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◆読書日記.《竹田青嗣『ハイデガー入門』――シリーズ"ハイデガー入門"2冊目》

※本稿は某SNSに2020年2月6~8日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 竹田青嗣『ハイデガー入門』読了。

竹田青嗣『ハイデガー入門』

 相変わらずツボを押さえた竹田さん流「分かり易い哲学入門書」。

 哲学を読むときの難しさというのは、しばしば「用語の難しさ」というのがあって、新しい概念や表現を提示するのにバシバシと新用語を打ち立てて思想を構築していくので、それを理解し覚えるのが厄介だというのがある。

 こういう難解さというのはどの哲学者もだいたい同じような感じで、更に日本は「難し気な感じ=権威的」といった感覚まであるせいなのか「分かり易く翻訳」せずに、しばしば原語よりも難しい翻訳語を当てていたりもする。
 スラヴォイ・ジジェクなんかはしばしば原文で読んだほうが分かり易いなどと言われているくらいだ。
 ただし、思想・哲学のような厳密に考える学問というのは、確かに翻訳をするのは難しい。原文で込められた新しい造語の意味を正確に一つの単語の中に込められるものでもない。

 ハイデガーもそういう傾向がある。
 しかもハイデガー流の思想の立て方の特徴というのは、伝統的な考え方に対立する概念を打ち立てて「二項対立」状態の構図に持って行き、一方をもう一方よりも頽落した概念だとして批判する、というやり方をしばしば使うので、これによってハイデガー的な造語が大量生産される。

 しかも、それぞれの新語の定義もままならないまま同義語を別の表現で立て始めるので、そこで読者のほうがついていけなくなる。

「竹田解説」によれば、特に後期ハイデガーの特徴は論証するプロセスが薄くなっていくので、見た感じどんどん「秘教的思想」だったり「神秘的思想」にしか見えなくなるのだそうだ。

 ぼく的にも、ハイデガーの思想はどうも前半のロジック・フローは緊密で美しいのに、現存在の本質問題に入っていくと急に「え、必ずしもそうは断言できないでしょ?」という風になっていく。いろいろと説得力に乏しいのだ。

 例えば、人間の言動の契機として「情状性=気分」があるのはいいとして、その「情状性=気分」を突き詰めていくと、その根本には「死への不安」があると主張する。
 この部分は『存在と時間』の最重要部分であるにもかかわらず説得力に乏しい。

 これは竹田青嗣氏も指摘している通り、まるでポジティブな気分や欲動原理がないかのように無視してしまっているというのが問題なのだ。

 何故「死への不安」がハイデガー哲学で重要かと言えば、「死」の特徴の一つとして挙げられた「死の交換不可能性」という契機に関わっている。

 「死」は、他の人と取り換えることが出来ない。「死」だけは「現存在」にとって最も固有な可能性だから、「死」を前にした現存在は「他者と没交渉」となる。

 つまりは「死」の「交換不可能性」が、そして「没交渉性」が、社会や世間や他者ではなく真に「おのれ自身」のみの問題として切実に現存在を規定するのだ。……という結論ありきで「情状性」の本質を「死への不安」に接続したのではないか、と未だにぼくは疑っている(笑)。

 それでは何故ハイデガー哲学は世界大戦後の若者たちに大きな影響を与えたのだろうか?

 ぼくが思うに、ハイデガー哲学には「哲学」と言うよりかは「自己啓発」的なニュアンスを強く感じるのだ。

 つまりは「死と生の問題をこのようにして受け入れよう!」という感じの観念的自己回復を哲学的なプロセスで保証した。……という視点が当時の若者に受け入れられたのではないだろうか。

 つまり、当時の世界大戦という黙示録的な経験を経た若者たちにとって「自己」とは、そして「おのれの死」とは、という問題は、平和な時代と違って実に切実な問題となっていたのだろう。

 世界大戦という経験は、それだけ西洋人の「主体」意識を砕いたのだ。

 ヘーゲル的には、現代の人間の「自由な一市民としての自我を確立した主体」というのは、これまでの歴史の中で最も完成された人格だとした。
 そして、当時のヨーロッパ文明というのも人間の英知の頂点にあると考えていた。
 つまりは、後年猛批判にさらされる「西洋中心主義」的な考え方だ。

