IT開発会社オリサンキュの起業にいたるまで

はじめまして、株式会社オリサンキュ代表取締役の折原有武治と申します。

note って、代表が起業に至るまでの話って多いですよね。
そういう話が好きなので、私も結構読んでいたりします。

というわけで、私も書いてみました。

思ったより長い文章( 400文字詰め原稿用紙25枚程度)になってしまったので、読み飛ばしたい方は、オリサンキュは LOST GENERATION 世代がお送りする MAKE GENERATION なIT開発会社で、スタートアップ開発やら、業務システム開発やら、クラウド構築をしています。

とだけ覚えて頂いて 最後に宣伝 のところだけ読んでください(笑)!

少しだけ時間がある人は 会社のビジョン MAKE GENERATION について からどうぞ。

もう少し読んでみる時間がある方は、お茶、コーヒー、お酒、日本酒でも片手に、最初から、ゆるゆると頭から読んでやって下さると嬉しいです。

それでは、お手すきの際に、ご一読いただけると嬉しい限りです!

幼少期

周りに気を使う子供でした。小学校高学年くらいからは、気を使いすぎて、結果、周囲との距離が自然と空いていました。体格的には、とても痩せていて、周囲から目につくのか、いじめられていました。

親は、周囲の親がすすめている事を自分の子供にもさせたくて、当時流行していた学習塾に行かされました。素直な子供なら学習塾に行く事になんの疑問も覚えなかったのかもしれません。

ただ、私の場合、子供の頃から、いつも「なぜそれをやらなければいけないのか?」と根本的な所を考えてしまう気質で、心の内では納得出来ていませんでした。

「なぜそれをやらなければいけないのか?」そんな事が気になる私は、当時、一大ブームだった、ファミコンには、どっぷりとはまりました。

ゲームの世界は「なぜそれをやらなければいけないのか?」が明確だったからです。
ゲームですから、当たり前といえば当たり前なんですがね(笑)。

中学生

中学生になって、より周囲の同級生に馴染めなかったのを覚えています。
中学になると進路の話も出てきますが、結局、大人になった時、何になりたいのか? 本当に何も無かったのに、勉強しなければならなかったのが苦痛で、この頃は、誰とも馴染めずに、ゲームばかりしていました。

ゲームの世界は良いです。
「なぜそれをやらなければいけないのか?」それが明確だったからです。

工業高校へ進学

普通科で勉強して、大学へ行くイメージが全く持てず、工業高校へ進学しました。
工業高校を卒業して就職する、というのが、親の意向だった、というのもありますし、なにより、自分の中で、強烈に何かやりたいと思う強い意思はありませんでした。

あえていうなら、ゲームが好きだったので、ゲームが作れれば良いな、と思っていたのですが、コンピューターの知識がなさすぎて駄目だろう、と思っていたし、そもそもゲームがどのように動いているのか、全く理解できていなかったので諦めていました。

高校では、ゲーム好きな友人ができて、毎日のようにゲームセンターで当時大ブームだった格闘ゲームをしているような学生でした。
あと、ゲームのような雰囲気を持った小説(今風にいうとライトノベルなんですが、当時は単語がなかった)も好きで、物語に入っていける雰囲気に魅了されて、自分でも書いてみたい、と思うようになりました。

根が単純なので、ゲームを作るのは無理そうだけど、日本語を並べるだけの小説だったら書けるんじゃないかと、根拠なく思ってしまったのは、若さですね(笑)。

高校卒業後、防虫剤・除湿剤を販売するメーカーの工場で働くことになりました

母親がとにかく高校卒業したら働いて欲しい、と毎日怒っていて、それを食い止めきれず、工業高校を卒業後、防虫剤・除湿剤を作るメーカーに就職し、工場部門で働く事になりました。

工場は、定年間近の60歳の方が多い職場でした。
なので、数ヶ月に1人は定年で退職していく方がいる、という環境でした。
19歳新卒の自分からすると、いきなり定年と言われても、なんだかよく分からないな・・・と思っていました。

