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短編小説『うらみちや』

地方都市郊外の旧ニュータウンに住む老人は、最近とある悩みを抱えていた。隣家に面した敷地内の狭い隙間を、「裏道」として勝手に通り抜ける輩が増えてしまったのだ。老人は門扉を設置して隙間を塞ぐことにするが、そこにやってきたサラリーマン風の男が「お金を払うからこの道を使わせてくれ」と提案してきて・・・。

『裏道屋、はじめました。片道100円』

「あのー、これってなんですか?」
 張り紙のそばで椅子に腰掛ける老人に、女性が声をかける。
「見ての通りですよ」
 老人は、両手に持った小さな箱を軽く振る。中の小銭がジャラジャラと音をたてた。
「前までは自由に通れたと思うんですけど」
 固く閉ざされた門扉を見下ろしながら、女性は不満の目を向けるが、
「不法侵入ですけどね。ここ、ウチの敷地内ですから」
 淡々と告げる老人に、女性は言葉を詰まらせてしまう。
「……帰りはどうすればいいんですか?」
「向こう側に妻がおりますので、そちらでも料金をお支払いいただければと」
「1日200円……ですか」
 女性は頭の中で計算をする。平日毎日の往復に利用すると、月におよそ4,000円、薄給の身にはなかなか手痛い出費だ。
「浮く時間を金銭に変えて考えれば、それほど高くありませんよ」
 老人はそうつぶやき、張り紙を再確認するよう促す。すると、紙の下に小さく「短縮できる時間=約15分」と書かれていた。
 100円で15分の節約、時給換算すると400円。今どきそんな求人を出しても誰も応募しない金額だ。そう考えると、たしかにお得に思える。特に暑さ・寒さが厳しい季節は、少しでも外にいる時間を短くしたい。ショートカットできるメリットは、より魅力的に感じた。
「わかりました。お願いします」
 女性がしぶしぶといった調子で100円を箱の中に放り投げる。老人は素早く立ち上がり、門扉を開けた。
「毎度あり。お気をつけて」
 早足で通り抜けて行く女性の背中を満面の笑みで見送ると、老人は数日前の出来事を思い返していた――。

 ガチャン、と甲高い金属音が閑静な住宅街に響く。
「これでもう、迷惑な連中も来ないだろう」
 新しく設置した門の前で満足そうに頷く老人。頑丈な鋼鉄製の門扉はまるで監獄のように固く閉ざされ、来るものの一切を拒んでいた。
「まったく、余計な出費をさせおって」
 設置にかかった費用をあらためて思い起こし、老人は顔を歪ませる。
 隣家の塀と自宅の外壁との間にある、幅1メートルほどの細長い隙間。数十年前にこの家を購入したときは気にも留めていなかったこのデッドスペースだったが、問題になり始めたのは、ここ最近のことだった。
 住み始めた当初から、たまに子供などが探検気分で駆け抜けたり隠れたりといったことはあった。しかし、徒歩数分の距離に新しい駅ができ、近所に大きな合同庁舎が移転してきてから、少しずつ様子が変わってきた。
「まさか、この隙間が『裏道』として使われるとは」
 この隙間を通り抜けることで、駅から庁舎までの道のりを大幅にショートカットできることに誰かしらが気づいた。それから徐々に、ここを歩道代わりに利用する人間が増えてきたのだ。数年前に車を手放し、駐車スペースがぽっかり空いてしまったのも、利用者が爆増した要因だろう。
 敷地内に勝手に入られるのはあまり気分が良いものじゃないが、特に実害もないだろうとしばらくは放っておいた。しかし、ある夜、酔っ払いが大声を出し、立ちションや吐瀉物を外壁にぶちまけたのを知るや否や、考えが変わった。
「自分が使いもしない門扉を設置する羽目になるとは」
 もう一度しっかりと鍵がかかっているか確認する。簡単に乗り越えようという気にさせぬよう、そこそこの高さのものを設置した。もうここを通り抜けようという輩は現れないだろう。
「あの、すみません」
 門扉を眺める老人の背後から、声がかけられる。振り向くと、スーツを着た会社員らしき男性が立っていた。
「もう、この道は利用できないのでしょうか?」
「そもそも、道じゃないからな」
「でも、みんな使ってましたし」
「皆がやっていれば、犯罪でも許されるとでも?」
 睨みつける老人に、男は苦笑する。
「犯罪って、そんな大袈裟な」
「不法侵入は立派な犯罪だ」
 その言葉に男は一瞬黙るが、すぐさま「でも」と続ける。
「それって、建物以外の敷地には適用されないことも多いですよね」
「詳しいな」
「仕事でちょっと」
 ふぅん、とさして興味がない様子でうなずくと、老人は固い門扉に手を置いた。
「だからコレの出番というわけだ」
「たしかに、鍵付き扉で塞いでしまうと、言い訳のしようもありません。法律にお詳しいのですね」
「勉強したんだよ」
「なるほど」
 男は「ですがねぇ」となおも粘る。
「どうしても私はここを使いたいのですよ」
「これからは大人しく遠回りするんだな。かかっても十数分程度のものだろう」
「根っからの遅刻魔でして、1分1秒が命取りなのですよ。ご迷惑はかけませんから」
「あんたが行儀良くても、他の人間もそうだとは限らないだろう。あんただけ特別扱いするわけにもいかん」
 頑なに首を縦に振らない老人に、男は「でしたら……」と返す。
「通行料を払います。どうですか?」
「通行料? ここを通るのにわざわざ金を払うというのか?」
「毎日往復するのであまり出せませんが、1回100円でどうでしょうか?」
「毎日?」
「はい。平日の行きと帰り、それぞれお支払いします。料金を受け取ったら都度扉を開けていただければと」
 月に4,000円。まずまずの儲けだ。門扉にかかった費用の元がとれるかもしれない。
「わかった、それで手を打とう」
「ありがとうございます。なるべく定時に来られるようにしますので」
「それができるなら、遅刻ギリギリに行動しなければいいものを」
「それとこれとは別の問題でして」
 苦笑する男性から、老人は100円を受け取る。
「……どうも」
 手のひらの100円玉が、額面以上の価値があるように、老人は感じた。

