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親友の定義 _『リファ』#23【小説】

 親友とはなんだろう。

 「私たち、親友だよね?」「親友でしょ」そんなふうに言葉で確認し合っている中高生のうちは、その関係に不安がある証拠だ。

 ネイルサロンで美しく手入れされたピンクベージュのつやつやした爪を光らせて、菜々実はスパークリング日本酒を勢いよく飲んでいる。肩まである髪をゆるやかに巻き、ナチュラルながらしっかりとメイクが施されている。今ドキの平行眉も取り入れた、もう十五年以上のつき合いになる目の前の存在とも、確認し合ったことはない。

 だから、彼女はどう思っているのか不明だが、私にはとても大切な人だった。双方の誕生日にプレゼントを贈り合う慣習は、大学一年から続いている。

 「急だったのに、調整してくれてありがとう」
 
 素直に感謝を伝えていた。

 あっという間にシャンパングラスを空にした菜々実は、うんうんと軽く顎を上下しながら店員を呼ぶボタンを押して、ホットのゆず茶を注文した。この蒸し暑い時期にメニューにあることに驚き、何より菜々実はお酒が好きだったのに。体調不良だろうか。

 怪訝な顔をする私に気づいたのか、「引き続き、妊活中。今日は久しぶりに飲んだ」と、ビジネスライクに言った。感情は見えない。

 「葉と銀は、一緒に来てなかったんやな。かわいい男児に会えると思って、子連れもいける個室にしたのに」

 「ごめんごめん。私だけって言えばよかった。葉も銀も、太一も元気やで」

 予約する店に配慮をしてくれていたとは。町家をリノベーションした店内に、一つだけある個室だった。二人で利用するにはもったいないほどの広さだ。子どもの話を自分から持ち出してきたのも、子のいる私に気を遣わせないためだろう。マイペースなようでいて、丁寧に心配りをする人なのだ。

 菜々実が不妊治療のクリニックに通い始めて、そろそろ四年だろうか。タイミング法、人工受精を経て、体外受精に進んでいるはずだ。そのことをすっかり忘れて、アルコールメニューを勧めた自分の無神経さを恥じる。

 注文した料理が運ばれてきた。菜々実は、湯葉豆腐、海老しんじょの炊き合わせ、蓮根蒸しと、からだを冷やさないものを頼んでいた。

 「不妊治療、どんな感じなの?」

 季節のお刺身に盛られた鱧のおとしを口に入れ、ふわふわとした食感を味わいながら何気ない調子で聞く。聞いてほしいのか、聞いてほしくないのかわからなかった。曖昧な聞き方をして、菜々実の反応をみる。

 明け透けになんでも話せるのだけが親友ではない。大切だから、こわれものを扱うように丁寧に触れ合いたい。

 「受精卵を子宮に移植するところまではいけたんやけど、着床できず。胎嚢が確認できなかったばかり。凍結保存してあった胚も、もうない。またふりだしに戻った」

 ふわりと聞いたものの、ヘビーだった。明瞭な説明に、こういう話を何度もしているのかもしれなかった。

 「そっか……」

 「不妊治療で、何十万円、何百万円と使うのは、一瞬やで」

 菜々実の心身が心配だった。菜々実は構わず続けた。

 「落ち込んでいたときに、梨華からLINEがきた。連絡をくれたのは、ありがたいタイミングやった」

 菜々実は俯いた。

 「そうやったんや……」

 二日前のシンプルなやりとりと、コメディ調のネコスタンプの裏でこんなままならなさを抱えていたとは、まったく想像しなかった。当たり前だが、人は表だけでは何もわからない。

 今こうして目の前に見ていることも、外側だけだ。表面上は明るく振る舞っていても、出していないだけのこともある。さらに言うと、「こういう気持ちだ」と本人が心の状態を説明したとしても、それは文章化しただけで、心の中の状態そのものとは違う。

 かんじんなことは、目には見えない。星の王子さまと仲良くなったキツネも言っていた。人の感情は簡単に言葉では表せないものでもあるが、菜々実の心がいま、疲弊しているのは確かだった。

