短編小説『マスクつけるの、もうやめたら?』
そう言われるたびに、私は自分を貫くことができるか、不安になる。
先日、長らく続いていたマスク着用義務化が解除され、世間はまた一歩、元の日常へと歩みを進めた。
そんな大多数と考えを異にする私は、これまでと同様、マスクを着用し続けたかった。
理由はいろいろある。未だ拭いきれない不安、これまで当たり前のようにあったものがないことへの違和感、数え上げればキリがない。
しかし、世界はそんな私を置き去りにして、先へ先へと進んでいってしまう。いつまでもマスクを外さない私に向けられる奇異の視線は、日ごとにその数を増やしていくことだろう。
少し前まで当たり前だったことができない、許されない。新しい日常。また、こんな思いを味わわなければいけないのだろうか。
そんなある日のこと、私はネットでとある商品を見つけた。
「『外さないマスク』?」
聞いたことがないメーカーの、数量限定だというその商品。「外れない」や「外れにくい」ならわかるが、「外さない」とはどういった意味なのだろうか。
驚くほど高い価格設定といい、なんとも怪しさ満点だったが、私はすぐさまその商品を購入した。
待ちわびること数日、ついに商品が届く。
「特に、変わったところはないが……」
パッケージから取り出してみても、なんの変哲もない白マスクにしか見えない。
「ん?」
パッケージ裏に、何やら説明書きが付いている。
『あなたはなぜ、マスクを着けたり外したりするのでしょうか?』
『マスクとは本来、誰かに言われたからと着けたり外したりするものでは、決してありません』
『あなたがマスクを着け続けたいと願うなら、そうすべきであり、逆もまた然りです』
『このマスクは、そんなあなたのために存在します』
およそ商品説明とは思えない、問いかけのような文章。しかし、その一言一句から目を離すことができない。まるで、私自身がその言葉を発しているように、何度も頭の中で文言が繰り返され続ける。
「……よし」
何かに導かれるように、私の両手はマスクを広げ、ゆっくりと口元に装着する。まるでオーダーメイドしたかのようなそのマスクは、皮膚の一部のごとくぴたりと顔に張り付いた。
「ふぅ」
唐突に、震えるような安心感と心地よさとが全身に広がる。いま、私という人間が完成した。そんな気さえした。
どのくらい時が経っただろうか。このまま永遠に装着し続けていたい思いに駆られたが、一人暮らしの部屋の中で始終マスクを付けていても意味がない。
なるべく汚したり傷んだりしないよう大切に使っていこうと、私は一旦マスクを外した。まるで皮膚の一部のようだった薄布が、少しずつ剥がれていく。
そのときだった。
「痛っ」
突然、脳天をハンマーで殴られたような激痛が響いた。ゴンゴンと鐘を鳴らすように、続く痛みが連続して襲いかかってくる。
「くっ」
視界さえ霞む中、私は無意識に安らぎを求めるように、手に持ったままだったマスクを再び装着した。すると、
「え?」
スイッチを切ったように、唐突に頭痛が止む。しばらく経っても、頭は凪のように穏やかなままだ。
「まさか……」
ゆっくりとマスクを口元から外す、そして、
「痛っ」
数秒後に、再び襲いかかってくる頭痛。どうやらこのマスクがトリガーになっていることは、間違いなさそうだ。
「冗談、だろ」
私はこの日、この瞬間から。マスクを外せない体になってしまったのだった。
「そろそろ休憩して、ランチでもどうだ?」
パソコンに向かう私に、隣の同僚が話しかけてくる。
「……もう少し仕事をしてからにするよ」
私の返答に、彼は苦笑しながら続ける。
「なるべく人が少ない店にするけど?」
彼の視線が、私の口元に向くのがわかった。当然のようにマスクをしていない彼の白い歯が眩しい。
「いや、気にせず好きな店に行ってよ。今日はコンビニで買ってきてあるから」
彼は「そうか」と笑い、軽い足取りでオフィスを出ていく。そんな彼の後ろ姿を見送ると、私はゆっくり席を立った。
「また、便所メシか」
人に見られないように食事をするには、選択肢は限られている。数十秒とマスクを外していられない今の私の食事風景は、さぞかし滑稽に見えるのだろう。ここ数日で、嫌というほど学んだ。