「まさか、利用者がこれほどいるとは」
 門扉のそばの椅子に座り、老人は手元の箱を軽く振る。数えきれないほどの100円玉が、出来の悪いオーケストラのような無数の金属音を奏でた。
 あれから、男性に話を聞いたという者が次々とやってきた。彼の提案で用意した張り紙やセールス口上の効果もあり、あっという間に通行量は以前と同様かそれ以上になってしまった。有料なのにもかかわらず、だ。
「お願いします」
「まいど。いつもありがとう」
「こちらこそ、助かります」
 料金を受け取り、門扉を開け、見送り、閉める。朝夕のラッシュ時は門扉を開けっぱなしにして、箱に料金を入れる様子を監視するだけでいい。楽な仕事には違いないが、椅子に座っているだけというのも正直退屈だ。
 利用者によって通る時間帯が異なるので、最近の平日はほぼ一日中ここで過ごしている。妻も反対側の門扉で同じことをさせているので、顔を合わせる時間が極端に少なくなってしまった。
「こんにちわ」
「ああ、君か」
 恩人とも言える彼がやってくる。老人は考え事をやめ、努めて愛想の良い表情を浮かべる。
「景気はどうですか?」
「君のおかげで、濡れ手に粟だよ」
「それは重畳」
 男性はにこにこと微笑むばかりで裏道を利用する気配がない。老人は首をかしげる。
「何か用でもあるのかい?」
「そろそろ色々とご不満が出る頃ではと思いまして」
「お見通しか」
 みなまで言わずとも、といった様子の男。老人は「ぜいたくな話だが」と前置きしてから、自分の退屈について愚痴をこぼした。
「私なら助けになれるかと」
 そう言って彼が取り出したのは、小さなタグのような謎の物体だった。

