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◆読書日記.《河合隼雄『母性社会日本の病理』》

※本稿は某SNSに2019年3月1日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

河合隼雄『母性社会日本の病理』読了。

河合隼雄『母性社会日本の病理』

 ユング研究所にて心理療法士の資格を取り、日本でのユング派心理療法を確立した心理学の大家が解説する日本人の深層心理。

 1976年に出版された本だが、現代の日本人にも当てはまる多くの示唆に富む意見が書かれていて面白い。
 河合さんの本を読むと、日本人の深層はさほど大きく変化していないのではないかと感じられる。

 人間の心は様々な傾向や原理が働いているのだが、その中でもユング派が重要視している原理に母性原理と父性原理がある。
 母性原理は「包含する」機能によって示され、父性原理は「切断する」機能によって示される。

 著者は一貫して、このうち日本人は「母性原理」のほうが強いと説明しているのである。

 母性原理の特徴は、慈しみ育てる心、饗宴的な情動性、全てを包み込み何物も区別しない平等性、といったものがある。

 日本の小学校の教育なんかはまさに母性的な教育環境で、出来る限り落第生を出さず、皆平等に同じ教育を受けさせる。
 西洋なんかはこれとは違って、小学生から留年生が結構出る国もあるという。

こういう日本の平等性を重要視した感覚を著者は「場の倫理」という言葉で説明する。

 日本ではしばしば、個人的な主張よりも「場」の平衡を保つ事が重要視されるのである。
 だから集団や組織の中にいる人たちは「空気」を読んで「場ちがい」な事をしないように、小さい頃から場に溶け込むことを教えられるのだ。

 西洋はそれとは違って父性の原理が強く、個人の自我を確立させるよう子供の頃から訓練させられる。
 だから西洋人は「場の雰囲気」が壊されようとも、ちゃんと「個人」としての意見を言わなければならない、というように教育されていくのだそうだ。
「個人」が重要だからこそ、子供でも能力が足りなかったら落第する。

 西洋では、落第は個人の能力が足りなかったからで、落第したのならばその個人の能力に沿った教育ではなかったと考えるのである。
 それに対して日本はどこまでも「場」の中が重要で、人が集まるとすぐに「場」が形成される。
 逆に言うと「場」から外れるのを恐れるため落第や留年などは「特別な事」だと捉えられる。

 そして日本人は「場」から外れた人間には非常に冷たく、差別的になるという欠点も持っている。

 こういう日本人的な心理は何十年経っても大きく変わることがないので、本書の説明はいまだに現代日本人にとっても傾聴に値する重要性を持っているのではないだろうか。

 日本人の特徴としてもう一つ、対人恐怖症が多いと言う点もあるのだそうだ。

 対人恐怖とは視線恐怖や赤面症なども含み「他人の視線が気になる」とか「赤面しやすい」とか「自分の匂いが気になる」などもこれに入るという。

 日本人にそういう心性が多いのは何故かと言うと、対人恐怖症の人が苦手とする「自己紹介」を例にとって説明すると分かりやすい。
 自己紹介と言うのは「場(集団)」の中にあって「個人」に焦点が当たってしまう。
 母性原理が働く「場」の中にあって個人を自立させる事は許されないが、かと言って完全に集団の中に埋没する事も不可能なので、場の平衡状態を維持させながら個人を活かさねばならない。
 そういう「間」の取り方が、対人恐怖症には難しいのであろう。

 そういった日本人に多い病理である対人恐怖症や、登校拒否、ひきこもり等の問題は、個人が母性原理の支配する「場」に対して葛藤を引き起こすことから発生するという事も考えられるかもしれない。

◆◆◆

 ユングによれば「すべての男性はその内部に女性の永遠なイメージをもっている。それは、あれこれの特定の女性のイメージではなくて、決定的な女性像なのである」のだという。
 こういう男性の内面にある女性像のアーキタイプ(原型)を「アニマ」と言うそうである。

 これは女性にもあって、女性の内面にある男性像のアーキタイプは「アニムス」と言う。

 ユング派心理学の特徴のひとつに物語の心理分析があるが、河合隼雄は本書で日本人男性のアニマを日本人だったら誰でも知っている「浦島太郎」の物語から読み解いている。

 浦島太郎の物語は様々なバリエーションがあり『風土記』だけでなく『日本書紀』にも『日本昔話集成』にも『水鏡』なんかにも記されているのだそうだ。

 それらの元々の「浦島伝説」に記されていて、後の変更で無くなってしまう特徴というのは、竜宮城の乙姫様が浦島に言い寄ったり浦島と結婚したりするという点だ。

 そこで描かれる乙姫様というのは、眉目秀麗な浦島太郎に心奪われて口説いたり、結婚の対象となったりと言う、実に"人間的"な乙姫様なのだ。

 後の浦島太郎の昔話に変わっていく過程で失われるのはこの「結婚テーマ」であり、乙姫様の「人間的な部分」なのである。

 河合隼雄は、その変遷の理由に興味を持つ。

 河合は、そういう浦島伝説における乙姫様の変遷の理由を「われわれ日本人は、仙女あるいは天女は、色恋とは無関係でなければならないという通念を持っているようである」と説明する。

 こういった「肉体性を否定し、結婚の対象としては考える事のできない美人の像」としてもう一つ、河合は「かぐや姫」を挙げる。

 かぐや姫はプロポーズしてきた五人の男性すべての愛を拒絶して人間の手の届かない月世界へ飛翔していく。

 こちらのほうが初期浦島伝説の乙姫様よりも確かにずっと仙女らしい非肉体性を感じさせる女性像となっている。
 つまり乙姫様も時代を経る事によって徐々にかぐや姫化していったのではないかと考えられるのだ。

 こういう人間的でなく肉体的なものも感じさせない清浄高潔な女性像というものは、中国の仙女や神女のイメージからの影響という面もあるそうだが、これを河合隼雄は日本男性のアニマの典型例なのではないかと説明している。

 日本の昔話の特徴として、そういう男性と対等な結婚の対象となる女性(男性と対等と思えるほどの庶民的な、人間臭い、ごく普通の一般女性)がいない、という点があるのだそうだ。

 こういう「肉体性を否定し、結婚の対象としては考える事のできない美人の像」というのは、まさに現代日本人男性が熱狂する美少女アニメのヒロインやアイドルの女性像に合致しているとは言えないだろうか。
 つまり多くの日本の男性は、アイドルの少女らにかぐや姫的なアニマを投影しているのではないかと思うのだ。

 そう考えれば「なぜ自分と同じ平面に存在せず恋愛の対象にならない結婚さえできないアニメのヒロインに熱狂的な恋心を抱くのか」という心理の問題も、「なぜアイドルの少女らはアイドル活動をしている間に恋愛をすると大問題になるのか」という心理の問題も、すんなりと説明がつくような気がするのである。


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