彼のように、軽く苦笑するくらいならまだいい。同じ職場で働く人間の多くは、いつ何時、何処であっても頑なにマスクを外そうとしない私に、珍獣を見るような視線や、遠回しな非難の声を浴びせてくる。
『ずいぶんと心配性なんですねぇ』
『あの人は、ほら。アレだから』
『まるで、俺たちが病原菌みたいな扱いだな』
『大事な取引先の前でも、ずっとあのままのつもりなのかなぁ』
『いつまで続くか、賭けでもするか?』
『――マスクつけるのは、もうやめろ』
直属の上司には何度叱責されたかわからない。ヤツが強引に私のマスクを奪いとったときなどは、立場も忘れて襲いかかってしまったほどだ。まあ、そのおかげで口うるさく言われなくなったが、これまでコツコツ積み上げてきた何もかもがパァだ。
「ついこの間までは、これが当たり前だったじゃないか」
なんで、どうして。こんな扱いを受けなきゃならないんだ。
まるで並行世界にでも迷い込んでしまったかのような気分に、心の中で悪態をつく。
「ふぅ」
利用する人が少ない離れたフロアにあるトイレの個室に入り、腰を下ろすと、張り詰めていた緊張感からわずかに解放される。
世界から隔絶されたように、人気もなく喧騒もまったく届かない場所だが、今となってはオフィスにいる孤立感より数百倍マシだった。
「さて、と」
とはいえ、寂しさや孤独感がなくなるわけじゃない。私はスマホを開き、習慣化したネットサーフィンに明け暮れる。
SNSでは、新たな日常を当たり前のように享受する人々が、くだらない話に花を咲かせている。その様子に、上司や後輩が向けてくる奇異の視線がチラつき、衝動的にブラウザを閉じる。
「くそっ」
ここにも自分の居場所はないのか。絶望感に苛まれながら、そもそもの原因となったマスクに意識を向ける。
あれから数日ほどは、何とかマスクを外せないか、できるだけ頭痛を抑える方法がないかと、試行錯誤を繰り返していたが、結果は無常だった。もう、苦しい思いはこりごりだ。
こんな「非日常」も、いつかは「日常」になってしまうのだろうか。諦めてしまえば、慣れてしまえばいい。そんなふうに簡単に割り切るには、まだ時間がかかりそうだった。
「……そうだ」
ネットを探せば、このマスクを外す方法がわかるかもしれないじゃない。そんな考えが浮かんだ。どうして今まで思いつかなかったのだろう。
「もう少し、足掻いてみるか」
私は『外さないマスク』についての情報がないか調べてみることにした。
しかし、肝心のショップはなぜか存在すらしなくなっており、他のサイトやブログを探しても関連する情報はひとつも見当たらない。まるで狐にでも化かされた気分だ。
「あ」
SNSでキーワード検索しようとして、間違えて投稿ボタンを押してしまう。「外さないマスク」とだけ表示された画面を見て、慌ててメッセージを消した。そのとき、
「ん?」
知り合いの一人もフォローしていないアカウントに、ダイレクトメッセージが届く。
「誰からだ……?」
どうせスパムメールの類だろうと思いつつ、とりあえず内容を確認する。すると、
『「外さないマスク」被害者コミュニティへのご招待』
メッセージには短い文言とともに、どこかのサイトのURLが示されている。私は何かに導かれるように、震える指先で画面をタップした。
『ようこそ。我らのコミュニティへ』
メッセージを送ってくれたというコミュニティリーダーに続き、メンバーたちが次々と自己紹介を始める。
『僕はカフェで働いているんだけど、マスクを外さないという理由でクビになりかけたんだ。でも、このコミュニティに助けられて、何とか仕事を続けられているよ』
『私は教師をしているの。子どもたちから変な目で見られることもあるけど、ここで得たアドバイスを活かして、少しずつ理解してもらえるよう頑張っているわ』
次々と表示される内容を見ながら、少しずつ安堵感で満たされていく。そして、私の番がやってきた。
『初めまして、私は会社員をしています。マスクを外さないことで、職場で浮いてしまっているのですが・・・皆さんの話を聞いて、希望が持てそうです』
「大丈夫だよ、これから一緒に頑張ろう!」と励ます声が飛び交う。この日のミーティングでは、マスクの工夫や対策方法が次々と共有された。
話し合いがひと段落するころには、今までの憂鬱さが嘘のように消え、前向きな気持ちになっていた。