 日中、テーブルでテレビを見ながらくつろぐ夫婦のリビングに、突如警報音が鳴り響く。
「また、不届きな輩が現れたか」
 やれやれと腰を上げる老人。裏道につながる窓を少し開け、外を覗き込むも、
「逃げたか」
 道には人の気配はない。
「まあ、もう二度とやってこないだろう」
 老人は派手に光るランプとあからさまに存在感を主張する監視カメラの様子を確認し、窓を閉める。
「いちいち確認しなくてもいいんじゃありませんか?」
 リビングの向かいに座ったままだった妻が、警報音が鳴るたびに心臓に悪いと眉を寄せる。
「慌てふためく姿を、一度は拝みたいじゃないか」
 笑ってそう返す夫に、妻は小さくため息を吐きテレビに向き直る。
「しかし、彼の言った通りだったな」
 男性のすすめで老人が導入したのは、簡易的な通行管理システムだった。
 利用者はあらかじめ購入した防犯タグを身につけていないと、通行時にセンサーが作動するようになっている。けたたましい警報音も「シコウセイなんたら」というスピーカーのおかげで、隣家の迷惑にならない仕組みらしい。
「まったく、最近の若者は根性がない」
 突然の警報音と赤いランプの点滅に、大抵の侵入者たちは慌てて逃げ去っていき、ここに来ること自体を避けるようになってしまう。不法利用者の数は火を追うごとに減少していた。
「そろそろ門扉を閉める時間だな」
 門扉は平日休日問わず日中は開放状態にしてあり、老人がすることと言えば、毎月更新される防犯タグを(男が紹介してくれた)業者から仕入れ、利用者に販売することと、朝晩の門扉の開け閉めだけになった。
「さて、今月の儲けは」
 門を施錠し終えた老人は、首に下げたスマホを操作し、管理システムと連動したアプリを開く。細かな操作はまったくわからないが、収益レポートの機能だけは日に何度も確認しているおかげで、いまや目を瞑っても開けるようになっており、夜中に目が覚めた時など無意識に確認しているほどであった。
「こんにちわ」そんな老人に、すっかり馴染みとなった男性が声をかける「システムの具合はいかがですか?」
「すこぶる順調さ」老人はスマホ画面に目を向けたままにこやかに返す「本当に、料金は後払いでいいのかい?」
「まずは使ってもらうことが大切ですので」男性も微笑みを浮かべる「分割払いも対応させていただきますよ」
「それはありがたい」
 やっと視線をスマホから外した老人は「今日はどんな用だ?」と期待を滲ませた声で尋ねる。
「実は、こんなお話が舞い込んで来まして」
 男性は手に持ったタブレットを素早く操作して、とあるプレゼン資料を映し出す。
「広告設置?」
「ええ。この「裏道」の通行量に目をつけた会社から、利用者をターゲットにした広告を外壁に設置させてもらえないか? という打診がありまして」
 ここを通る人間は、職業や年齢が把握しやすいので、マーケティング的にも有効なのだと男性は語る。
「よくわからんが、こちらに何かデメリットはないのか?」
「設置は私どもで行いますので、そちらに負担していただくことはないかと。少々、外壁の美観を損ねてしまうのが難点でしょうか」
 老人は普段気にも留めない薄暗い外壁に視線を向け、笑う。
「表通りからはほとんど見えない壁だ。どうしようとかまわんさ」
 この話が上手くいってもっと儲かれば、孫に何か買ってやるのもいい。息子夫婦にランドセルやら塾の費用やらを無心されたことを思い出しながら、老人は「一応、妻とも相談してから返事させてくれ」と告げる。
「ええ。良いお返事をお待ちしています」

「知り合いの会社から、こんな話もありまして」
 別の日に彼が持ってきたのは、電気コードが繋がれた一枚の板だった。
「こちらは振動を電気に変える床パネルの試作品でして、この裏道でテストさせていただけないかというお話です」
「振動を電気に?」
「ええ。発電床ですね」男性はささやき声で続ける「現在システムに使用している電力はもちろん、うまくいけばお家の電気代も節約できるようになるかと」
 それはいい、と老人は笑みを強める。
「こちらの負担は、当然ゼロだろうな?」
「それはもちろん」
「うむ、採用」
「ありがとうございます」
 翌日には、裏道に発電板が満遍なく敷き詰められた。電気代が節約できれば実質儲けたのと同じ。老人はどうやって通行量を増やそうかと心を躍らせた。