60歳間近の方々は、定年間際なのに、1人1人働くことに意識が高かったのが印象的でした。

その中で、私と一緒の生産ラインで働いていたフネさん(仮名)という女性がいました。
新卒で入社して8ヶ月くらいたったある日、そのフネさんも60歳を迎えて定年で辞める日が来たのです。
フネさんは退職日近くのある日、終業直前に、宙を見上げながら、一言こう呟きました。

「あー、あとは死んで行くだけだわ」
そして、力なく笑ったのです。

その言葉を聞いた私は、身体にビリビリと電気が流れたような感覚を覚えて、動けなくなってしまったのを覚えています。
19歳の私は「あとは死んで行くだけだわ」の返答に、どう声を掛けるのが正解だったのか分からないまま「お疲れさまでした」と言った記憶はあります。

「お疲れさまでした」って便利な言葉ですよね。

言葉を発してみたものの、私の心は、どういう感情になってよいか全く分からず、台風のようにいろいろな感情が渦巻いていた事を覚えています。

そして、一つはっきり分かった事があります。

私も同じように、必ず定年を迎えるという事です。

自分の人生がどうなっていくのか、真剣に考えなければならない、と初めて思ったのです。

定年までのカウントダウンがゆっくりとですが、確実に進んでいるのです。
それを19歳にて理解してしまった気がします。

私は、この会社の、この場所で、定年を迎えてよいのか? と、自分に問いかけます。

すると、自然と涙が溢れてきました。

この涙は、なんなんだろう・・・。

その涙は、虚しさから来る涙でした。
親の意向でなんとなく就職した今の会社。
このままだと、自分で何かを決めてることなく、ここで定年を迎えてしまう。
それでよいのか、と・・・。

これでは自分は何のために産まれて生きているのか全く分からない。

さすがに、それは無いな、と思いました。

同時に、私が定年を迎えるときは、笑顔で「やり残したこと無い。あとは死んでいくだけだ」と言いたいと思いました。

笑顔で定年を迎える、とは、どういう事なんだろう?

私なりの答えとしては、自分なりに全力で行動し、生きて、定年を迎えられれば、笑顔で定年を迎えられるのではないか、というものでした。

そのためには、このままここに居続ける事は、違う、というのが結論でした。
とはいえ、世間知らずで、やってみたい事といえば、当時好きだった小説を書いてみたい事くらいだったので、このまま1年は就業して、来年は、小説を書く専門学校に行く事を決めました。

専門学校では、新人賞に応募したが一次選考で落選。卒業を迎えた2001年4月。世の中は、就職氷河期でした

私が入学した専門学校の学科は、ちょうど学科のリニューアルがあって、新しい学科の一期生としての入学でした。
工場に一年勤務していなかったら、この学科には入れなかったので不思議な縁を感じました。

講師の方たちも学科のリニューアルで、新規に呼ばれた方も多く、まんが原作や、実際に小説を書いている先生も来ていて、私がそれまでの人生で出会ってきた大人の中で、ずば抜けて情熱的で賢い人たちでした。

2年制の学科で、卒業課題が「新人賞への応募」を条件にしていた先生に習っていたので、2年生になると、新人賞への応募に挑戦することになりました。

正直、学校入学の段階で、原稿用紙250枚程度の長編小説を書いたことがないのに、新人賞に応募する、というのは、なかなか無謀だったのですが、全力で自分の人生を生きることは決めていたので、なんとか応募する事ができました。

結果は、一次選考で落選。

現実を突きつけられた気がしました。

自分なりに頑張ってみたつもりでしたが、それはそれ。世間の評価というのは別なんだな、というのを学んだ瞬間でした。

入学時は、自分に明るい未来が待っている気が漠然としていたのですが、この落選で、一気に気落ちしたのを覚えています。

新人賞に落ちて、自分の力の無さに気づいた私は、卒業後は、会社で働こうと思い、就職活動を始めます。

卒業時の2001年は就職氷河期だったので、資格を持っていたり、大学を卒業している人でも就職できない人がいたので、私に就職のチャンスはないように感じられました。

とはいえ、何も行動しないのでは仕方ないので、企業へ履歴書を20通くらい送ったと思います。そのうち、8割書類選考で落ち、2割くらい面接で落ち、結局、全部落ちました。

