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◆読書日記.《山田風太郎『おんな牢秘抄』》

※本稿は某SNSに2021年1月17日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 山田風太郎『おんな牢秘抄』読了。

山田風太郎『おんな牢秘抄』

 文庫で500頁以上もある大長編なのだが一晩で読んでしまった。
 嗚呼、久々の山風、面白かった。

 発表媒体のためか、わりとソフトな仕上がりになっている捕物帳だが、これはかの『誰にもできる殺人』『明治断頭台』系列の連鎖短編形式のミステリでもある。


<あらすじ>

 舞台は江戸時代中期。

 小伝馬町の女牢に一風変わった囚人が入れられる。

 まだあどけない顔をした美少女は「お竜」と名乗り、あろうことか公方様の命を狙ったというとてつもない大罪を働いたという。

 囚人らはこの異様な小娘を女牢の規則に従わせようとするが、怖ろしく腕がたつので誰もが瞬時に叩きのめされてしまう。

 彼女は女牢の中で牢主にも従わず傍若無人に振る舞った。

 女牢の絶対権力者である牢名主の畳をぶんどって全員に分け与えてやったり、女牢の規則で私刑に会いそうになっている女囚を救い、彼女らの身の上話を聞いてやったりするのである。

 女囚らの中にはしばしば、同情すべき事情で捕縛された者たちが見られた。

 女囚の話を聞いたお竜は呟く。「あたしにはわからないことだらけだわ」と。

 彼女らが関わった事件の不可解な点を列挙した後「これほどわからないことだらけなのに、簡単にあなたをつかまえて、こんな牢に入れたお奉行さまのおつむのかげんが……」分からない、等と全く遠慮のない事をずけずけと言うのである。

 お竜が女囚の話を聞き終わった後――彼女はピューと口笛を鳴らす。

 すると、どうした事か。牢の外に同心の影がムクムクと沸き上がり「武州無宿お竜、穿鑿所(取調べ/拷問所)へ罷り出ませい!」と叫んだかと思うと、お竜を牢の外へ引っ立てて行くのである。

 数刻の後、町娘の姿をしたお竜の姿が街中で見られた――

 彼女は、ある時は博徒の姿に、ある時は女占い師の姿に、またある時は遊女の姿となって、町中の人間から、過去に起こった事件について聞き込みをしていたのである。

 謎の女、お竜。その正体とは――数寄屋橋内、南町奉行所の一世の名奉行、大岡越前守の娘の霞だった。

 霞は男に騙され、間夫に陥れられ、夫に謀られた女たちに同情し、彼女らの身の潔白を証明しようと単身で女牢に入り、女囚の話を聞いてはそれを元に事件を調査していたのだった。

 案の定、彼女らは男たちの罠にはまった哀れな女たちであった。

 霞の探偵を、恋仲であり奉行秘蔵の同心・巨摩主水介が助ける。

 本来なら死罪となるべき女囚たちの事件には真犯人がいた。

 霞は次々と冤罪事件を晴らしていく。そして、大岡越前が頭を悩ませている6人の女囚の冤罪事件を調べる内、霞は彼女らの事件の裏に巨大な陰謀が渦巻いている事を知る事となるのだった……というお話。


<感想>

 本書は『半七捕物帳』や『右門捕物帖』、『銭形平次』等々といった捕物帳というスタイルではあるものの、物語構造はそれらの形式とはかけ離れている。

 まず第一に、同心が探偵役となって事件を追うものではなく、武家の娘が女囚になりすまして囚人の話を聞き、それを手掛かりに捜査を行うスタイルとなっている事。

 第二に、通常の捕物帳が大概連作短編形式になっているのに対し、本作は山風お得意の「連鎖短編方式の長編」というスタイルを取っているという事。

 上述した『誰にもできる殺人』『明治断頭台』系列の仕掛け、とはその事である。一話一話、事件があり、捜査が行われ、推理の上で犯人が捕縛される。

 これは通常の探偵小説とも捕物帖とも同じスタイルを取っている。だが、本書で解決した事件には全て「ある共通点」があり、実はそれはもっと重大な事件の手がかりになっている……と、連作短編が、読み終えてみると最終的には大きな一つの事件であった、というのがこの「連鎖短編方式の長編」の特徴である。

 これは1990年代になって新本格ムーヴメントの作家たちがしばしば利用するようになったが、それまで誰も真似する者がおらず、また誰も真似できる者がいなかった。
 というのも、この形式の作品はミステリの真相を二重底、三重底にしなければならず、通常のミステリとはその仕掛けの複雑さが違っていたからだ。

