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ここじゃない _『リファ』#16【小説】

 窓の外を眺めた。西に向かって走る車は、手を伸ばせば届きそうな距離に山が連なっている。

 東京での暮らしも十五年近くなり「帰ってきた」とは思わなくなった。それでもやっぱり、京都駅から自宅までの風景を車の中から眺めると、どこかほっとする。碁盤の目といわれる均整のとれた道路が懐かしいのか、建物が低いから広がる空の見え方に安心するのか。ただ見慣れているからなのか。時間の流れも遅く感じる。

 天神川を越えて、左手に西京極総合運動公園が見える。右折して数メートル走ると、桂川が見えてきた。梅雨がやってくる前の水量の多くない河川は穏やかだ。

 このあたりの河川敷に、高校生の私は放課後クラスメイトと来た。一年でバスケットボール部を辞めてからだ。マクド(関西ではマクドナルドをこう呼ぶ)でポテトSかホットアップルパイだけを買い、日が暮れるまで他愛ないことを話した。

 そこにいた私は、自分じゃないような自分だった。

 確かに友人たちとの時間を楽しんでいたし、自分から誘うことも、話題を提供することもあった。ああいう時間を青春と呼ぶのだろうが、ふっと、みんなが騒いだり、盛り上がったりしている話にそれほど興味も面白みも感じていない自分に気づいた。馴染んでおらず、どこか満たされないというか、「ここじゃない」という冷めた思いが募った。そのズレの違和感は、唐突にやってきた。

 友だちと笑い合う日々と並行して、小説と出会う。小説は、人間の内面を描く。内面から人を見ることができる。自分のなかの明るくない部分が休まるのは、小説を読む時間だった。

 物語にはいろいろな個体がいた。その多種多様な個体が、それぞれ世界を見ていた。未知の感情も、若くて未熟で、語彙も見つからないから内側に浮遊していても紡げなかった感情も、清も濁も、酸も甘も書かれている。

 小説の世界は、人も、人が見ている世界も、感情も、許容される範囲がずっと広くて寛容だった。非常識で、自由で、頭のねじがぶっ飛んだむちゃくちゃなヤツらも含めて、小説の中の人間のほうがつき合いやすかった。

 そんななかで、その相手といるときの自分を悪くないと初めてしっくりきた生身の個体がいた。大学で出会った菜々実だ。菜々実といると、不思議と、存在自体の居心地の悪さを忘れられた。

 菜々実が、顎を突き上げて、八重歯を覗かせて笑う横顔が好きだった。

 懐かしさに流されるままに、「明日何してる? 京都きた」と菜々実にLINEをする。

 すぐ既読になり、「来てから言うな。ええよ何時?」

「五時に烏丸は?」

 新幹線に乗る前の早めの夕食を提案した。コミカルな猫のキャラクターがにかっと笑い、OKと親指を立ててたスタンプが届く。その下には食べログのリンク先が貼ってある。この店に、五時ということだろう。

 気のおけない間柄だからこその素っ気ないやりとりに、心が高ぶった。久しぶりなのだ。

 子育てに生活の多くを占められてから、子どもが縁で親しくなった友人とつき合う時間が格段に増えた。世間が面白がるような互いを牽制し合うママ友づきあいとは無縁で、一緒に外で遊んだり出かけたり、子どもを預け合う間柄だが、親しき仲にも礼儀ありは守られている。

 コロナ下で、対面する人と人の間にある壁も厚くなった。そういう日々で、急な連絡にもかかわらず学校帰りのノリと変わらない親友の反応は、やたらと心に沁みてくる。

「ちょうどお昼の時間になったな。ごはん食べよ」

 母の声で、意識がここに戻った。

 車を停めた先の玄関先に、水色とピンクが淡く混ざり合った紫陽花が咲いているのが見える。毎年六月に開いていた習慣が、今も続いていたことに温かさが増える。



(つづく)


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