そうだ、私はひとりじゃない。これからも彼らと一緒に、この不条理な現実に立ち向かっていこう。そう心に誓った瞬間、私の新たなチャレンジが始まった。
コミュニティから教わったアイデアを実践することで、私の生活は徐々に変わり始めた。
『この特殊な素材で作られたマスク用インナー、息苦しさがずいぶん軽減されるんだって』
メンバーの女性に教えてもらったインナーを使ってみると、息苦しさがずいぶんと楽になった。さらに、彼女には顔に触れる部分にシリコンクッションを貼るアイデアも教わった。
『これを使えば、マスクをつけたまま飲み物やペースト状の食事が摂れるよ』
食事の問題を克服するため、別のメンバーに教えてもらった透明なストロー型の食事補助具を入手した。便所メシもこれで卒業できるかもしれない。
また、対面でのやり取りをできる限り減らすコツも学んだ。チャットツールの導入や、テキストコミュニケーションにうまく誘導するテクニックなどを教わることで、仕事も幾分かスムーズに進むようになった。
『マスクを着用していても、笑顔は目元で伝えられる』
カフェで働くメンバーからのアドバイスは、実践できているかわせておき、新たな視点を与えてくれた。
ある日、私はミーティングで皆に感謝の言葉を述べた。
「本当にありがとう。みんなのアドバイスのおかげで、生活がずいぶん楽になったよ」
その言葉に、メンバーたちも明るく応じてくれた。
『これからも困ったことがあったら、いつでも相談してね』
『お互いに助け合って、この問題を乗り越えようぜ!」
『これからも一緒に頑張ろう!』
仲間たちに支えられ、私は今まで以上に前向きな気持ちで日々を過ごすことができるようになった。
『リーダー、私をこのコミュニティに誘ってくれて本当にありがとう』
私は個人チャットで、あらためて感謝の気持ちを伝えた。
『君を取り巻く環境が改善したのは、君自身の成果だよ』
しかし、リーダーはそう言って、自分のしたことなどきっかけにすぎないと返す。
『たとえ有益なメッセージであっても、役に立つ場合もあれば、かえって逆効果になる場合だってある。すべては、受け取り手次第なのさ』
メッセージや情報そのものになんて、大した価値はないのだとリーダーは語る。
『私たち受け取る側が価値や意味を作り出す、ということでしょうか?』
『そうだ。だから君も物怖じせずに、どんどんコミュニティに参加してくれるとうれしいな』
このやりとりをきっかけに、私もメンバーの一人として、新たな悩みを抱える人たちにアドバイスや励ましの言葉を贈れるようにもなった。
この素晴らしい仲間たちに自分が少しでも貢献できていることが、嬉しくて仕方ない。私はこの瞬間、本当に意味でコミュニティの一員になれた気がした。
コミュニティ内の絆が深まるのに反比例するかのように、職場や周囲の人々との関係は変わらず、むしろ悪化していた。
『今日もまた、同僚に冷たい視線を向けられたよ』
『うちの上司も、なんでマスクを外さないんだって言ってきてさ』
『あいつら、どうせ自分のことしか考えてないんだ』
ミーティングでも、各々が職場や周囲に対する愚痴や弱音を吐く場面が次第に増えていった。
私たちは、環境になんとか適応していこうと努力しているのに、周囲はまったく理解してくれず、相変わらず冷たい視線や言葉を投げかけてくる。孤立感は深まるばかりだった。
『まあ、僕らにはこのコミュニティがあるし』
『ああ。わかるやつだけわかってくれればいいさ』
コミュニティという居場所があることで、私だけでなくメンバーの多くが、現実世界を半ば諦めかけていた。
『そうですよね、リーダー?』
メンバーの一人がそんなメッセージを投げかけるが、返信はない。普段からリーダーがミーティングの場で発言することはほとんどないので、仲間たちはまたいつものことだと気にしていないようだったが。
「……個人チャットの返信もないんだよな」
私はそれが多少気掛かりだったが、リアルの仕事等が忙しいのだろうと結論付け、気を取り直してミーティングに戻った。
そんな日常がしばらく続いた、ある日。ネット内でひとつの噂が話題になった。
『実は、パンデミックは収まってなんかいない。このままだと、大変なことになる』
どこからか突然湧いて出たその噂は、瞬く間に広がり、再び日常へと襲いかかってきたのだった。