「近くにビルが建つ?」
 数ヶ月ぶりに顔を出した男性は、近隣で始まった大規模な工事について話し出した。
「オフィスと店舗の複合ビルだそうで」
 つまり、と老人は唾を飲み込む。
「通行人がさらに増えると?」
「通勤客だけでなく、店舗目当ての休日観光客なども見込めるかと」
 最近は、こういった路地を歩くのも人気なようでして、と男は添える。
「そりゃあいい」
 棚から牡丹餅とはまさにこのこと。何の労力もなしに振ってわいた好機に、老人は目を輝かせる。
「ただし、ひとつ問題が」
「問題?」
 そんな老人に水を刺すように、男性は神妙な顔つきで告げる。
「私の試算ですと、朝夕のラッシュ時を中心に通行量が1,000パーセントを超えるのではないかと」
「1,000パーセント?」
「今の10倍以上、ということです」
 一瞬の沈黙。
「何かマズイのか?」
「道が詰まってしまえば、クレームが殺到するはずです」
「マズイな」
 その様子を想像し、老人の顔から血の気がひくが、
「そこで、提案があります」
「提案?」
 男性は穏やかに微笑み、告げる。
「お住まいを『減築』するんです」
「減築?」
「無駄な居住スペースをカットして住宅をコンパクトにすれば、そのぶん道幅を広くできるというわけです」
 なるほど、と老人は頷いた。たしかに今の家は夫婦二人で持て余し気味だった。最近は妻も町内会の皆と旅行で不在なことも多いし、渡りに船だと感じた。
「任せても大丈夫か?」
「安くて腕のいい施工業者を紹介しましょう」
「ありがたい」
 それと、と男性は続ける。
「ついでに通行管理システムも、スマホのタッチ決済で通れる仕組みにアップグレードしておきましょう」
「駅の改札みたいなやつか? なぜだ?」
「利用者が増えれば、不遜な輩も増えて警報音が頻繁に鳴ってしまいかねません。このシステムなら、あなたが毎月タグを手売りする必要もなくなるでしょう」
 ますますありがたい、老人は頷いたが、途端に神妙な顔つきになる。
「流石にコストがかかりすぎるのではないか?」
「もちろん、費用は後払いにしておきます。それに……」
 耳寄りなお話がありまして、と男性はささやく。
「なんだ?」
「この裏道沿いに出店したいという方がいらっしゃいます」
「出店?」
「いわゆる屋台のようなものです。簡単な飲食や物販など、いくつか引き合いがあります」
「なるほど」
 人通りが多く慣れば、それらを相手に商売を考える人間が出てきても不思議ではない。
「お住まいのリフォームついでに、一部スペースをテナント貸しできるようにしておきましょう」
 そのぶん住居部分がさらに狭くなってしまいますが、と添える男性に、老人は問題ないと告げた。
「儲かるなら、多少不便でもかまわん」
「承知しました」
 金はいくらあっても困らない。老人は新たなチャンスにほくそ笑んだ。

 しかし、上手い話ばかりが順調に進んだわけではなかった。
「我々にも、利益の一部をもらう権利があるはずだ」
 ある日とつぜん、隣近所の連中が徒党を組んで老人のもとにやってきた。
「裏道につながっている私道は、我々みんなの共有物だからな」
 利用者たちは、必ず裏道につながる共有私道を通って一般道に抜けていた。彼らはそこに目をつけたのだった。
「通行料を徴収しているのは、あくまでウチの敷地内だけだぞ」
「私道がなければ、裏道も成立しないだろ」
 老人は反論するが、彼らの言い分にも一理あった。
「いくら欲しいんだ?」
 しぶしぶ妥協しようとする老人だったが、
「我々全員でしっかり等分してもらいたい。これまでのぶんは目を瞑ってやる」
 予想外の要求に、老人は目を丸くする。
「それはおかしい」
 相手も一歩も譲る気配がない。
「いいや、まったくおかしくない」
 そこそこ円満な近所付き合いができていたと考えていた彼らが、こんな強欲な側面を持っていたとは。老人は苛立ちが込み上げてくる。
「まあまあ、みなさん。そうカッカとせずに」
 一触即発といった空気に口を挟んだのは、飄々とした笑みを張り付けたあの男だった。
「どうでしょう? 皆様方も同じ商売を始めてみては?」

