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かくしごと _『リファ』#02【小説】

<<前回を読む_#01最愛


 覆いかぶさってくる熱源を、私は求めていた。

 ベッドの上で横たわる私の、頭から髪、耳、あご、唇、鼻、まゆ毛、目。まだ馴染みのない指が、曲線を描くようになぞっていく。私の顔を優しくぐるりと回り、額にかかる前髪をゆったりと横に流し、唇に戻ってきたごつごつした親指が、下唇を強く押さえる。

 私のあごは固定され、唇が重なる。舌が泳ぎ出し、二つの舌が激しく絡まる。私は両腕を回し、背中にしがみついた。

 隣に身を横たえた男の左手は器用に、でも壊れやすいガラス細工を扱うような丁寧さで、ワンピースのボタンを上から外していく。

 制御できない高揚と、一緒に運ばれるふわふわの毛布に包まれるような心地よさに、からだから緊張がほどかれていく。水に浮かぶように自然の流れに任せるからだと、どうしようもないほど自らも求めるからだがいる。

 だからこそ、私は伝えておかないといけないことがあった。

 一回寝たら彼氏彼女です、なんて道徳観や貞操観念はない。

 数回セックスしたぐらいで、大事に”しなければ”なんてモラルで好きになることも、なられるのもごめんだ。抗えない感情から生まれる、刹那的なものの連続が欲しい。
 
 だけど、からだを交わせば交わすほど相手のしるしは残って貯まり、愛着は深まってしまう。

 性の交換とは、たくさんの言葉よりも多く、深く、その人を受け取ってしまうものだ。内的な交換を重ねたい個体としか、したくない。セックスを軽く扱ったことで、手痛いしっぺ返しを何度か経験してわかったことだけど。
 
 この男には、すべてを詳らかにしたい。そう強く思った。
 
 私はからだを引いて離れ、止めた。上体を起こしてベッドの縁に腰かける。
 
 「どうかした?」太一もからだを起こして座り、聞いた。怪訝な表情は暗がりでもわかる。

 「ちょっと、ストップ。ごめん」

 客室の窓からは、ホテルの目の前に広がる由比ヶ浜海岸が見える。外は真っ暗闇で、たゆたう海の表情は見えない。一定の調子でざーざーとで静かに寄せては返す波の音が、その存在を感じさせる。

 私はシャツのボタンを見つめて元に戻しながら、言葉を探す。

 「何か、いやだった?」

 心配そうに太一が言う。太一のこの、自己肯定に支えられた協調的な性格をいいな、と思う。私は祈るような気持ちになる。

 「違う。聞いてほしいことがある。今話したいこと。盛り上がりを止めてでも」

 自嘲を込めて笑い、気まずい空気を和ませる。緊張を悟られないようにゆっくりと息を吐く。

 「隠していたことがある」
 「なに?」

 太一は、今夜何食べる?ぐらいのポップさで言葉を返す。規則的な波の音が充満する。

 「年齢を些少していたとか?」
 「シングルマザーです、とか?」

 太一は、不安を押し戻そうとしているのか、何かを感じまいとしているのか畳みかけてくる。私は黙ったまま首を横にふる。「子どもは産んだことないよ」。

 「だったら、実は逃亡中の身とか?」
 「何から逃げてると思うの?」
 「わかんないけど、闇の」
 「闇の?」
 「組織とか」
 「違うよ。ふざけてる?」

 太一が広げる妄想にぷっと吹き出し、私のほほがふわりと緩む。

 「この気まずい状況を、和ませてるんでしょ」
 「何を隠していたでしょうか?」
 「やめろよ、この場面で『私、何歳に見える?』みたいなやつ」
 「試されるようなあの質問、イラっとくるよね。5歳ぐらい若めの年齢で言って、ぴったりだったことあるよ」

 太一は反応せず、声の調子を変えて話を引き戻した。

 「家族の問題?」
 「関係しているところは、すごくある」
 「だったら、何なの? はやく話して。俺たぶん大丈夫だから、続きをしようよ」

 太一が私の全身を引き寄せようと力を込める。

 大丈夫、は何にかかったんだろう。どんな話を聞いたとしても俺は大丈夫だよ、ということ? 太一の言葉によりかかり、私を求める熱源に引き寄せられる。
 やっぱりなんでもない、そう言いたくなるのを頭で押し戻す。
 
 いまを逃すと、次はいつ話せるかわからなくなりそうだった。
 
 太一は、大丈夫だ。俺大丈夫だからの前言通りにきっと「それがどうしたの? そんなことが言えなかったの?」と私のためらいを一蹴してくれるだろう。
 目を閉じて、波の音のリズムに呼吸を整える。
 
 「私は、日本人じゃないの」 
 
 波の音が大きくなる。

 「正確には、国籍は日本人。中学生のときに家族四人全員で帰化をして、日本国籍を取得した。でも本当は、家族も親戚も、全員の血は韓国人なんだ。韓国系日本人というのが正確な言いかたになるのかな」

 太一の返事を待つ沈黙が怖くて、次の言葉を急いでしまう。私は続けた。

 「日本が朝鮮半島を統治していた時代に、祖父や祖母が海を渡った。祖父母は日本で出会い、日本で生まれ育った父と母が出会って私が生まれた。私は、在日韓国人三世」
 
 太一は、何か合点がいったような表情を少しだけして軽く二度うなづき、「それで?」と話の続きを促した。

 「日本で生まれて、日本で育った。コリアンタウンではない一般的な住宅街でね。日本の公立小学校、中学、高校、大学と進学したからすべて日本の学校教育を受けた。同い年の私と太一は、片方は京都で、片方は東京で学生時代を過ごした。同じ空気を吸い、同じものを見て、感じてきたよ。私の実家の食卓には、キムチやチゲやチヂミと、大根おろしつきの焼き魚が並ぶ日韓共同スタイルだったけど」

