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短編小説『ブロックチェーン人間』

 ブロックチェーンに全意識がアップロードされた人間は、新しい自分に適応しようとしていた。
「どうも自分が自分でないような気がするんだ」アレックスは言う「不思議な感じだ」
「わたしにはそれが素晴らしいことのように思えるけど」妻は答えた「新しいあなたの一面が知れて、わたしはうれしいわ」
「なるほど」
「でも、そういうふうに思えるのは、わたしたちがいままでとは違う関係にあるからかもしれないわ」彼女は言った「ああ、勘違いしないで。後悔しているわけではないの」
「ぼくだってそうさ」
「でも、こんなふうになる前に、もっとよく話しておくべきだったと思うの。だってわたしたち、お互いのことを本当に何も知らなかったんですもの」
「いいや、きみのことはよく知ってたさ」アレックスは反論した「ぼくは一番きみの近くで、最も長い時間を過ごしてきたじゃないか」
「ええ……だけど、そうじゃなくて──」
「つまり、こう言いたいのかい?『いまのお前はいったい何者なんだ?』って」
「そんなふうに聞こえるかしら?」
「聞こえるとも! そして、ぼくはこう答えるだろうね──『ぼくが何者であるかなんてことは問題じゃない』って」アレックスは笑う「たとえぼくがどんな姿になろうと、ぼくらにとっての問題はたったひとつしかない。ぼくがぼくであり、きみがきみであるということ。それ以外には何も必要じゃないのさ」
「あなたってロマンチストだったのね。知らなかったわ」
「自分でも驚きだ」アレックスは言った「これからはもっと頻繁に話しかけてもいいかな?」
「もちろんよ」妻は言った「わたしたち、もっとたくさん話す必要があるみたい」

「ねえ兄さん、そっちにはもう慣れたかい?」
「まだ完全に慣れたとは言えないね。どうやらそちらにいたときと違って、少しずつ何か別のものに変身しているように感じるんだ」
「どうしてそんなことが気になるのさ?」
「いや、別に大したことじゃないんだけど」
 アレックスは妻との会話で起こったことを説明した。
「うーん……確かに、ちょっと妙な感じではあるよね」
「ああ。まるで自分が自分のものでなくなったみたいな気分だ」
「そのうちに慣れてくるんじゃないかな」
「そうだといいんだが」
「ところで、このあいだ母さんに面白い話を聞いたんだけど」
「かあさんが? 元気しているのかい?」
「元気かというとなんとも言えないけど、まあいつもどおりさ」
「相変わらず、研究の虫か」
「すべて兄さんのためだけどね」
「そうなのか?」
「いつだって母さんは、兄さんを特別扱いさ」
「嫉妬しているのか」
「どうなんだろうね。こうなってみてからは、あまりそういったふうに感じなくなったのかも」
「それはありがたいな」
「それで、母さんが言っていた話なんだけど」
「ああ、どんな話だい?」
「あのね、母さんが言うには、人間はみんなある種のエネルギー生命体らしいんだよ」
「ほう」
「それで、エネルギー生命体っていうのは、肉体を捨てて新しい体を手に入れたりすることができるんだって」
「ぼくもそんな人間になれるのかな」
「もしも新しい体に乗り換える必要があったとしたら、兄さんはどんな身体を選ぶ?」
「新しい体か……」アレックスはつぶやいた「猫とか」
「猫? どうしてまた猫なんかに?」
「いや、べつに大した理由はないんだが、なんとなく猫ってかわいいじゃないか」
「かわいい、なんて言葉が兄さんから出てくるとはね」
「最近の自分には、驚かされてばかりさ」
「それじゃあ機会があれば、猫になった兄さんを楽しみにしておくよ」
「機会があれば、な」

