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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(26)「24」息の長い野手の系譜から投手の系譜へ】

割引あり

(写真 左から、12代・投手として新たな系譜東妻勇輔、初代・チームを引っ張った本堂保次、3代・19年間背番号24を背負った醍醐猛夫、4代・強打の外野手芦岡俊明、6代・地元出身の強打者立川隆史)


(26)「24」息の長い野手の系譜から投手の系譜へ

 オールドファンにとっては、背番号24と言えば醍醐猛夫の印象が強く残っているのではないだろうか。毎日、大毎、東京、ロッテと球団名が変更された歴史を辿った選手であり、その年数は19年に及んだ。その他にも息が長い選手が継ぎ、千葉移転時に着けていた山下徳人は5代目だった。
 マリーンズとなってからは立川隆史、平下晃司、そして、再び小池翔大、吉田裕太と捕手が引き継いだ。背番号24を継いできたのは打者だったが、投手として初めて24を背負ったのは現監督の吉井理人だった。シーズン途中のトレードで平下の番号を引き継いだからだったが、以降、下敷領悠太が継ぎ、現在の東妻勇輔が継いでいる。投手として新しい歴史を切り開いている背番号だ。

----- 現在の背番号「24」 -----

 ★《12代》2019(R1)年~2023(R6)年・6年目 東妻 勇輔(あづま ゆうすけ) 投手(在籍6年目)

 【東妻 勇輔 背番号変遷】24(6)
 2018(H30)年のドラフト2位で日本体育大学から入団した東妻勇輔が背番号24を引き継いだ。
 ルーキーイヤー19(R1)年の一軍登録は7月だった。3日のオリックス戦(京セラD)に4番手として初登板。一度抹消された後、8月1日のオリックス戦(ZOZOマリン)の延長12回表に9番手で登板、チームはその裏にサヨナラで自身初勝利をマークした。3日の楽天戦(楽天生命)では初ホールドを挙げる。9月中旬に抹消され、24試合、3勝2敗7ホールド、防御率4.71でルーキーイヤーを終えた。翌20(R2)年は新型コロナの濃厚接触者に特定されるなどのために13試合の登板に終わる。21(R3)年は6月に一軍合流。シーズン終了まで一軍マウンドに上がり、自己最多となる37試合の登板で1勝0敗4ホールド、防御率2.88と安定したピッチングを見せた。
 22(R4)年は一、二軍を往復。また、新型コロナ感染もあり、3試合の登板に終わる。23(R5)年は開幕は二軍だったものの5月初旬に一軍合流。安定したピッチングで中継ぎ陣の一角を担う。夏場に調子を落として抹消されたものの、36試合に登板し0勝1敗11ホールド、防御率2.91だった。CSにも登板した。
 (23年シーズン終了時)
 <113試合、4勝3敗、防3.41、0S、23H、0先発、0完封、78奪三振>

----- オリオンズ&マリーンズ「24」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1955(S30)年・6年 本堂 保次(ほんどう やすじ) 内野手(在籍8年)

 【本堂 保次 背番号変遷】24(6) ⇒ 30(1) ⇒ 54(1)
 球団創設時、阪神から移籍した本堂保次が初代背番号24を背負った。戦前から兵役を挟んでタイガース・阪神・大阪と太陽で活躍。前年は太陽から大阪に戻っていた。堅実な守備と打撃が武器だった。
 球団創設初戦には2番二塁でスタメン出場。3割5分を超える高打率でシーズン中盤からは6番に入る。終盤に調子を落とし、最終的に全120試合に出場し、打率.307でリーグ6位、12本塁打84打点で打線をけん引し初代日本一に貢献した。翌51(S26)年は打撃の調子を落として控えに回ることも多く、94試合に出場、打率.231、3本塁打32打点だった。
 52(S27)年はコーチ兼任となる。6番二塁で開幕スタメンで出場すると、このシーズンは復調して全120試合に出場し、打率.270、6本塁打56打点で終えた。翌53(SS28)年はコーチ兼任が外れる。101試合に出場し、打率.264(リーグ28位)、6本塁打39打点だった。
 54(S29)年は別当薫兼任監督の就任に伴い、再びコーチ兼任に指名される。しかし、自身はシーズン通して打撃の状態が上がらずベンチに控えることも多くなる。最終的に96試合に出場も、打率は2割を切り.189と低迷。3本塁打24打点だった。55(S30)年も打撃の状態が上がらず、さらに試合数を減らし、78試合に出場、打率.212、1本塁打10打点だった。
 コーチとしての役割が多くなり、来季も兼任で現役は続行するものの、オフには背番号を24から30に変更した。
 <658試合、打率.255、2112打数538安打、31本塁打、253打点、46盗塁>

 ★《2代》1956(S31)年・途中・不明 大竹 仁(おおたけ ひとし) 外野手(在籍4年)

 【大竹 仁 背番号変遷】24(途中) ⇒ 35(途中+3)
 1956(S31)年に社会人・東洋高圧砂川から入団した大竹仁が背番号24を継いだ。
 開幕から一軍に登録され、3月24日の高橋戦(川崎)に代打で初出場する。しかし、シーズン中に伊藤則旦が背番号を35から15に変更、大竹が背番号を24から35に変更した。背番号変更の時期と理由は不明。
 <86試合、打率.168、130打数22安打、1本塁打、12打点、0盗塁>

 ★《3代》1957(S32)年~1975(S50)年・19年 醍醐 猛夫(だいご たけお) 捕手(在籍19年)

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