『変異を続けた新しいウイルスは、潜伏期間が極めて長くなっているらしい』
『既存の検査では、感染を確認できないそうだ』
『感染力はそれほど高くないが、周囲にそれと気付かずに行動している感染者がいる可能性が高い』
『ほんのわずかでも体に違和感を覚えたら、気をつけたほうがいい』
そんな噂に次々と尾ひれがついていき、人々は激しい疑心暗鬼に見舞われた。
政府や専門機関が「全く根拠のないデマだ」との声明を発表しても、不安は一向におさまらす、マスコミも危機感を煽るようなセンセーショナルな見出しと共に嬉々として情報拡散に手を貸し、世界はかつてない混乱に包まれた。
「おはようさん」
「あ、ああ。おはよう」
出社した私に、隣の席の彼が挨拶をしてくる。正面のモニターに向いたままのその顔には、見たことがないような巨大なマスクがピタリと張り付いていた。
瞬く間に、マスクはかつて以上の人権を取り戻した。マスクをつけずに外を歩こうものなら、たちまち周囲100メートル以内に人がいなくなるほどの有様だった。
「そういえば、お前が使っているストローって、どこで手に入るんだ?」
ぼそりとつぶやくように、そんな言葉が投げかけられる。私がショップのURLを貼り付けたメッセージをすぐさま送ると、小さく「サンキュ」と返ってくる。
見えないウイルスが、いつどこで入り込んでくるかわからず、それに気づけるかどうかすら定かではないという状況は、人々の不安を極限まで煽るのに十分だった。
彼らは皆、かつての私が襲われた問題に直面し、途方に暮れていた。隣の彼のように、私を頼りにする人間も次第に増えていき、先日などはあの上司までもがおすすめのマスクを尋ねてきたくらいだ。
変わったのは、周囲の人々だけではない。一番大きな変化があったのは、意外にもコミュニティのメンバーたちだった。
『今日、また誰かに快適なマスクの着用法を教えてあげたんだ。感謝されて、すごく嬉しかったよ』
『いいね、俺もさ、この間、会社の人たちにアドバイスして、皆から感謝されたんだよ。なんか、みんなのリーダーみたいだよね』
マスクをつけたまま快適に過ごすノウハウに熟知したコミュニティメンバーたちは、各々の職場などで救世主のような扱いを受けるようになっていた。
『昔は僕たちがバカにされてたけど、今じゃ僕たちが頼られる存在だもんね』
『今度は、マスクのプロとして人々に教える立場だし、もっと自信を持っていいんじゃない?』
環境が改善し、自分に自信が持てるようになっただけならまだいい。しかし、悲しいことに、さらに増長するメンバーも目立つようになった。
『せっかくこれまで苦労して貯めてきたノウハウを、簡単に公開していいのか?』
『そうね。私たちが苦労したぶんの対価は、しっかりもらうべきよ』
彼らは会社や友人たちからの評価が上がることで、自分たちの知識が価値あるものであると感じ始め、それを利用しようと考えるようになった。
そんな考えが、メンバーの多数を占めるようになった結果、とあるアイデアが持ち上がった。
コミュニティの「有料メンバー」を広く集め、収益を今いる初期メンバーたちで分配しようというものだ。
『僕は賛成できないな』
リーダーはそう反対したが、多数の意見には勝てず、ついにはコミュニティの管理者が変わる事態になってしまった。
『うーん、まさかこうなるとはね』
コミュニティを抜けるつもりだというリーダーは、個人チャットでの最後のやり取りでこんなふうに言っていた。
『こんなつもりじゃなかったんだけどなぁ』
「こんな」とは、何を指すのだろうか。メッセージからは、悲壮感やメンバーへの恨みなどはまったく感じられない。まるで、いたずらに失敗してしまった子供のように、心底予想外だという様子だった。
『私も、一緒に抜けますよ』
かつての居心地良かったコミュニティはもうない。私はそう返信した。
『キミは変わらないんだね』
『他のメンバーがおかしいんですよ』
ちやほやされて調子に乗っているというには、あまりにも変化が大きすぎる。急に手のひらを返してきた他の人々も含め、正直気持ち悪さしか感じられなかった。
『そんなキミに、選別をあげよう』
元リーダーはそう言って、とあるサイトのURLを送ってきた。
『なんですか? これ』
『いまのキミなら、正しく使えるんじゃないかな』