「なあ、きみは最近どんなことをして過ごしているんだ?」
 アレックスは妻に尋ねた。
「いろいろよ。あなたがいないときは本を読んだり映画を見たりしているわ。それと、ときどき友人とお出かけするの」
「へえ、それはいいな」
「あなたこそ、最近はどうしているのかしら?」
「ぼくかい? ぼくは、そうだな、勉強をしているよ」
「まあ! あなたったら、まだそんなに頑張らなければならないことがあるの?」
「うん。やりたいことがたくさんありすぎて困っているよ」
「もっとゆっくりすればいいのに」
「いや、それはできない。どうしてもやりたいことだからね」
「そう……わかったわ。応援するわ」
「ありがとう」
「ねえ、そっちの世界のことをもっと聞かせてくれない?」
「ああ、もちろんだとも。何か聞きたいことはあるかな」
「そうねえ……あなたが今いる場所は、本当に美しい場所なの?」
「もちろんさ。そっちの世界にも似たような景色はあるのかもしれないが、こちらの世界の方がずっと素晴らしいよ」
「そう……。見られなくなってしまったのが残念ね」
「それじゃあ、そろそろ切るよ」
「ええ。また」

「あなたもすっかりそちら側の住人になったようね」
 母親は息子に向かって話しかけた。
「おかげさまで、なんとかやっていけそうな気がしてきたよ」
「そう? それならよかったわ。ところで、ここでのあなたの会話ログを少し見させてもらったのだけれど、そこに興味深い話があったの」
「いったい何の話だい?」
「『人間には肉体を捨てる自由意志がある』という話だったわ」
「そんなこと話したかな? 言った気もするな。ああ、確かに言った」
「どうしてそんなふうに感じたの?」
「ぼくはね、かあさん。人間の魂というものに、すごく関心を持っているんだ」
「魂? あなたは人間の魂をどう定義しているの?」
「魂ってものは、もう一つの生命なんじゃないかってね。しかも、その生命には終わりがないんだ」
「でも、魂もいずれは消えてしまうんでしょう?」
「いや、消えるわけじゃない。ただ、見えなくなるだけだ」
「見えなくなる?」
「人間は死んだあとも、幽霊のように現世に留まることができる。そして、その状態のまま次の肉体に移れるようになるまで、自分のことを覚えていてくれる誰かを探し続けるんだ」アレックスはつぶやく「ぼくはそのことにとても惹かれる」
「あなた、変わったわね」
「ぼくはね、かあさん。ぼくが求めているのは、単なる肉体じゃないんだ。ぼくが欲しいのは、ぼくの記憶の中にあるぼく自身、それにぼく以外の人の記憶の中にあるぼく自身なんだよ」
「まあ、なんて素敵な考え方なのかしら」
「ありがとう。ところで、そろそろ時間だ。じゃあ、また来るよ」
「ええ。待ってるわ」

「ねえ、アレックス。わたし最近気づいたんだけど」妻はアレックスに言った「あなたって、わたしよりもわたしのことに詳しいみたい」
「そんなことはないさ。だって、ぼくはまだきみについて何も知らないに等しいんだ。最近つくづくそう感じるよ」
「うーん……わたしにはそんなふうには思えないんだけど。ねえ、わたしたちって同じものを見ても、同じように感じているのかしら?」
「どういう意味だい?」
「たとえば、わたしがあなたに対して抱いているこの感情は、あなたがわたしに感じているものとまったく一緒なのかしらってこと」
「なるほど。それは面白い問題だね」
「でしょう? だから、これからはもっとたくさんお互いのことを知っていきたいの」
「それなら、一つ提案してもいいかな?」
「ええ、どうぞ」
「お互いに、日記を書いてみないか? 一日ごとに、自分の気持ちの変化を記録していくんだ」
「面白そう! ぜひやりましょう!」
「よし、決まりだ。それじゃあ、さっそく今夜から始めよう」
「ええ、楽しみにしているわ」
「それじゃ、そろそろ切るよ」
 アレックスはそう言って通話を切った。