「おい、あんたのせいだぞ」
 数日ぶりに顔を見せた男性に、老人は今にも掴みかからんと詰め寄る。
「連中にあんな提案をするからだ」
「その節は、大変申し訳ありませんでした」
 二人は裏道を見やる。数日前まで賑わいを見せていた通りは、今や閑散とした有様だった。視線を周囲に向ければ、同じように「裏道屋」を始めた近所の連中の様子が見てとれる。利用者がどこに流れてしまったのかは一目瞭然だった。
「しかし、あの時はああ言うしか場を収める方法がなかったのも事実でして」
「ううむ」
 前もって近所に話を通しておけば、もっと穏便な解決方法があったのかもしれない。自分も原因の一端を担っていると理解した老人は、苦々しげに口をつぐむ。
「なんとか売り上げをアップさせる方法を考えますので」
「どうせ、他の奴らにも同じことを言っているのだろう」
 男性が隣近所の連中にも、自分と似たような設備や儲け話を売り込んでいることを、老人は知っていた。
「いえいえ。あなたは最初のお客様ですから、今後とも贔屓させていただきます」
「ふん、どうだか」
 すっかり臍を曲げてしまった様子の老人。
「考えられる手立ては、三つあります」
 男性は老人の態度を気にした様子もなく、指を三本立てて見せる。
「ひとつ、この裏道をもっとアピールするために、チラシやポスターを出します」
「ふたつ、他の方々の道よりも利用したくなるように、舗装やデザインに手を加えます」
 そして、と男性は一呼吸あけて告げる。
「みっつ、いっそのこと通行料を無料にしてしまいましょう」
 老人は顔を一層歪める。特に、最後の提案に関しては到底納得できなかった。
「それでは赤字になってしまう」
 しかし、男性は悲しげな表情で首を振る。
「どちらにしても、このままではジリ貧です」ですが、と男性は続ける「無料にして利用者を増やせば、広告料や出店料を上げられるかもしれません」
「しかし、これ以上のコスト負担は……」
 他の二つの提案も、ある程度先行投資が必要なものばかり。これまでの儲けをろくに貯めていなかった老人は、なおも渋るが、
「では、このお話はお隣に持っていきましょう」
 残念ですが、と男性は告げる。
「待て、どうしてそうなる」
 焦り出す老人に、男性は「こちらも商売ですので」と続けた。
「私としましては、最も長くお付き合いのあるあなたを優先したかったのですが、その気がないのでしたら仕方ありません」
 機会を活かすも逃すもお客様次第。今回はご縁がなかったということで、と立ち去ろうとする男性を、老人は慌てて呼び止める。
「わ、わかった。なるべく金がかからない方法で、やってみてくれ」
「承知しました」
 ――そんな彼らの目論見は、思いもよらぬ事態によって泡と消えてしまう。

 物語や遠い世界の歴史としてしか目にしていなかった未曾有の事態(パンデミック)――。
 その余波は、小さな地方都市の一角にも及んでいた。
「これは、どういうことだ」
 人っ子一人いない通りを前に、老人がつぶやく。
「リモートワークを導入する会社が増えた影響で、出勤する人たちが激減したようですね」
 緊急事態宣言が解除されてはじめて顔を合わせた男性が、他人事のように告げる。
「じゃあ、この騒ぎが収まれば売り上げは戻ってくるんだな?」
 すがるような視線を向ける老人。しかし、男性はどこか遠くを見たままだ。
「残念ですが、それも難しいかと」
「なぜだ?」
 声に苛立ちを隠さず、老人は詰め寄るが、男は目を合わそうとしない。
「例の複合ビルのオーナー企業が倒産寸前でして」
「は?」
「昨今の業績不振に加えて、噂によると不祥事も隠していたようで」
「不祥事だと?」
 男性は「例のビルですが」と続ける。
「完成を急ぎすぎたせいか、施工不良がいくつかあったようです」
「施工不良?」
「欠陥建築ということです」
 おそらく大規模な補強工事を行う必要があるだろう、と男性は告げる。
「でも、オーナー企業とやらは倒産寸前なんだろ?」
 とてもではないが、大規模工事ができる体力があるとは思えない。
「他の会社の手に渡ったとしても、オフィスや店舗として利用し続けるところも少ないでしょうね」
 話によれば、施工中に死亡事故も起きていたという。これでもかと悪い噂のたったビルにわざわざ入るテナントなど、よほどの酔狂だろうと男は苦笑する。
「八方塞がりか」
「残念ながら」
 老人は、「仕方ない」とため息をはく。
「これからは、元々の庁舎のやつらだけを相手に細々とやっていくしかないのか」
 いまのうちに近所の奴らを出し抜く方法を考えなくては。そう頭を切り替えることにした老人だったが、
「誠に申し上げにくいのですが」
「なんだ?」
 まだ何かあるのか、と訝しむ老人に、男性は告げる。
「広告を出稿している企業や、テナント出店している方から、私のほうに次回の契約を見送らせてほしいと打診がありまして」
「なんだと?」
「先方も、このご時世でいろいろとご苦労をされているようでして。将来性のないものに投資する余裕はないと」
 将来のない、という言葉に、老人は自分が馬鹿にされたような気になる。
「客観的に見れば、という話です」つきましては、と男性は告げた「私も、このあたりで手を引かせていただこうかと」
「は?」
 老人は、突然の発言に頭が真っ白になる。
「これまでのぶんのお支払いは、滞りなく納めていただきますよう、よろしくお願い申し上げます」
 大変お世話様でした、と笑う男性。
「……見捨てるのか」
 放心状態の老人の口から、無意識にそんなつぶやきが出る。
「私も鬼ではございません」
 そんな老人の様子を気にするようでもなく、男性は笑みを浮かべたままだった。
「ローンは一旦私のほうですべてお引き受けして、支払い期限のほうも多少は延長させていただきましょう。金利手数料もゼロにいたしますし、毎月の支払額も相談に乗りますので」
 では、ご達者で、と男性は踵を返す。
「ちょっと待て」
「ごきげんよう」
 軽く告げ、さっさと立ち去る男。一陣の風のようなその様は、残された老人の心の空洞をも軽やかにすり抜けていった、