 この「西洋中心主義」的な西洋人の文化的傲慢を、そして「主体」概念の優越感を、世界大戦はコナゴナに打ち砕いてしまった。

 20世紀的な世界大戦と言うのは、中世的な「英雄的な戦い」であった戦争の様相を一変させた。20世紀的な戦争とはもう「戦士と戦士との命と名誉と財産を懸けた争い」ではなくなった。
 中世の騎士たちの闘いと死とは、名誉ある一人の戦士が、同じく名誉ある戦士と戦い、技を競い合って敗れ、一人の戦士として名誉ある戦死を迎えていた。
 しかし、20世紀的な戦争に「戦士」はもういない。20世紀的な戦争での「戦死」とは「数十万人という統計の中の1カウント」に過ぎなくなってしまったのだ。

 つまり20世紀的な戦争の戦死者は「戦って敗れた者の名前」がない、多くの匿名の死者の内の一人になってしまったのだ。
 機銃掃射によって肉体は四散し、砲弾の直撃によってミンチと化し、戦車のキャタピラに塹壕を潰されて大地の赤い染みになる。それが「20世紀的な戦争の戦死者」の姿だったのだ。

 「20世紀的な戦争の戦死者」は名前が剥奪されただけではなく、「人間としての身体の形」さえも原型をとどめないナニモノかになってしまった。
 棺に納まって遺族から献花されるための「遺骸」さえも残らない「ひき肉」となったのが「20世紀的な戦争の戦死者」の姿だ。

 そういった戦場では、ヘーゲルの謳ったような歴史の頂点をなす西洋人の「ヒューマニズム=人間中心主義」は砲弾と共にコナゴナに打ち砕かれてしまっているのだ。
 「主体」などというものは、もうどこにもいない。
 いるのは、いつでも「ひき肉」になる可能性を控えた物体でしかなく、統計の中の数十万人の「名もなきナニモノか」のうちの1カウントでしかない。
 「主体」は、誇るべき「名前」も「肉体」も失ってしまったのだ。
 それが世界大戦という終末的な経験を経た当時のヨーロッパの若者たちの実状だった。
 もう「名もなき死」を前に控え、おのれの「存在」など何一つ保証されていないのだ。

 そういった状況にあって、ハイデガー哲学は「名前を無くした主体」に「現存在」としての意味を注ぎ込んだのではなかろうか。
 だから、多分に「自己啓発」的な読後感を覚えてしまうのかもしれない。
 ロジックではなく「情状性=気分」を前面に押し出し、実存(現に生を生きる存在)としての「現存在」の視点から、立論をして行ったというのも、当時の若者に受け入れられた要素の一つだったのではないかとも思う。

 しかし、二次大戦後になって思想界に論争を巻き起こしたハイデガーの「ナチス加担問題」というのは、「哲学者」としてのハイデガーの限界をありありと物語ってしまっているとも思えるのだ。

◆◆◆

 やはり、筒井康隆『誰にもわかるハイデガー』で疑問に思ったことは本書を読んでいても同様に疑問に思った。これは実際の本文でハイデガーの理路をたどれば解決するのか否か、微妙な感じになって来たなあ。

 『存在と時間』第一部・第一篇・第五章の「内存在そのもの」がネックになっている。

 ハイデガーは存在とは何かを考える際に「世界-内-存在」⇒「環境世界」⇒「内存在」という順番に説明していく。

 「内存在」とは、人間が実在論的な(本人の現実から見た)世界を生きるという前提での、その本人の存在の仕方の本質についての話だ。

 「現存在」としての人間の「現」は何で成り立っているかと言うと、ハイデガーは「情状性」「了解」「語り」の三契機で説明している。
 この「現」の最も根本的な本質が「情状性」と言うやつで、これはいわゆる「気分」のようなものだと思えばよい、と竹田氏は説明している。これはなかなか分かり易い。

人間が何かを考えたり語ったり、行動したりという事をするきっかけとなるのがその人の「気分」が引き金になっている、という考えだ。
 ぼくの考えでは人の言動の契機は「気分」ではなく「知覚」によると思っているが、ここは一応ハイデガーの話を聞いておこう。

