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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/29「27」主力打者から主力投手、そして捕手エースナンバーへ】

割引あり

(写真 左から、17代・捕手エースナンバーへ田村龍弘、初代・4番も座った三宅宅三、7代・完全試合を達成して涙する八木沢荘六、10代・抑えの切り札から先発エースへ牛島和彦、13代・念願だった捕手のエースナンバー背負った清水将海)


(29)「27」主力打者から主力投手、そして捕手エースナンバーへ

 オリオンズ&マリーンズの背番号27の系譜は、意外にも主力選手の系譜だ。初代の三宅宅三から始まり、毎日・大毎時代は谷本稔も背負った主力打者の系譜だった。その流れを変えたのは完全試合も達成し、13年背負った八木沢荘六だった。以降、オリオンズの終盤には牛島和彦、マリーンズとなってからは河本育之、戸部浩、古谷拓哉と投手が継いでいた。
 そして昨季から捕手の田村龍弘が継いだ。マリーンズでは、投手が継いだ背番号27だったが、2003年と04年の2年間だけ清水将海が背負っていた。「捕手のエースナンバー」とも言われ、清水も「名捕手のイメージが強く欲しかった背番号」と念願の背番号27だった。2年で移籍して以降投手が継いでいたが、その背番号を田村が継ぎ、新しい背番号の系譜を作っていく。

----- 現在の背番号「27」 -----

 ★《17代》2023(R5)年~現在・24年は2年目 田村 龍弘(たむら たつひろ) 捕手(在籍11年目)

 【田村 龍弘 背番号変遷】45(4) ⇒ 22(6) ⇒ 27(2)

 自身10年目の2023(R5)年に、前年2試合の出場に終わった田村龍弘が7年間背負った背番号22から27に変更した。
 その23(R5)年は2年ぶりに開幕スタメンマスクを被る。ところが序盤は開幕直後に無安打が続くなど打率は1割台前半と低迷。5月24日には3年ぶりに一発を放つなど徐々に状態を取り戻すものの、佐藤都志也と併用起用される。最終的にフルシーズン一軍で過ごしたが、78試合(捕手は76試合)に出場し、打率.166と2割を切った数字で終わった。投手陣の信頼は厚いだけに、課題の打撃力向上で正捕手奪還を目指す。
 (23年シーズン終了時)
 <921試合、打率.222、2346打数521安打、19本塁打、239打点、19盗塁>

 ※在籍時に選出された表彰
  ◆ベストナイン(2016年/捕手)
  ◆月間MVP(2016年6月/野手)
  ◆最優秀バッテリー賞(2016年 投手/石川歩)
  ◆月間最優秀バッテリー賞(2020年8月 投手/益田直也)

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----- オリオンズ&マリーンズ「27」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1957(S32)年・8年 三宅 宅三(みやけ たくぞう) 内野手(在籍9年)

 【三宅 宅三 背番号変遷】27(8) ⇒ 53(1)
 明治大学を卒業後、岡山・倉敷工業高校の監督として前年には甲子園に導いていた三宅宅三が、球団設立時にテスト入団し、初代背番号27を背負った。
 球団創設初戦に6番一塁でスタメンに抜擢され初出場。その試合は無安打に終わったものの、押し出し四球で初打点を記録した。球団4戦目の3月16日の阪急1回戦(大須)に代打で登場して初安打を記録。しかし、以降は打撃が低調で打率も2割を割り一軍を離れる。その後、一軍と二軍を往復し、シーズン終盤には徐々に状態を上げたが、1年目は37試合に出場し、打率.231、1本塁打、9打点に終わる。日本シリーズにも2試合に出場したが無安打に終わった。翌51(S26)年は外野も守る。ハワイ遠征の一軍ではなく留守軍に入りキャンプイン。留守軍で組まれた開幕戦に3番中堅でスタメン出場する。一軍メンバー帰国後も一軍に帯同し、外野と一塁でスタメン起用される。最終的に88試合に出場し規定打席に到達。打率.281と前年から数字を大幅に上げリーグ16位、8本塁打39打点と飛躍した。
 52(S27)年は開幕一軍を外れて4月中旬に合流。合流後は一塁と外野でスタメン起用され、4割近い打率をマークして4番に起用される。夏場には調子を落とし4番を外れる。9月にはケガで離脱したものの復帰後も3番として2割台後半の打率をキープし、最終的に打率.291でリーグ12位、18本塁打69打点と打線を引っ張ったシーズンとなった。
 53(S28)年は開幕戦で4番一塁でスタメン出場する。山内和弘の加入で4番を渡すが、3番に入り3割前後の打率をキープする。最終的に113試合に出場し、打率.272(リーグ22位)、14本塁打63打点だった。ところが翌54(S29)年は一転して不振に陥る。開幕は3番一塁でスタメン出場も状態が上がらない。山内が開幕から離脱したこともあり4番にも座るが、打率は2割前後で低迷。最終的に規定打席に到達したものの打率は.199と2割を割り(リーグ47位)、9本塁打45打点と低迷した。
 55(S30)年は榎本喜八が入団し一塁に固定され、外野に専念する。開幕スタメンは外れたものの、打撃が好調で右翼と中堅の定位置を確保する。前半は打率.292、7本塁打で折り返す。終盤に調子を落としスタメンを外れ規定打席に届かなかったものの、打率.276、15本塁打46打点と復活したシーズンとなった。翌56(S31)年も好調な打撃を武器に外野の一角を占める。後半は1番にも座り、最終的に打率.274、7本塁打37打点だった。
 57(S32)年は主将に任命される。主将として若手の指導も役割の一つとなり、一軍を離れて二軍で若手の指導に当たる。一軍と二軍の往復が多くなり、最終的に33試合の出場に留まり、打率.200、1本塁打4打点に終わった。オフには背番号を53に変更した。
 <723試合、打率.262、2087打数547安打、73本塁打、312打点、125盗塁>

 ★《2代》1958(S33)年~1959(S34)年・2年 新井 茂(あらい しげる) 外野手(在籍2年)

 【新井 茂 背番号変遷】27(2)
 1958(S33)年に大映との合併で入団した新井茂が背番号27を引き継いだ。
 大映では外野の準レギュラーとして活躍していた。若手の台頭もあり外野手争いが激化した中で、58(S33)年は6番中堅で開幕スタメン出場を果たし、大毎初安打も記録する。その後もスタメン出場しつつ代打としても出場し、2割台後半の打率を維持する。しかし、後半に入ると失速して二軍落ち。最終的に打率.229、1本塁打6打点に終わる。
 翌59(S34)年は4月に代打で1試合に出場したものの無安打。最終的に一軍での出場はこの1試合に終わり、59年限りで引退した。
 <56試合、打率.226、84打数19安打、1本塁打、6打点、0盗塁>

 ★《3代》1960(S35)年・1年 保坂 幸永(ほさか ゆきなが) 捕手(在籍3年)

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