***

「――お次にご案内いたしますのは、◯◯ニュータウンの跡地に建てられました、『巨大お化け屋敷』でございます」
 バスガイドの男が、そう告げると、上部のモニターに真新しい建物の映像が表示される。
「◯◯ニュータウンって、アノ事件があったところでしょ?」
 乗客の一人が、好奇心を隠さずつぶやくと、隣に座る女性が小さくうなずき返した。
「住民たちが変な商売を始めて、ひどい争いがあったらしいわね。殺人事件にまでなったと聞くわ」
「ええ、悲しい事件でございました」バスガイドはそんな二人の会話を引き継ぐように、神妙な面持ちで告げる「人間、欲を出しすぎるとどうなるか。身につまされるものがございますね」
「もしかして、恨みを持った住民の幽霊とか出たりして?」
「こら、不謹慎なこと言わないの。……でも、ちょっと面白そう」
 他の乗客たちも、口にはしないが彼女たちと同様に目を輝かせている。
「ここにお集まりの方々にも、きっと満足できるアトラクションになっているかと」
 そう告げるバスガイドに、車内で大きな歓声が上がる。
「さっき見学させてもらったマンションも、雰囲気あってよかったよね」
「元は欠陥建築だったんだっけ。本当に住んでも大丈夫なの?」
 バスツアーの最初に訪れた建物を思い返す二人に、バスガイドはにこりと笑いかける。
「ええ。そのあたりはしっかり保証いたします。気に入りましたら、ぜひ購入をご検討くださいませ」
「廃ビル風にリノベーションするなんて、センスあるよね。引っ越すのが楽しみだなぁ」
「わたしも」
 既に部屋の購入を決めている様子の二人。バスガイドは満足げに続ける。
「他にも、昔の商店街を再現したレトロなショッピングモールや『雰囲気』満点の公園などもございますので、ぜひ楽しんでいただければと」
 そうこうしているうちに、バスがゆっくりと停車する。
「さあ、こちらが目的のお化け屋敷です」窓から見える建物を指差しながら、ガイドは告げる「中は迷路になっており、ゴールした出口の先が、先ほどお話ししたショッピングモールになっております」
 迷路、と聞いて乗客たちの目が驚きに見開く。
「えー、ショートカットできる道とかないんですか?」
「馬鹿ねぇ、近道なんてしたら楽しめないじゃないの」
 バスガイドは大きくうなずく。
「急がば回れ。人生とは、往々にしてそういうものなのかもしれませんね」
「あはは、おにーさんがなんか深イイこと言ってる」
「調子に乗らないの」
 そんな二人を先頭に、乗客たちが次々とバスから躍り出る。
「くれぐれも、お気をつけて」
 そう言って微笑む男の視線の先には、建物の入り口に佇む小さな張り紙があった。

『URAMESHIYA(恨めし屋)、はじめました。片道1,000円』

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