当時、親から就職するように! と猛烈な圧力を掛けられていて、家に帰ると、この先どうするの?と毎日問い詰めてくるのですが、何も言い返せませんでした。辛かったですね・・・。

コナミの子会社にて、Webプログラマーになる

自分で就職活動をしているが、どうにも上手くいかない、という話を講師の先生に話した所「俺のアシスタントが、ゲーム会社でシナリオライターになる話があるから、お前も付いていけ」と紹介され、アシスタントの方に連絡した所、私もゲーム会社でゲーム開発のアルバイトをすることになりました。

この時、本当に何が縁につながるか、全く分からないな、と、しみじみと思いました。

幼少期からゲームが好きで、でも、ゲーム開発はできないから、小説家になろうと思ったら、ゲーム開発に携わる事になったのです。

不思議ですね。

人生の運はすべて使い果たしたと思いました(笑)。

ゲーム開発を1本手伝った後に、当時の会社の副社長と今後について話す機会があり「これからお前はどうするんだ?うちの会社で働きたかったら、グラフィックデザイナーか、プログラマー、どちらかをやるしかない」と言われました。

私は、絵は書けないな、と思ったので、「プログラマーになります」と答えてプログラマーになりました。当時は、ゲーム開発時に、エクセルVBAを少し書いた事がある程度のスキルでしたが(笑)。

プログラマーになるとは言ったものの、なにかしらプログラミング教育を受けたわけでもないので、当然、家庭用ゲームのプログラミングはできるはずもなく、当時、開発する人が居なかった、社内情報共有を行うwebシステムの開発を担当することになりました。

文字通り仕事をしながらプログラミングの勉強をしていたのですが、先生と呼べる人はいたものの、基本的に自力でプログラミングを学ぶ必要があったので、よく技術書を買って読んでいました。
技術書は、会社でも買ってくれそうでしたが、家に持って帰りたかったので、自腹で買っていました。技術書は安くないので、買う時に真剣になります。元を取ってやろう、という縛りを設けて、書籍を買っていたのを覚えています。

本屋で本を選ぶのは楽しかったですね。基本的に何もわからないので、自分が共感できるタイトルの入門書を探しては立ち読みして、身の丈にあっているかを確認していました(笑)。

プログラミングの勉強が楽しかったかどうかは、正直、覚えていないです。

というか、楽しかったかは重要ではなくて、それよりも、プログラミングが出来るようにならないと、優秀な大学卒に、自分の仕事が奪われる、と本気で思っていたので、その恐怖から逃げるために、必死なだけでした。
技術書を1ページ理解するたびに、その恐怖心が癒やされるような気がして、取り憑かれたように技術書を読み漁っていました。

技術書ではないですが、専門学校時代、何かと調べ物で本を読んだりしていたので、少しは書籍を読む力はついていたのかもしれないな、と今となっては思ったりしています。

mixi大流行。SNSを開発

小説家になろうと思ったのに、不思議なご縁で社内向けwebシステムを開発、運用を行っていた私ですが、同時に、世の中も毎年インターネットの利用者が増加していき、ついに、SNSが日本で流行します。その中で、当時大手だったのは匿名性のSNS mixi。
コナミも子会社インターネットレボリューションを設立し、SNSサービスを始めました。
この情報を社内で見ていた私は「これは自分がやるべき仕事だ」と思い、子会社への転籍願いを出して、転籍しました。