 山風はこういった今まで誰もやっていなかった独自の「発明」というものがいくつもある。

 明治小説もそうだし、忍法帳の形式で80年代黄金時代の週刊少年ジャンプの作家陣に影響を与えたのもそうだし、『金瓶梅』や『南総里見八犬伝』をパロディ化した本歌取りのミステリや忍法帳なども作っていた。

 山田風太郎の小説を時代を絶しているという話はよく聞かれる事である。

 推理小説を書いても時代小説を書いても捕物帳を書いても、その時代の「通常のスタイル」からかけ離れた独自のアイデアを打ち立てて書くものだから「あの時代の文壇の流れはこうだった」という見方がほとんど通用しないのである。

 本書の際立った特徴はまだある。
 それは「女は男をたてるものだ」とか「大和撫子」だとかが女性に求められる男権社会の象徴とも言うべき封建社会にあって、驚くべき進歩思想を持ち、男性的論理のまかり通る世の中に対して果敢に挑戦する、どんな男性にも絶対負けない無敵の女性主人公を作り上げた事だろう。

 つまり、本書の主人公である霞は、男権社会の論理が蔓延する社会の中にありながら、ほとんど現代的なフェミニズム思想的に女性の権利を主張し、男性顔負けの頭脳と腕っぷしを備えた、いわば「チート女主人公」なのである(笑)。
 「チート主人公」の爽快感というのは、これくらい知的な道具立てがあってこそ嘘臭さを感じさせない。

「天下のお仕置は、みんな、荒々しい、かた苦しい、もののあわれを知らぬ男たちがきめたことです。あたし、ずいぶん男の身勝手だと思うことがあるわ。それから、人の心をふみつけた、ばかばかしいきまりをつくったのものだと思うこともありますわ。たとえば、男と女が、どんなにおたがいが好きになろうと――ちょっと家の身分がちがうと、縁組ができないなどと――。(略)そうです。いまの世の中では、女はいいこともできないかわり、わるいこともできません。女はじぶんからは、何もできないのです。――そんな女を裁くのにもし女が裁くなら、もっとちがったお裁きができるのじゃないかと思いますわ」(本文より引用)

 本来であるならばこの江戸時代の中、女の霞は父の仕事に口出しできるような身分ではない。
 その霞が、いわば自ら「女奉行」になると父に向かって主張するのである。

 それが女囚の冤罪事件の捜査をする動機であったし、これを恋仲の奉行秘蔵の同心・巨摩主水介と共に解決して、身分違いの仲を認めさせようと言う意図まであった。

 つまり、霞が探偵をするという事は、男性官吏と同じように女性が「裁き」を行い、更には厳しい身分社会の中にありながらも「身分違いの恋」を成就させるという、この時代における二つのタブーに挑戦しているという事なのである。

 山田風太郎はしばしば「女とは如何なるものか?」という事をテーマとしてきた。
 そのために、しばしば山風の小説では色恋で身を持ち崩したり、地獄のような愛憎のもつれを見せたりする。

 その点、本書は"珍しく"山風のこのテーマにありながら無事ハッピーエンドを迎えられたと言える。

 しかし、今から考えれば、山風は意外と女性信奉者だったのではないかとも思うのだ。『妖異金瓶梅』の潘金蓮も山風作品の中で際立つ毒婦であったが、それでも最終的にはある種の「聖性」を見せた。
 『黒衣の聖母』でも『売色使徒行伝』でも――女性は不幸のどん底にありながら、常に聖女のような存在であった。

 山風作品の中の有名なテーマ「女は悪魔か?天使か?」は――結局は「悪魔であり且つ天使でもある」なのだろう。
 その「決定不能な悪魔的であり聖的な存在」である女性の前で、男は頭を掻きむしって狂い、破滅していく。

 ――そんな山田風太郎の作風がありながら、本書では珍しくその女性の「聖」の部分が強調される。

 それは、主人公の霞の存在そのものが、江戸時代の男権社会のカウンターとして機能せねばならなかったからなのだろう。

 ある意味、結局は霞も男を一切寄せ付けない「聖女」的な存在でありながら、男権社会のロジックを破壊せしめる「悪魔」でもあったのだ。

 本書のラスト、旋風のような太刀さばきによって、女を罠にはめた男たちを一刀両断のもとに断ち斬る霞は、うっとりするほど残酷で、間違いなく格好良かった。


◆◆◆

 余談だが……本書の挿画(角川文庫版)の佐伯俊男も、今回は珍しく正気を保った素直な絵柄で、ちょっと物足りない(笑)。
 マンガ的な雰囲気で読みたい方は近年角川文庫になった「山田風太郎ベストコレクション」版のほうで読んだほうが、表紙絵の霞の姿も愛くるしくて印象良く楽しめるのではないかと思う。


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