小説投稿サービス「小説家になろう」のサイトに掲載されている作品だという事もあるのだから。

 今回、本作を読み終えてから「なろう系」の小説講座的なサイトを幾つか読んでみたのだが、それを読んだ感じでは、この「なろう系」の特徴はあくまで「Web小説」の特徴であって、全てのラノベがこの「短文主義」的な形式で成り立っているわけではなさそうだ。

 Webでなく書籍前提の新人賞もののラノベではこの限りではないようなのだが、「なろう系」のようなWeb小説では特に文章力を必要としないもののようなのである。

 全てはライブ感覚、スピード感、リーダビリティに宛てられる。
 Web小説ではクドクドとした説明は避けられる傾向があるらしく、そのために通常の小説にある「描写」が、ないのである。

 これは例えば、何故「なろう系」のラノベが繰り返し繰り返ししつこく「ファンタジーRPGパロディ」を扱っているのかという問題にも関わってくる。

 Web小説はイラストが付いていないため、あの簡易的な描写では、既存の世界観を借りてこないと読者が具体的な場面を想像できないのである。

 これはラノベ読者もラノベ作者も、イマジネーションを挿絵に頼ってしまっているために起きている事なのだろうと思う。

 例えばラブクラフト的な「頭はタコに似た触手を持っており首の下に四つ足の体を備え……」といった複雑な姿かたちをした「新たなバケモノのイメージ」をクドクド説明されるより「ゴブリン」とか「ワイバーン」とかいう、既存の有名なイメージが既に出そろっているバケモノの名前を出せば、説明描写も必要なくすっ飛ばせる。
 読者も既存のRPGに出てくる「ゴブリン」やら「ワイバーン」やらの絵をイメージすればいいから読むのにも楽なのだ。
 国の体制もただ「王国」と言えば詳しく説明しなくてもいい。細かい政体を考えずに済む。
 風景描写も「森」や「山」って書いときゃ十分だ。

 だから、読むほうも書くほうも「楽」。省エネ。だから「描写」がない「短文主義」的な表現が貫かれる。

 そのためにこの手のWeb小説は普通の「小説」ではなく「簡易詳説」と、ぼくは称しているのである。

 RPGやアニメを知らない人は相手にしていないのだろう。

 だから、これらの小説は「ファンタジー」と称してはいるものの、通常「世界構築」を必要とするファンタジー小説には通常必要と思われる創造的描写はなく、パロディ同人スピリット的なもので書かれている。
 「ドラゴン」って書けばどんなものなのか想像できるでしょ?という読者の共感性に強く依存する「パロディ同人的スピリット」である。
 「バフ」とか「レベルアップ」って言えば「ゲームのアレだ」とピンとくる人しか読者にしてない。
 それが「なろう系」の本質なのだろう。


◆◆◆

 勿論『大相撲令嬢』も上述した特徴の例外ではない。

 ぼくが興味を持っていたのは、こういったWeb小説を書籍化するにあたっての「改変具合」であった。

 あのWebでの超簡易的な文章をそのまま書籍化しているのか、それとも多少の「説明」を加えているのか。
 その点を、わざわざWeb掲載のものと書籍と見比べてみたわけである。

 見比べてみた結果、書籍のほうは多少の「説明」を付け加えているようだが、ほとんどWeb掲載されたものの原型をそのまま使っているというのが分かった。

 連載の「ノリ」を損なわないように、という意図があるのだろうが、いやはや、こと「文章」については「小説」とは呼びたくない酷さというのがあった。

 例えば、地の文章が何の断りもなく「である」調から「ですます」調に変化し、後半になると「~だわ」「~ね」「~よ」といった「女性台詞」調の文章に変化していく。こういうのは素人の文章だ。
 だが「なろう系」では、そんな「細かい事」は問われないのだろう事はよくわかる。むしろ「気にするほうが野暮」とさえ見られてしまう感覚さえあるのかもしれない。

 ストーリーも、主人公は「成長」しないし「挫折」もしない、真っすぐに勝ち続けるだけの分かり易すぎる一直線の物語。
 いわゆる「俺TSUEEEE!!」系の流行りをおさえて、そこからはみ出さないのがお作法のようでさえある。

 あるいは、「なろう系」は自ら新しいものを作り出そうという気概はなく、あくまで「流行に乗ろう」というのが目的なのかもしれない。
 「流行のものを使って皆で遊ぼう」という、流行の複数のプレイヤー参加型ゲームの感覚。
 「ファンタジー」のパロディではなく、あくまで「ファンタジーRPG(ロール・プレイング・ゲーム)」のパロディであるからこその、そういった「ゲーム感覚」で、小説という形式を借りての、これは「遊び」なのかもしれない。

 つまり、そういう意味で「なろう系」の著者は「クリエイター」でさえないのだ。

 そういう著者の感覚というのは本書の「すこし長い後書き」にも現れている。
 この作品を書こうと思った創作動機であったりこの作品で訴えたいテーマであったり……という著者の創作サイドの事情については、あまり触れられていない。
 その代わりに書かれているのは「私はいかにしてこの作品を成功させたか?」という「私の成功法則」を書いたビジネス書のような内容なのである。

 かくて、「なろう系」の評判と共に、かつてあった「小説」という文学形式の意味は果てしなくずらされていく。
 本書の著者にあるのは、どうも「創作」ではなく、流行に合わせた「商品開発」的なスタンスなのである。

 ヒットした「商品」の世界観は、それを面白がったフォロワーが、更なるパロディとして「その世界観を遊ぶ」。VRゲームのように、著者が「なろう系」の主人公を操って遊ぶという、これはそういう新感覚RPGなのだ。
 そうやって生み出された「なろう系」文学が、更なるフォロワーによる二次創作的な「遊び空間」が果てしなく広がっていく。

 これが、現在活発にオタク業界に広まっている「なろう系」というジャンルの一側面ではないかと思うのである。

 ……いちおうフォローしておけば、ぼくは「なろう系」をDISっているわけではない。
 あくまで通常の芸術である文芸作品と「なろう系」との「違い」について論じているだけなのである。

 その上で、「なろう系」が芸術と比べられ「レベルが低い」などと言われてしまうのは仕方のない事だ。何しろそれは「芸術」でも「創作」でもなく、ある種の「玩具」であり「商品」なのだから。

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