《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(37)「35」初代日本一総監督から外野手の出世番号へ】
(写真 左から、22代・将来性期待の田中晴也、初代・初代日本一へ導いた総監督湯浅禎夫、8代・35を出世番号にした弘田澄男、11代・オリオンズ移籍で花開いた庄司智久、18代・マリーンズで35を出世番号にした鈴木大地)
(37)「35」初代日本一総監督から外野手の出世番号へ
背番号35の系譜は初代日本一指揮官の湯浅禎夫から始まる。その後は細かく入れ替わるが、出世番号にしたのは弘田澄男だった。内野手で入団したが外野手に転向して背番号を3に変更して日本一打線の切り込み隊長となった。その弘田と新ミサイル打線の1、2番コンビを組んだのが11代の庄司智久。巨人ではくすぶっていたが、移籍してブレイクして背番号35を印象づけた。マリーンズとなって出世番号にしたのが18代の鈴木大地。2年目にベストナインに選出され、3年目から背番号7を背負った。
----- 現在の背番号「35」 -----
★《22代》2023(R5)年~2024(R6)年・2年目 田中 晴也(たなか はるや) 投手(在籍2年目)
【田中 晴也 背番号変遷】35(2)
2022(R4)年のドラフト3位で新潟・日本文理高校から入団した田中晴也が、背番号35を引き継いだ。高校時代は2度エースとして夏の甲子園に出場した。
1年目の23(R5)年はコンディション不良もあり、8月に二軍デビューを果たしたものの、一軍登板はなく終わった。
(23年シーズン終了時)
<一軍未出場>
----- オリオンズ&マリーンズ「35」の系譜 -----
★《初代》1950(S25)年~1953(S28)年・4年 湯浅 禎夫(ゆあさ よしお) 一軍総監督兼投手⇒二軍総監督⇒一軍総監督(在籍4年)
【湯浅 禎夫 背番号変遷】35(4)
明治大学から毎日新聞社に入社し、大毎野球団(大毎オリオンズとは別球団)に投手として活躍。解散後は記者となっていた湯浅禎夫が、球団創設時に毎日新聞社からの出向として総監督兼投手として入団し、初代背番号35を背負った。
パ・リーグ1年目の50(S25)年は圧倒的な戦力を有し、開幕から南海と飛び出す。5月に入ると南海を突き放し6月には独走態勢に入った。投手としては、11月5日の阪急戦(西宮)では阪急が監督兼投手の浜崎真二(48歳11ヶ月)が先発したことに対して、48歳1ヶ月の湯浅が先発し4回2失点と好投した。最終的に2位の南海に15.0ゲーム、3位の大映に19.5ゲームと大差をつけて圧勝した。日本シリーズでも4勝2敗で松竹を下して初代日本一にチームを導いた。
2年目の51(S26)年は4番の戸倉勝城を阪急に無償トレードで手放し、エースの荒巻淳の不調もあり、南海の独走を許して3位に沈んだ。
52(S27)年は南海、大映、阪急と首位争いを繰り広げる。しかし、7月16日の西鉄戦(平和台)で発生させた意図的な遅延行為で騒動となった「平和台事件」の責任を取り、27日に若林忠志監督兼投手とともに一軍担当を辞任し、二軍監督に降格した。
53(S28)年は再び一軍の総監督に復帰する。ただ、このシーズンは登録上の総監督としての復帰であり、実際にチームの指揮は監督の若林忠志が指揮を執った。オフには正式に退団した。
※1954(S29)年 空番
★《2代》1955(S30)年~1956(S31)年・2年 伊藤 則旦(いとう のりただ) 投手(在籍4年)
【伊藤 則旦 背番号変遷】35(1+途中) ⇒ 15(途中) ⇒ 36(2)
1955(S30)年に愛知・津島高校から入団した伊藤則旦が、1年空番だった背番号35を引き継いだ。
1年目の55(S30)年から一軍マウンドに上がる。6月22日の近鉄7回戦(大阪)に4番手として初登板を果たし、以降、リリーフとしてマウンドに上がる。その後一軍を離れ9月に再登録される。6日の近鉄15回戦(奈良・橿原公苑)で初先発のマウンドに上がり、8回途中まで無失点でしのぎ、初勝利をマークする。最終的に9試合(4先発)に登板し2勝1敗、防御率3.09で終えた。
2年目の翌56(S31)年はシーズン途中に背番号を15に変更したが、時期と理由は不明。
投手<22試合、3勝2敗、防2.80、8先発、0完封、29奪三振>
打撃<22試合、打率.200、15打数3安打、0本塁打、1打点、0盗塁>
→ 伊藤則旦 背番号15 へ(有料エリア)
★《3代》1956(S31)年途中~1959(S34)年・3年数ヶ月 大竹 仁(おおたけ ひとし) 外野手(在籍4年)
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