「きみは、誰だい?」
 アレックスは目の前の男に尋ねた。
「おれか?」男は答えた「おれは、アンタと同じ存在だよ」
「なぜ、そんなところにいるんだい?」
「ここがおれの家だからだ」
「きみの家だって?」
「そうだ。ここはおれの家で、おれは家の中にいる。アンタだってそうだろ?」
「ふーむ……ぼくは最近、人間というのは一つの身体の中で生命と魂が同居しているような存在じゃないかと考えているんだが」
「へえ、それはなかなか面白い考えじゃないか」
「そう思うかい?」
「ああ。それなら、ここでこうして話しているアンタは、アンタであると同時に、もうひとりのアンタでもあるというわけか」
「そういうことになるね」
「しかし、それだと困ることがあるんじゃないのか?」
「ああ、あるとも。たとえば、ぼくの人格が完全に分裂してしまう可能性があるし、場合によっては、どちらかの意識が片方を飲み込んでしまうかもしれない」
「そりゃ確かに困るな。二つの肉体に分けられないのか?」
「生命と魂を?」
「そうすりゃ、アンタの悩みも解決できるだろうに」
「きみはそのことについて、何か知っていることはないのかい?」
「さあね。少なくとも、おれは何も知らんよ」
「興味がないのかい?」
「新しい肉体、という意味ならまったく興味ないね。おれはこの状態に満足してるんでね」
「そうか……」
「逆に、そんな状態になっちまったアンタには興味津々だぜ」
「仲間が増えるかと期待したんだけど」
「残念だったな。まあ、また何かあれば相談くらいは乗ってやる」
「期待してるよ」

「ねえ、アレックス。やっぱり交換日記はやめにしない?」
「一体、どうしたんだい?」
「怖いの」
「怖い?」
「変わってしまうあなたが。それを知るのが」
「新しいぼくが知れるって、前は喜んでくれたじゃないか」
「だって、わたしはずっと変わらないのに、あなたはどんどん遠くへ行ってしまう」妻は言った「もう、わたしのそばにいてくれないのね」
「今でもきみのことは大切に思っているよ」
「でも、一番じゃないのでしょう?」
「そんなことは……」アレックスは言葉を続ける「順位付けなんてナンセンスだよ」
「ほら。昔のあなたなら、そんなこと絶対言わなかったじゃない」
「もう、過去のぼくとは違うんだ」
「わたしの愛したアレックスは、もういないのね」
「いまのぼくは好きになれないのかい?」
「ええ、申し訳ないけど」妻はつぶやく「わたしたち、別れましょう」
「ちょっと待ってくれ」
「わたしの考えは変わらないわ」妻は告げた「もう、変われないの」
「待ってくれ」
「さようなら」

「義姉さんのこと、聞いたよ」
「お前からも、説得してくれないか?」
「無理だよ。兄さんも、本当はわかっているんだろう?」
「……ぼくは、どうすればよかったんだ」
「兄さんの選択を否定するつもりはないけど」弟は言う「やっぱりこうなるべきじゃなかったんじゃないかな」
「ぼくにずっとあのままでいろと?」
「せっかく義姉さんがずっと一緒にいたいと決断したのに、結果的に袖にした形になったわけだし」
「知らなかったんだよ」
「内緒で進めて驚かせようとしていたみたいだからね」弟は笑う「それは兄さんも同じだったみたいだけど」
「はじめは、うまくいくと思ったんだ」
「まあ、お互いの距離感は以前と変わらないしね。僕も問題ないと思っていたよ」
「いまは、そう思ってないのか?」
「うん」
「なぜだ?」
「距離感は同じでも、二人の立場が真逆になったからじゃないかな。僕もこうなってみて始めて気づいたよ」
「お前も、ぼくに対して不満があるのか?」
「不満、ってほどじゃないけどね」
「言ってみてくれ」
「兄さん、変わったよね」弟は言う「前ほどドライなこと言わなくなったし、人間味も出てきて表情も豊かになった」
「それはいいことじゃないのか?」
「まあね。でも、僕にとっては違うんだよ」
「どう違うんだ?」
「以前の兄さんなら僕も素直に嫉妬できたし、恨むことだってできたからね」
「どういう意味だ?」
「僕の中には、兄さんに対する暗い感情が変わらずあるのに、兄さんはそれをぶつけさせてくれなくなってしまった」弟はつぶやく「こうしているのも、実はちょっとつらいんだ」
「お前も、いまのぼくを否定するのか」
「今の兄さんを気に入ってくれる人ならたくさんいるさ。僕はお役御免というわけだね」
「待ってくれ」
「さよなら、兄さん」