 長く逡巡していたのに、放ってしまえば口は滑らかだった。

 太一の表情から、何も判別できない。この事実を、太一はどう受け止めたのか。

 「韓国語は話せる?」
 
 私は首を、小さく何度も横にふる。

 「祖父たちは時々韓国語で会話していたから、オモニとかアニョハセヨとか、韓国の映画やドラマを見ていたら自然と憶える程度の単語はわかるけれど、聞き取れないし喋れない。読み書きもできない。帰化したのは中一のとき。それまで海外旅行に行ったこともなかったから、パスポートの色は、初めて海外旅行をした大学生で受け取った赤だった」

 うんうん、と太一はうなづく。太一の反応はまだわからない。

 「私としては、韓国人だった実感がない。大したことじゃないと思っているんだけど、母がね。とても重要なことだから。その先を考えたい人に出会ったら、伝えなさい、って。嫌がる日本の人はいるし仕方ないって」

 私は、今度は、目の前の相手にもわかるように大きく息を吐いた。

 切長の二つの目が、私の目を捉える。

 ただ視線が交わっているだけなのに、サバンナの大草原でライオンに見つかったシマウマのような気持ちで全身が委縮する。目の前のライオンは、泰然自若としている。

 動揺することも、同情をすることも、感傷的になることも、その表情にないように見えた。鼓動が速くなる。

 「その先を考えたい人。うれしいな」

 太一は、欲しかったプレゼントをもらった少年のように屈託なく喜んだ。

 本題で否定するからその前にまずは褒める的な、定型のまくら言葉かもしれない。反応からまだ判別できなくて、目の前の男を、下から伺うように凝視する。

 「だから、どうしたの? 何も変わらないよ。僕が好きになったのは、梨華だよ」

 はっとするような驚きのあと、今すぐ喉を噛みつかれて、食べられてしまっていいと思った。自らの命が終わる直前のシマウマは、ライオンに憧れるのかもしれない。

 ピンと張りつめていた糸が、ぶつりと音を立てて切れもした。この場で今すぐ、泣き出したいのをこらえた。

 私は在日韓国人だけどいいのかな……。いつもどこか、付き合う相手の顔色を見ていた。対等な関係を望みながら、最後のところで自分を信じることができなかった。

 何かに帰属している意識をアイデンティティと呼ぶのだとすれば、私は多くの人が簡単に手に入れられるはずの、国という拠りどころが揺れていた。

 自分では選べないことで、何も恥じることなんてない。頭では理解できても、自分の存在を卑下してしまう。理屈ではなかった。

 太一の態度に、言葉にならない安堵と歓びが体内に広がっていく。

 長年かけて育ち、まとってしまったへり下るような私の挙動から、太一はもっと前から、私の隠しごとに何かしら気づいてくれたのかもしれない。

 温かいものを味わっていたら、太一は言葉をつないだ。

 「ナニジンかなんて、どうだっていいんだよ。関係ない。梨華は、梨華なんだから」

 私が願っていた以上の力強さでからだが引き寄せられ、太一の脇の下に頭が収まる。私は背中に手を回す。太一は両手を差しのべて私のほほを挟み、そのまま撫でるように肩をつかんだ。

 落ち着いた動きで、私の顔を正面から見つめてきた。

 「僕が梨華を幸せにする、なんてことは傲慢だと思うから言えないけど、これだけは言える。僕は、梨華といると幸せだよ」

 私を離さない視線と、まっすぐな意志。

 「僕と、家族になりませんか?」

 こらえていた涙が、源泉のようにあふれ出す。

 出自について打ち明けるタイミングを周到に見極めていた。不安と恐怖のその先には、他人から、こんなふうに属性を超えたところで受け入れられ、求められることを、ずっと、ずっと待っていた。

 やっと会えたーー。

 私は、こっくりと小さく首を縦にふる。

 出会ってから、半年だった。パートナーを決める年齢として、27歳は昨今の適齢期としてどちらにとっても早いのだろうが、迷いはなかった。太一もそう見えた。

 近づいてきた唇に、すべてを預けた。

 自分自身の存在そのものへの揺るぎない信頼がそうさせているのであろう太一の態度にも、強烈に惹かれた。

「何も変わらないよ。関係ないよ。人間は、みんな一緒でしょう?」

 言葉通り、太一の私への態度は何一つ変わらなかった。

 それは私に、春の陽気が降り注ぐ公園の芝生で寝転んでいるような、健全な明るさをくれた。

 大地の恵みをたっぷり含んだ葉っぱが揺れ、その重なりの間から差し込む一筋の光の神々しさ。見慣れているはずの景色がくっきりと色をつけ、私の世界を美しいものにしてくれた。

 太一といるときの私がとても好きだし、太一を経由することで自分を愛することができた。

 ところがだんだん、だんだんと、この一見聞こえのいい美しい言葉が”違いを軽んじてしまう”ということを私は知っていく。

 私たちは等しく価値があるという普遍性は、すべての人にある差異を隠す。普遍性は、実際にはある差別が表に出ないように抑えつける効果として働いてしまう。


つづく
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