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◆読書日記.《秋山さと子『ユングとオカルト』》

※本稿は某SNSに2021年2月9日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 秋山さと子『ユングとオカルト』読了。

秋山さと子『ユングとオカルト』

 深層心理学・分析心理学の巨人ユングは錬金術や超常現象に興味を持ち、ユング派心理学者は神話分析を得意としている事でも有名である。
 だが、彼はあくまでオカルティストとしてではなく精神科医としてオカルティスムを研究していた。本書はそのユングのオカルト思想に迫る一冊。

 本書の著者はわりと変わった経歴を持つ人で、曹洞宗の寺院に生まれ、35歳で駒澤大学仏教学部に入学。宗教学が専門かと思いきや1964年に渡欧してユング心理学研究所に在籍していたという宗教学~ユング心理学を橋渡しする知識体系を持つ知識人。

 しかし、本書はいかんせんオカルトのほうに重心が行きすぎという印象が強い。

◆◆◆

 ユングは超常現象を信じていたのだろうか?
 ぼくの印象としては、それは半々といったところではなかったかと思う。

 ユングはシンクロニシティ現象を本気で研究しようとしていたし、占星術などにも関心を持っていた。
 過去、ぼくがご紹介したユングの本にUFOについて論究した『空飛ぶ円盤』という珍奇な論考もあった。
 『空飛ぶ円盤』でユングは、本格的にオカルティスト的な立場としてUFOに言及するのではなく、「自分はあくまで精神科医なので」という事で精神科医の立場を固辞する形でUFO現象について論究していた。
 論者としてのユングは、あくまで「それが本当にあった事なのかどうかなのか」という事には言及せず「それを精神現象として捉えると、どういう解釈ができるか」という仮説を提示しているようであった。

 つまり、超常現象というものは、あるのかどうなのかはわからないけれども「ある」と主張している人がいるかぎりは、精神科医としてその現象を精神科医の立場として説明しておく価値がある、とユングは思っていたようなのだ。

「全て無意識的なものは、現実に投影されて外界の事実の如く見える」というのは、ユングの基盤となる考え方の一つであるが、「UFOを見た」と称する人々の精神現象はある種の無意識の外的投影ではないかというのがユングの精神科医としての見解であった。
 これは幽霊や妖怪の目撃談にも適用されうる考えだった。

 このように『空飛ぶ円盤』での論考では、ユングは結構冷静に「精神現象」としてUFOを分析しているのである。
 という事でユングは、オカルティスム全般についても、あくまで科学的な姿勢は崩していないのかと言う印象がぼくの中ではあった。

 だが、本書を読む限りでは、自分の研究範囲外にあっては、ユングはけっこう本気でオカルティスムに傾倒しているようにも読めるのである。
 特に研究範囲の中での発想やそれ以外の関心などについても、明らかにオカルティスムへの傾倒をうかがわせるに足るものがある。
 それは、本書の情報のために、ぼくの中でユングのイメージが微妙に揺らいでいるほどであった。

 という事で、ぼくの中では現在、ユングが超常現象に関して信じていたか信じていなかったのかというのは「半々くらい」だったのではないかという印象となっている。

◆◆◆

 本書によればユングは、自らの理論について、錬金術のようなオカルティスムやグノーシス主義など宗教的思想からヒントを得ているのだそうだ。

 近年の人の自我は、より理性的な判断と言動が求められている反面、人前では常に押さえつけられてきた本能の欲求のドロドロした面というものは無意識の領域に抑圧されて行き、それが時として戦争や暴動、紛争などの極端な組織的暴力衝動として噴出する。
 エゴはますますイドと分裂が進んでいるのではないか。
 こういった自我と無意識、肉体と精神、科学的理性と宗教的信仰心といった両極に、人間はどんどん分裂して行っているのではないか。

 「対立し、矛盾するものは、言葉や論理では伝えられない。それを語るには神話的な物語によるほかない」とユングは言っているそうである。

 つまりはそういう現代の人間心理を分析する方法論として、ユングは神話や錬金術、ヘレニズム思想に没頭していたのである。

 実際、ユングの後期の著作の大半は錬金術とグノーシス主義の研究に費やされているのだという。

 確かに、錬金術の考え方の一つとして相矛盾する二大原理の統一を志向する部分が存在している。
 グノーシス主義にも、神と宇宙、霊と物質、光と闇、善と悪、生と死などの対立概念が存在し、善なる超越神の元、悪なる闇の世界に没入している人間の救済を求める事こそグノーシス主義の原理の一つとしてあった。
 キリスト教誕生の以前から存在した世界理解の原理として、二項対立の解消というものがあったのである。

 精神科医のなだいなだ先生は『とりあえず今日を生き、明日もまた今日を生きよう』で「うつは『いろいろと考えられるようになった』人間に起こる」と言っている。
 幼児の段階で鬱病は起こらないし、後期高齢者になるほど鬱病は減るとも言われている。人の精神の支配者であるイドからエゴが分離する過程で鬱病が出て来る。

 それはちょうど、全能の神が分離して善と悪の存在となり、それらが元となって様々な原理が発生し始め世界が複雑になり、様々な対立や争いや矛盾が生じ始める――という、というグノーシス思想の世界観を象徴しているかのような現象である。

 ユングは精神科医として患者の治療に当たっている際、患者の妄想の中にもグノーシス思想との類似性を見出したという。
 これによってユングの中で神話――グノーシス主義――錬金術――人間精神の構造というアナロジーが出来上がったのかもしれない。

 神話は無意識から湧き出たある種の人間精神のアレゴリーであり、その人間精神から湧き出た文化や風習によって影響を受けた人間精神が、更に無意識の中に神話と類似した構造を作り出す。神話や宗教的世界観、そして錬金術のような形而上学的な思想というものは、人間の無意識が投影された現像なのである。――「全て無意識的なものは、現実に投影されて外界の事実の如く見える」。だからこそ神話分析が人間精神を説明する。
 こういった考えが、ユングにグノーシス主義や錬金術を研究させる動機となっていったのである。

 人間精神というものは、統一的だった原始的な心性が分裂していき、複雑化していく事で様々な矛盾や対立を生んでいき、それが時として精神病の症状として現れる。そのような過程がグノーシス主義的世界観との相同性で説明ができる。
 だからこそグノーシス思想の神話の流れによって治癒の方向性が見える。

 錬金術の目指す、男と女、光と闇、善と悪のような対立項の聖なる婚姻(Hieros Gamos)を通じて生まれる新たな宥和。
 精神分析療法というのも、ある種自己の理性と感性との分裂、理性と感性との深刻な対立――そういった二項対立を解消し精神の「全能なる"自己"という一者への平穏なる合一」を経て快癒する方法論でもあった。

◆◆◆

 本書はこのようにユングのオカルト思想と精神分析との間に橋渡しをして、両者のイメージの乖離を埋める論考であった。
 が、ユングの思想を離れて若干オカルト思想の説明に傾き過ぎる傾向があるのはいただけない点でもあった。


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