◆読書日記.《フランソワ=ベルナール・ユイグ『テロリズムの歴史』》
<2022年12月5日>
フランソワ=ベルナール・ユイグ『テロリズムの歴史』読了。
フランスの政治学者による近代テロリズムの解説書。
書き方はかなりサバサバとしており、教科書的な書名に反して内容は初学者向けと言う感じはしない。
ある程度この問題に知悉した者向けに、数ある情報を手際よく整理してまとめたといった内容である。
◆◆◆
「テロ」について良く言われる事は、定義が難しいという事だ。
本書は基本的には19世紀以降の近代のテロの流れを書いているのだが、それ以前の時代にも、政治的に敵対する者に刺客を送ったりというテロ行為は世界的にも良く見られた事であった。
本書によれば「テロリズム」という言葉が辞書に載るようになったのは1794年以降なのだそうで、これは良く知られている通りフランス革命の時のジャコバン党による「恐怖政治(テロル)」が語源となっている。
本書がほとんど近代以降のテロリズムのみをとりあげて紹介しているのには、この「テロ」という概念そのものが成立した時期以降を対象としているからだろう。
因みにウィキペディアに記載されている定義は以下の通りだ。
この定義からも分かる通り、基本的には「政治的な目的」があって、その手段としての「暴力および暴力による脅迫」があるのだから、例えば個人的な恨みで行われる政府要人の暗殺などは通常「テロ」とは言わないのである。
このように書くと、一見して「テロ」の定義はちゃんと定まっているのではないか?とも思えてくるのだが、さにあらず。テロの定義については未だに様々な論争が行われているのである。
このようにテロリズムの定義を難しくしているのは、それが「政治的行為」だからであり、それは立場の違いによって様々に変わるからである。
例えば、1972年に日本赤軍が起こしたテルアビブ空港での無差別殺戮事件によって逮捕された犯人は、イスラエルからしてみればまごう事なきテロリストだが、イスラエルと敵対するパレスチナ人たちからは英雄として讃えられ、捕虜交換によって解放された日本赤軍の岡本公三はレバノンで支持者の支援で暮らしているという。
また、過去に「テロリスト」と呼ばれ非合法な戦闘行為を行っていた勢力が、今は正当な国家の政党として政治を行っている事もあるし(例えばアルジェリア戦争で多数のフランス民間人を襲撃したアルジェリア民族解放戦線がアルジェリア独立を成して以後は同国の主要政党となっている)、過去テロリストと呼ばれていた人物が国際的な評価を高めてノーベル平和賞を受賞する事もある(アラファト議長やネルソン・マンデラ大統領を思いだそう)。
逆に言えば、テロリズムの定義を難しくしているのは「正当な国家」の行うテロルというものを、「正当な国家」ほど認めようとしないからという理由もあるのだろう。
例えば、アメリカ合衆国国務省が統計と分析の目的で定めている「テロ」の定義は、そのままアメリカ合衆国が国際的に行っている事にそのまま当てはまる。
これはMITのノーム・チョムスキー教授が過去幾度も指摘している事だ。
チョムスキーが言うには、アメリカの公式なテロの定義としては「威嚇、強要、恐怖の浸透を通じて……政治的、宗教的、思想的な目的を達するために暴力や暴力の威嚇を計算ずくで用いること」としているそうである。
この定義のどこが問題になるのか? この定義が「使い物にならない」からなのである。チョムスキーはこれを二つの理由から説明している。
要するに、アメリカが公的に定めている「テロリズム」の定義にそっくりそのまま当てはまる事を、アメリカ自身が行っているのである。それを行う際に、アメリカ政府は「テロのかわりに低強度紛争、または報復テロという言葉」を使うのである。こんな定義では、使い物になりようがない。
国家自身が自らテロ行為を行っていると認めるわけにはいかない。だからこそ、国によって、政党によって、政治的組織によって、「テロリスト」の捉え方は違ってしまうのである。
そのため国家や国際機関が「テロ」の定義について合意を得る事はありえない。これがテロリズムの定義を面倒にしている要因の最も大きなものではないだろうか。
本書でも、著者はアラン・ボーエルとの共著を引用して以下のように書いている。
こういった政治上の立場によって定義が変化してしまう「テロリズム」という言葉自体が、あるいは現実的には単なる政治上の欺瞞的な言葉になってしまっているのかもしれない。
チョムスキーはこの厄介な「テロリズムの定義問題」の解決方法を、上記引用した『メディア・コントロール』にて、明快に(また、皮肉交じりに)答えている。
何のことはない。「テロリスト」とは「私たちに対する攻撃」に対して「人道的に非難する」ために使われる政治的なレトリックの事だったのである。――少なくとも、報道でも学問でも、チョムスキーが指摘するようにこの定義は通用している。
そう考えておけば「テロリズム」という言葉が使われている場面で、何を考えなければならないのかと言う事がわかるのではないだろうか?
政府の要人暗殺事件や民間人の暴動、民間人の大量殺害事件が起こった際、「テロリズムに屈してはならない」と発言する政治家もいるが、彼は何を以てして「テロリズム」と言っているのか?
例えば、自由民主党幹事長の茂木敏充は、2022年7月8日に発生した安倍晋三暗殺事件について、同日に記者団の取材に対して「今回のテロ行為は、民主主義に対する挑戦であり、断固抗議する」と、明確に「テロ」と発言している。
だが、山上徹也容疑者は「政治的な意図」があってこの犯行を行ったわけではなく、報道等によれば結局本件は「個人的な恨み」によって起こされた、単なる「暗殺事件」であった。
この件からも象徴的なのは、政治家が何らかの事件を「テロリズム」と認定する時、多かれ少なかれそこにはある種の「政治的な意図」があるのだという事である。
「その事件は、非人道的な事件である」と倫理的に非難している風を装いながら、単に彼らは「私たちに対して行われた攻撃である」という事を非難しているだけなのだ。そこに何らかの「イズム」が、あろうとなかろうと、もはや関係はないのである。
本来であれば重要なのは、行われた行為がテロであるのかないのか、という事ではなく「どういう意図を以てなされた事なのか?」「そこにどういう動機があったのか?」「何故それが攻撃の対象になったのか?」という事であるはずで、「対テロ戦争」やら「予防戦争」やら「低強度紛争」等という表面上のレトリックに惑わされてはならない。
「彼らは私の敵だ」――これを人道的な見地に見せかけるレトリックとしての「テロリズム」という表現方法なのではなかろうか。
少なくとも、現実的に使われている「テロリズム」という言葉は、そのようなものにしかなっていない。つまり現代では「テロリズム」という概念そのものが、政治的に利用されているのである。
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