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若手人類学者がフィールドワークしているお話
文化人類学は「文化」という側面に着目し、自分とは異なる文化について知ろうとする学問である。
参与観察やインタビューなど
長期のフィールドワークを通して(衣食住を共にし)自分とは異なる「他者理解」を試みる。
「他者理解」は難しい
自分の中の当たり前、バイアスが既にあるためだ。文化人類学には、それを二つの概念で乗り越えようと試みる。
一つ目は異質馴化である
異質=自分の文化、考え方とは異なるものを
馴化=対象世界の文脈の中で彼らの論理を理解すること。
二つ目は馴質異化である
馴質=調査者自身の慣れ親しんできた文化を
異化=違った目線で見つめ直すこと。
文化人類学者はフィールドワークで、これらを頭の中で行き来しながら、
(異文化を、生活の文脈の中での論理の理解を試みると同時に自分が当たり前だと思っていたことを、違った目線で見つめ直しながら)
対象世界の文化の理解と同時に自らの当たり前(バイアス)をフレッシュな目で見つめ直そうとする。
医療法人へ入社(ある種のフィールドワークを開始)して二年目のだが、現状を整理してみた。
私の異質馴化
①お年寄りはどんな暮らしをしているのだろう。
医療者でもなければ家族も身近にいない私にとってある種の異文化であった。
単に独居高齢者という単語だけを知っていた頃とは異なり、ご飯を一緒にしたり毎週会ってきたことで、実際の暮らし方やそのなかでの悩みが見えてきたと感じています。
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②医療法人が看護師がいるカフェを始めた。
看護師と言ってもコミュニティナースがいるまあるカフェです。看護師がいるカフェと言っても看護師がいますとはいわないカフェです。
当初思っていたことは、医療で出会うよりも前に医療者と出会い続けることで何かあった時に日常のことを知っていて、すぐに医療につなぐことができるカフェだと考えていました。
そうではあるけどそうではないようです。
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/86437654/picture_pc_6fef8a4e85b15f6de98fc60b6a24c6ce.jpg?width=1200)
カフェを通して、まちの人(スタッフも)が繋がり、笑顔になっていく。日常の中のほんの「ひととき」をポジティブな瞬間にする場所だと思います。。妊娠中のお母さんがいらっしゃった時の帰り際に、「今度は生まれた赤ちゃんと来てねえ」と一年前に声かけた人が、まあるカフェにまた来てくれた。
り
カフェの記念日に素敵なお花を届けてくれる方がいたり。
と思えば、
カフェにずっといるわけでもなく、スタッフと畑へ行く時にキッズを巻き込ん
で、キッズの楽しいひと時を作ったり。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/86437662/picture_pc_5cc06027e8eb2f774cf5d5168a7f9585.jpg?width=1200)
カフェでの味噌玉作りや、水族館のクラゲを連れてきたり、ごちゃ混ぜイベントを開いたり。カフェにいることが重要なのではなく、人とつながり、人を笑顔にするのがコミュニティナースだと今の自分には見えています。
そのひと時の楽しい瞬間を作ることに対する正攻法はないし、コミナスの資格を持っているからできるというわけでもない。
とはいえ、まあるカフェ独特のカラーとして感じているものがあります。まあるカフェにいるのは、病院と訪問看護の経験を持つコミナスです。人の最期をたくさん目の当たりにしてきたからこそ、生きるを支えることを考えると、ずっと近くにいて寄り添い続ける関わり方よりも、一瞬一瞬をどう関わるかを大切にしているスタンスで動いていると見えています。
暮らしていく中でのゆるい繋がりの中で、メンタルや身体機能の不調な時もあるでしょう。そんな時にチラリと見せる専門性にみえない専門性により、来る人はまたこれまでと異なった、安心感のようなものをその場所の持つ機能として付与されている「かもしれません」
美味しいものを食べられる場所から
楽しくて美味しいものを食べられて、ほっと安心もできる場所へ、
楽しくて安心もできて、誰かと繋がることができる場所へ
その人にとっての多様な意味を持つ居場所になっていくのかと思います。
それが普通の飲食店とは大きくく違う点だと思います。
近所の楽しいカフェから
楽しくて面倒を見たくなった時に立ち寄るようになったり、
不安な時は検査結果の話をしにきたり
来る人にとっていろんな機能を持つ居場所。
カフェという場でゆるく繋がり続けることでいろんな意味がその人の中で生まれていく。
そんなカフェに少なくともコミナス、看護師がいることで暮らしている人の健康を守ったりや暮らしに安心感を人に与えることができるんだと思います。
(訴訟まみれで誰もが悩んでいてがんじがらめで生きにくい社会に、コミュニティ弁護士がいてもいいと思います。コミュニティ弁護士がさまざまなコンテンツで出会い、ゆるく繋がり続けることで、通う人が生きにくさを感じた時にちょっと助言したり弁護士事務所につなげたりする役割をする弁護士がカフェにいるかもしません。)
ふとした時に、行きたくなる場所
(ふと気づいたらゆるく繋がっていて、健康に暮らしている)
まあるカフェにくる人にはこうみえているのではないでしょうか。
私の馴質異化
これまで考えていた医療観が変化しました。
病気が中心になる医療しか身近にありませんでした。
病気を治したくて病院へ行き、その病気が治ればまた、健康な暮らしができるというサイクルが回すのが医療だと思っていました。
生活、暮らしが中心になる医療があること。
医療により完全になれなくても人は幸せになれるということ。暮らしやすい環境、幸せを作る手助けをする道具となる医療もあること。
在宅医療では、本人の生活が中心になる。
治る、治らないという結果が全てではなく、対話を通して患者さんと同じ目線で、同じ方向を向き、歩んでいくプロセスそのものを重視する。
そのアウトカムが病気の完治ではないかもしれないけど、医療者と出会ったその人は自分なりの幸せや楽しいを見つけられるだろう。ポジティブな感情や状態を自分で見つけ、コントロールする能力を高めるサポートをするのが医療の形があることを知りました。
医療と一言に言っても、色んな意味でであり、長い人生という目線で医療を見た時、必ずしも完全に治さなければならないのが医療というわけではないこと。
そうではなくても人は幸せに暮らせるんだと今は思います。
病気を治すためではなく、人が快適に暮らすために医療が存在しているのかなあと感じています。
しかしここで結論づけるのは早計です。
医療の現場に入ってきていないからです。病院や在宅でどのような医療が行われているのかを十分に経験していません。
医療に浸かっていない人間から見える、新しい医療観に過ぎないと考えています。
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