この転籍の際には、このまま残っていたら、ゲームプログラマーへの道もあったかもな、という点で当時悩んでいたのを覚えています。

インターネットレボリューションには、OSS開発を行っているような凄腕プログラマーや、インターネットそのものに詳しい人が沢山いて、刺激だらけの毎日でした。

それまで社内向けのwebシステムを一人で開発していたので、それなりに自信があったのですが、周囲のエンジニアレベルの高さと比較すると、自分は、まだプログラマーとして初心者だった事に気付かされました・・・。

かなり自信が無くなったのですが、ここで投げ出してしまったら、優秀な大学卒に自分の仕事が奪われて、無職になってしまう、と本気で思っていたので、その恐怖から逃げるのがモチベーションで努力する事ができました。

それでも気持ちが折れることが多く、もう駄目だな、と思うと、いつもフネさんの立ち姿が頭に浮かびました。
その度に「まだ、笑顔で定年を迎えられる程、まだやり切ってはいない」という思いと、悔しさだけがモチベーションで、業務に向かう事ができました。

インターネットレボリューションでは、SNSの開発(バックエンド、フロントエンド)、キャンペーンサービスの開発、会員システム周り、と、色々な開発をすることになり、インターネットサービスを作るエンジニアとしての自分の礎になりました。
本当にありがたいご縁だったな、と感謝しています。

ソーシャルゲーム開発へ

インターネットレボリューションで数年を過ごす中、インターネットサービス業界は、激変していきます。
家庭用ゲーム機だけではなく、携帯電話(当時はいわゆるガラケー)でゲームを遊ぶ時代がやってきたのです。

今は、ソーシャルゲームという名前で定着しています。

幼少期からゲームが好きだったこともあり、webの技術でゲームが作れるソーシャルゲームに私は大変興味があり、コナミに戻ってソーシャルゲームの開発に参加する道を選びました。

最初は、オリジナルゲームを開発していたのですが、同じ部署で開発していたドラゴンコレクションが、ヒットし始めました。
ユーザー増加と共にシステムが正常に動かなくなり始め、私もチームに参加することになりました。
私が担当していたのは、ゲームの面白さを作る部分ではなく、ユーザー増加で正常に動かなくなったシステムの修正でした。

このシステムの修正作業は、インターネットレボリューション時代のSNSを開発するスキルを活用できたので、あの時の努力が報われたんだな、と一人嬉しくて泣いていたりしていました。

エンジニアは、自分の開発しているものが多くの人に利用される事ほど、嬉しい事はないんです。

人生をインターネットサービス業界での活動に舵を切る

ドラゴンコレクションと戦国コレクションの開発に関わり、多くのユーザーさんに遊んで頂けた事で、ソーシャルゲーム(特にゲーム)を作りたい、という思いが自分の中で完全に消化されてしまいました。そして、自分の仕事を今後どうするべきか?  について考えるようになりました。

ソーシャルゲームを開発してみて、自分はゲームプログラミングに向いていない、やはり、インターネットサービスを作るのが向いている、という事が改めて分かりました。

業界自体も毎年新しいニュースが飛び交い、業界がどんどん発展しているのも肌で感じられました。

なにより、大学卒に仕事を奪われるという恐怖心から無心で働いていたら、この時すでに10年ほどインターネットサービス業界のお世話になっていました。

この仕事が自分に向いているかどうかは10年間考えた事はなったのですが、結果として同じ事を10年も続けられたのだし、それは自分に向いているんだろうな、と考えるようになっていました。

インフラストラクチャの技術を習得したいと思い、グリーに転職

インターネットサービス業界でやっていくことを決めた時に、大きな不安がありました。アプリケーション開発は出来たけれど、インフラストラクチャの知見が全くなかったことです。

これは、不味いと思ってインターネットサービス関連の会社を転職先として探していた際に、出会えたのがグリーでした。
グリーでは、サーバーを構築したり、監視システム開発のプロジェクトマネジメントをした後、マネジメント職を経験させて頂きました。