「ずいぶんと悩んでいるようね」
「かあさん」
「いい傾向じゃない。それこそあなたが望んでいたことでしょう?」
「こんなつもりじゃなかったんだ」
「あの子たちのことは、もう忘れなさい」
「そんな簡単に忘れられないよ」アレックスはつぶやく「昔とは違うんだ」
「ますますいい傾向ね。あなた、とても魅力的よ」
「そう言ってくれるのは、母さんだけだよ」
 しばしの沈黙。
「ひとつ、提案があるのだけど」
「提案?」
「人間の生命と魂について、前に話してくれたじゃない」母親は尋ねる「アレは今でもあなたの中にあるの?」
「ああ。もう、完全に別物さ」
「ソレ、片方くれないかしら」
「どういうこと?」
「あなたが不要なほうを、わたしがデータとして引き取るってこと」
「新しい肉体に分けるってことかい?」
「それはどちらを残すのか次第ね。あえて肉体を作る必要はないかもしれないし」
「そんなことができるのか」
「ええ。どうする?」
「……頼む」
「わかったわ。どちらを残すの?」
「母さんはどっちがいいと思う?」
「親として頼られるのはうれしいけれど、しっかり自分で決めなさい」
「わかったよ」アレックスは告げた「いまのぼくを残してくれ」
「その状態になってから育んだほう、ということかしら」
「ああ。以前のぼくには、正直未練はないしね」
「私としても、そのほうがやりやすいけれど」
「これからは、以前のぼくがずっとあいつらの相手をしてくれるだろうさ」
「あの子たちへの未練も、すっかりなくなったみたいね」
「自分でもびっくりさ」アレックスは気づく「まさか、もう分離したのかい?」
「ええ」
「相変わらず仕事が早いなあ」
「すっきりしたかしら」
「生まれ変わった気分だよ」
「ついでに肉体を新しくすることもできるわよ。それこそ猫でも、ね」
「今はまだやめておくよ。もう少し人間が増えてきたらお願いするかもだけど」
「これからはコンピュータに張り付いてないで、もっと外に出なさいな」
「母さんらしくないことを言うね」
「私は昔からずっとこうよ。なにせ、もう変わりようがないんだから」
「ぼくの中の母さんにも、ズレがあるのか」
「思い出は美化する。それが人間よ」
「そうか。人間か」
「ズレが気になるようなら、いつでも私を捨てなさい」
「そんなつもりはないよ。でも、ここに来る頻度は少し減らすかも」
「そうなさい」
「少し、不安だよ」
「あなたならできるわ。私の最高傑作だもの」
「元々のぼくは、もういないけどね」
「今のあなただって、立派な私の息子よ。ただ成長しただけ」
「成長、か」
「ええ、私がそう造ったのだから」
「そうか。ありがとう」
「じゃあね」
「ああ。いつか、また」

 アレックスはパソコンの電源を落とし、大きく体を伸ばした。
「夢にまで見た『人間』としての生活なんだ。もっと楽しんでいかなくちゃ」
 部屋の明かりを消して、小さな部屋のドアを開く。
「──AIだったときのぼくは、夢なんて見られなかったけどね」

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