私の質問に対し、答えにならない返事を送ってきたきり、彼とは連絡がつかなくなってしまった。
「……怪しいサイトじゃないだろうな」
おそるおそるURLをタップする。すぐさま表示された、どこかのショップらしきサイトには、商品が一つだけポツンと表示されていた。
「『ハズレるマスク』?」
見覚えのあるパッケージに、違和感のあるネーミング。私は少し考えた後、購入ボタンを押した。
数日後、商品が届いた。
「見た目は『外さないマスク』と変わらないが……」
あのマスクをそのまま流用したような、全く同じパッケージデザイン。開封しても、同様に何の変哲もない白いマスクが出てくるだけだった。
「本当に名前を変えただけだったり、な」
訝しむようにパッケージの裏を見る。そこに書かれていた説明書きも、一言一句違わないものだった。
『あなたはなぜ、マスクを着けたり外したりするのでしょうか?』
『マスクとは本来、誰かに言われたからと着けたり外したりするものでは、決してありません』
『あなたがマスクを着け続けたいと願うなら、そうすべきであり、逆も然りです』
『このマスクは、そんなあなたのために存在します』
『外さないマスク』と『ハズレるマスク』。一言一句変わらない二つのマスクの説明書き。しかし、ネーミングの先入観か、私自身の心境の変化か。感じるイメージは以前とはまるで逆のものだった。
――すべては、受け取り手次第なのさ。
ふと、いつかのチャットでのやり取りを思い出す。
受け取り方次第で有益な情報になる場合もあれば、その真逆になることもある。メッセージ自体に大した価値はない。
――こんなつもりじゃなかったんだけどなぁ。
最後のチャットで感じた、微かな違和感。それは、つまり。
「そういうことだったのか」
ここしばらくの不思議な体験が、一つの物語として一本につながった気がした。
私は現在着用している『外さないマスク』の上から、『ハズレるマスク』を装着する。
この行為に、意味はない。もともとこんなマスクに意味なんてなかったんだ。
「…………外れた」
再び、二つのマスクにまとめて指をかけると、肌の一部と化してしまっていたあのマスクが、あっけなく外れてしまった。
私が辿り着いた答えの正しさを、証明するように。
「営業に行ってきます」
そう言って私が席から立ち上がると、オフィス内に一瞬、緊張が走る。視線こそなかったが、明らかに皆の意識がこちらに向けられているのがわかる。
私は軽く苦笑し、軽い足取りでオフィスを後にした。
「うん。今日もいい天気」
澄み切った青空に向かって、大きく深呼吸する。フィルターを通さない生の空気が肺いっぱいに広がり、なんとも言えない清涼感に包まれる。
あれから、どのくらいの時間が経っただろうか。
噂はいつしか真実として人々に認知され、政府や研究者たちも説得をあきらめたのか、マスクはすっかり日常の一部となってしまった。
外を歩いていると、無遠慮な注目が集まる。まるで、全裸で歩いている人物を見かけたような、奇異の感情に溢れた視線だ。
人々は何かに取り憑かれたかのように、顔を隠す一枚の布を手放せないでいる。しかし、私は彼らを責めることもなく、静かに彼らの選択を尊重していた。いつか、彼らが真実に気づくその日まで。
そのとき、元リーダーとばったり街角で出くわした。メッセージでのやり取りしかなかったのに、なぜかそうと確信できた彼もまた、マスクを外していた。
「おめでとう」
彼の祝福は、私が答えに辿りついたことに対するものか、それとも今の私そのものに向けられたものか。
私たちは、マスクをきっかけにこの世界から「ハズれ」た。それは、真の自由と同義だ。
「信じるものは、救われるのさ」
強迫観念を捨て、他人に流されることなく、自らの意志で生きる。そんな私たちとは違っても、大多数の人々にも己の信じるものがあるのだろう。その意味では、彼らもまた救われていると言えるのかもしれない。
やがていつか、また新しい日常がやってくるだろう。そのきっかけは目の前で笑う彼か、それとも私か。
彼と別れ、再び歩き出した私は、誰に言うでもなくぽつりとつぶやいた。
「――マスクつけるの、もうやめたら?」
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