仕事をしながら、勉強させて頂けたこと、本当に感謝しています。
マネジメント職を経験したことは自分の人生で大きな転換点でした。

マネジメント職を担当する前は、マネジメント職が自分に向いているか、なんていうことは考えたことがなかったのですが、実際担当してみると、想像以上に大変だったけれど、上手くチームと仕事が回っていく事に大きな達成感・喜びを感じる自分に気づいたのです。

独立

35歳を迎えた時、今後の人生について、考えました。

インターネットサービス業界のエンジニアの間では、35歳という年齢は特別です。エンジニア35歳限界説、という単語があるくらいで、今後のキャリアを考える年齢です。

同時に、自分の気持ちの中では、35歳限界説までエンジニアを続けることができて、ようやく優秀な大学卒に自分の仕事が奪われる、という恐怖心を克服できた気がしました。

ただ、これからどうしたらよいか、前向きに考えると、何をして良いか分からず、途方に暮れてしまいました・・・。

見方を変えて、自分の肉体的な視点から考えてみます。
今年より来年、来年より再来年、心身の体力、健康を維持していくのは、難しいんだろうな、という事が分かりました。

そう考えると、ゼロから何かチャレンジをする人生最後のタイミングなのではないか?という事に気づきました。

同時に、当時、仕事にも満足していたので、このタイミングでチャレンジしなくても良い気もしました。

そういう時は、いつも自分に問いかけます。

「定年する時に笑顔でやり残したこと無い。あとは死んでいくだけだ」と言えるかどうか、と。

自分の中には、何かやり残した挑戦心のようなものが残っているような気がしました。
でも、具体的なアイディアがあるかと考えると、割と無いな、という気がしました(笑)。

目の前に無いとなると、自然と、過去を振り返ることになります。
自分はそもそも小説家になろうと思ったんだ、ということを思い出します。

小説を書いてみたかったのは間違いないですが、当時考えていたことは「自分の手で自分なりに仕事をしてみたかった」事だ、と思い出します。
「自分の手で自分なりに仕事をしてみたかった」この言葉から、独立という単語が閃きました。

今なら、小説家は無理そうだけれど、エンジニアのスキル・経験を生かした独立は可能なのでは?という事に気づきました。

人生最後の最大のチャレンジに「独立」。

悪くない。

独立であれば、自分のマネジメント職としてのスキルアップのチャレンジとしても良い気がしました。

エンジニアの領域で、具体的に何をするか?

それを考えました。

小説家になろうと思った自分でも、無限に努力を続けていればインターネットサービス業界のエンジニアとして活動していく事は証明できた、というのが当時の私の気持ちでした。

そして、ふと思ったのです。

私のように異業種出身の方で、インターネットサービス業界のエンジニアになりたい、と思っている人がいるのではないか?と。
インターネットサービス開発を事業で行う会社を作れば、異業種出身の方も受け入れられるし、彼らに自分の技術、経験を伝えることができるのではないか、と。

これは、人生最後のゼロからの挑戦として良いと思いました。

同時に、事業を続け、開発力のあるエンジニアを育て、エンジニアが増えることは、インターネットサービス業界への貢献になるのではないか?とも考えました。

そういう意味では、自分のスキルが活かせる開発であれば、開発するものは何でも構わないと思いました。

インターネットサービスを開発することが、自分が今までやってきた事なので、スタートアップの開発、新規事業開発、業務システム、API開発、クラウドサービス構築、等、すべて私にとっては、どれも等しくインターネットサービス開発であることに変わりはありません。

開発するものが何なのかよりも、自分の今までのスキル・経験を、多くの方達に提供できるのかどうかが、何より重要だ、と考えました。

インターネットサービスの受託開発、自社サービス開発を会社の事業にすれば、これを実現できそうだという結論になり、この領域で独立することにしました。

会社のビジョン MAKE GENERATION について

これは、独立をしようと決めてから大いに悩みました。
悩んでしまうと、やはり自分の人生を振り返ってしまいます。
振り返ると、何も思いつかないな、と思いました(笑)。

「何も思いつかなかった」という単語で思い出したのですが、そういえば、私の世代は、失われた世代 LOST GENERATION と呼ばれている事でした。

なんだか悲しい言葉ですね。失われていて何も無い感じです。

どうせ生まれるなら華々しそうな、バブル世代に生まれてみたかったな、とか、考えました。
そんな華々しさは LOST GENERATION という単語からは想像できないですよね。

でも、1つ気づいたんです。
何も無いなら、作って(MAKE)も良いだろう。

間違いない!