「ハイデガーの主張の要点は、『気分』はそれを深く突き詰めると、人間が自分自身の『存在』について根本的な怯えと不安を持っていることを教える、ということである(『ハイデガー入門』より)」との事だが、ハイデガーの「気分」論は、何故か全て「ネガティブな気分」を前提に分析を進めていて、ポジティブな感情については取り上げていないのである。
 そのためにハイデガーの論旨は「不安の本質」に流れて行ってしまうのだが、この考えには竹田氏も本書で疑問を提示している。

 人間の「現」性の契機として「情状性(気分)」を持って来るのはニーチェの「力への意志」みたいでなかなか面白いのだが、その契機に「ポジティブな気分」が検討に入っておらず、また人間の強い契機の内の一つである本能的な欲動が考慮の内に入っていないというのは違うのではないか?と思えてしまう。

 ハイデガー的にはこのように「気分」の根本本質は「根本的な存在不安」であり、その漠然とした不安の正体としての「死」へ考えを進める。

 「死」の本質をハイデガーは「現存在の終わりとしての死は、没交渉的な、確実な、しかもそのようなものとしての無規定的な、追い越しえない可能性である(『存在と時間』本文より)」といった風に規定している。
 これを竹田氏は次の5点にポイントを整理して説明している。
 「死の交換不可能性」「死の没交渉性」「死の確実性」「死の不規定性」「死の追い越し不可能性」の5つである。

 竹田氏はこのハイデガーの「死」に対する本質契機の分析方法を「本質直観の優れた実例」だと評価しているが、ぼく的にはこれはフッサール流の「本質直観」とはまた違っていると思えてしまう。

 フッサールがエポケーによってカッコに入れなければならないと主張しているのは、我々が経験知的に理解してしまっている固定概念のようなものだ。
 超越論的現象学の立場で言えば、我々は意識の中(現代的に言えば「脳の中」)に閉じ込められている存在で、自分の「意識の外」には出られない存在だ。
 だから、人間は自分の「意識の中に立ち現われて来る現象」しか理解できない。
 「自分が意識の中で"見ている"と感じている物体」と「客観的に"神の視点"から見た実際の物体」と、一致しているかどうかというのは分からないのだ。
 だから「意識(=脳)の外の世界は見たままにそこに存在している」という固定概念をカッコの中に入れなければならない。
 これが「超越論的主観性」という見方だ。

 この見方で改めて「死」の本質直観を行ってみよう。
 そう考えるとハイデガーの「死の確実性」という条件は、ぼくなんかはどうしても疑問を抱いてしまう。
 「私はいつか確実に死ぬ」という事が「確実かどうか」というのは、我々は「経験知」として知っているかもしれないが、実際の所は「実際に死んでみないと自分が死ぬかどうかは分からない」と言える。

 「長く生きた生物は、必ず老いて死んでいる」「私も、彼らと同じ"生物"である」「故に、私も死ぬ」という理路をたどらないと「死の確実性」には辿り着かないのではないか?

 つまり、人は己の死を本能的に知っている訳でも先天的に知っているわけでもなく、「他人の死」を自分に当てはめて「自分も(きっと)死ぬ(のだろう)」と「後天的」に知るのが常道ではないのか。

 ハイデガーが言う様に「死が追い越し不可能」である以上「自分が死ぬかどうか」は死んでみなければわからないのでは?

 というように、ぼく的にはハイデガーの理論は特に「内存在」の部分で多くの疑問を抱えて引っかかってしまうのだ。

 確かに、ハイデガーの『存在と時間』のロジック・フロー自体は綺麗なツリー構造をしていて実に美しいかもしれない。
 これに比べればヘーゲルの『精神現象学』など、実に汚らしいと思える(失礼!)。

 だが、その途中の理路がどうもアヤシイと思えてしまう。
 今のところ、ぼくから言わせればハイデガーの分析の仕方はどうもMECE(漏れなくズレなくダブリなし)でないと思えて不満なのだ。

 この「内存在」の部分については、現存在の説明の先に「死の不安」という「答えありき」で理論を構築したのでは?とついつい疑ってしまうのだ。
 どうも「存在問題の実存的問題設定」から「死へとかかわる存在」の中間にあたるこの「内存在」分析にネックがあるように思えてならない。


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