 「残念やったな。克彦くんはなんて?」

 夫である克彦が、子どもを切望していると聞いていた。

 「すごく気遣ってくれるけど、赤ちゃんを諦めることはできないみたい」

 「そう……」

 「一緒に犬を飼うじゃ、あかんらしいわ」

 なんの苦労もなく二児を授かった私には、そのままならなさに共感できるはずもなく、心を傾けるしかできなかった。

 「妊娠偏差値20ぐらいなんやろうな、私。あんなにもお父さんになりたい人を、ならせてあげられへん妻でごめんって感じ」

 自虐的に、菜々実は言った。消え入りそうな声だった。

 いつも人並み以上に優秀で尊大で、欲しいものを手に入れていた。ように映っていた。華やかな舞台に上がったあとの俳優のように、急に萎んで見える。

 どんなときも、どんな人や場所でも物怖じしない彼女に、憧れていた。「気後れ」という単語は、菜々実の辞書になかった。
 
 嫉妬もあった。中高と私立の女子校に通った菜々実は、大学で公立に進んだ。父親は京都に本社がある大企業の役員で、母親は先祖代々引き継いだ土地でマンションと駐車場経営をする資産家だった。高校まで地元の公立に通い、学費の安い公立大でも奨学金制度を利用しながら通う私が初めて出会ったお金持ちだった。貧乏とは、相対的に感じるものだとこのとき知った。

 そして、とにかく菜々実はモテた。出会った時から彼氏がいなかったことはない。社会人の彼氏が校門前に車で迎えに来ていたし、複数の人とつき合ってもいた。

 「一人で足りない部分は、他の人で補えばいい」

 悪びれることなく飄々としていて、気品すら漂っていた。

 友人の結婚披露宴に呼ばれた時は、外資系企業で働くフランス人に熱心に口説かれ、「彼氏がいるから」と断ったところ、それでもいいからとまでジュ テームされていた。女性に嫌われるどころか、友だちは多かった。性別問わず、人を惹きつける魔力のようなものが菜々実にはある。

 機転が効き、ユーモアもある彼女といるのは楽しかった。菜々実といるときの自分も、嫌いじゃない。

 私も菜々実のことをわかりたいし、自分についても知ってほしい。そう願いながらも、菜々実より劣っている自分をこれ以上見てほしくない、弱者になり下がりたくない。なけなしのプライドのほうが上回った。

 菜々実と過ごすことで、自尊心が削られなかったかというと嘘になる。多くの時間を過ごしたし、過ごしたいと思えた。でも、出自については話せなかった。

 好きだから、嫌われたくない。失いたくない。それは同時に、出自を理由に“自分を嫌うかもしれない”という前提を、相手に対して持っていたことになる。

 菜々実に悪意はまったくないことはわかっていたが、四季の移ろいや自然の美しさ、繊細な食に触れたときに口ぐせのように言う、「日本人に生まれて、よかった〜」が、私の深いところで引っかかっていた。菜々実を、信じきることができなかった。

 同じ年に結婚し、仕事と夫婦だけの生活を楽しんだあと、私と太一は願えばすぐに子どもを授かった。菜々実のところは、そうではなかった。

 はじめて、菜々実よりも先に欲しいものを手に入れた。自分の内側で芽を出した優越感に、気づいた。

 銀が生まれたとき、菜々実から不妊治療を始めたと聞く。人生は、公平だと思った。少しぐらいは苦労してくれないと。

 彼女に対してくすぶり続けていた劣等感が発火し、清算できた気がした。

 親友と呼ぶのなら、相手の幸せを願うものだろうって?

 完全なる善人とか、完全なる悪人なんていない。どんな人間も、美しいバラになる瞬間と、醜い異形になる瞬間があるだけだ。

 自分の醜さを認めながら、不妊治療を始めさえすれば、すぐに授かるだろうとも思っていた。

 四年も彼女は苦しみ、たくさんのことを考えただろう。

 自分を責め、いま目の前で小さくなる彼女が、この先傷つかずに生き延びていってほしいと心から願う。こんな都合のいい自称親友の祈りは、受けつけてもらえないのだろうか。

 「偏差値って言葉を、そんなふうに学力以外に向けたらあかん。菜々実の心身の負担が一番大きいのに、夫のことを想えるのは素敵やで」

 どんな言葉が彼女を癒すのか、まったくわからなかった。



つづく

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