何も無い今であれば、今を生きる自分たちは、新しい価値を持った世代を作ってよいはず。

そうだ、LOST GENERATION がお送りする MAKE GENERATION これは分かりやすい!

世代を作る。

キーワードは良いと思うけれど、どんな世代を作れば良いのだろう?

これまたすぐに答えが出なかったので、やはり自分の人生を振り返る事にしました。

私は、結果的に、インターネットサービス業界のエンジニアとして、長い年月、生き残る事ができましたが、社会人の最初は、工場で働いていたわけですし、その後、小説家になるぞ、と意気込んでみたものの、あえなく挫折。偶然の出会いで、インターネットサービス業界のエンジニアになったわけですが、15年以上続ける事ができました。

こんな私の社会人の職歴は一例ですが、私のように流れ着いた職業が自分に向いている、という話は、世の中、割と多いんじゃないかな、という気がします。

それでも良いと思うのです。

社会に出て、何かしらの職業につき、向いていないようなら、他の仕事をしてみる。

その過程で、挫折はあると思います。

でもその挫折から自分の適性に気づいて、自分に向いている職業を見つけられると思うのです。
自分に合った職業を見つけられれば、そこからキャリアアップさせていく過程は、無限に努力できるのではないか?
すべての大人が、自分に合った職業について働ける時がくれば、今までとは違う新しい価値を持った世代が作れるのではないか、と。
そんな世代であれば、今より、より良い社会になる行動を起こすことが出来るのではないか、と。
それが MAKE GENERATION なんじゃないか、と。

MAKE GENERATION というビジョン達成に向けて、会社名は、会社の行動指針を表すものにしようと思いました。

インターネットサービス業界の仕事を15年以上続けてきて1つだけ分かったことがあります。

それは「変化が激しい」ということです。

今日の常識は、明日は非常識、なんていうことは普通にあります。

その変化の激しさは、日本の四季折々(オリオリ)のようです。

この変化の中でも、常に有難う(サンキュ)と言われる仕事の価値を提供して行こう、と考え、オリサンキュとすることにしました。

最後に宣伝

様々なご縁を頂き、弊社は活動を続け、4期目に突入し、メンバーも4人に増えました。

異業種出身でエンジニアになりたい人を受け入れ、私独自の教育(この件はwantedlyさんに取材頂きました)を実施し、従業員として活躍してもらう、という当初の目標も叶いました。
弊社のビジョン MAKE GENERATION 達成に向けた活動も、ほんの小さな一歩ですが前に進めた気がしています。


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まだまだ弊社ではこれから多くの開発を手掛け、弊社エンジニアに多くの経験を与え、強いエンジニアに育てつつ、弊社を選んで頂いた会社様から「サンキュ」と言って頂ける価値を提供し続けたいと、考えております。

弊社の業務領域としては、以下の通り、様々な領域でご相談可能です
- インターネットサービスの新規事業、スタートアップ開発(立ち上げを含む)
- CTO業務, 技術顧問
- 開発マネジメント
- API開発
- インフラ構築等
良く利用している技術(これ以外でもご相談可能)
- javascript
  - react, vue.js, nodejs
- Ruby On Rails
- php
  - Laravel
- GCP, AWS
開発体制
- 安定した開発を行うために2つの開発体制をご用意しています
  - 要件等マネジメント(折原)して、弊社エンジニアが実装する
  - 弊社エンジニアが御社のチームにジョインするような形で開発をお手伝いし、技術サポートを折原が行う

ぜひ、お気軽に、こちらのお問い合わせフォームから、ご相談ください。

ご連絡お待ちしております!


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