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空白地帯 _『リファ』#03【小説】

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 理解のない他者と他者の間には、愛は生まれない。

 だけど、信じる人との間に、あとから理解が及ばない空白地帯が生まれたとき、どうすればいいのだろう?

 太一との平穏な生活は、身も心も充たされているともいえる。その一方で、私を私のまま受け入れてくれる相手に「やっと会えた」と十年前に信じたものは思い込みで、その先にいけない、埋まらない隔たりが染みのように広がっているようにも思う。夫婦なんて他人同士だからそんなもの、と言われたらそうなのかもしれない。

 太一の姿勢は、十年前と今も一貫して変わらない。命の価値は同じだろう? と、家の中に迷い込んできた蛾や蜘蛛、蚊までも殺さずに逃す。

 陽の当たる大通りを大股で歩き、人類を丸ごと肯定するような太一の態度に、確かに私は救われた。太一が私に説明してくれる内容は、要約するとこういう話だった。

 「梨華、そもそもさ、『日本人』として生まれたと当然のように思っているけど、『日本人』というのは、明治政府が国民を一つにまとめるために人間がつくった概念や枠組みでしかないんだよ。『国民』という認識なんて、江戸時代の人は一切持っていなかった。江戸時代の農民なら、藩という意識すらないしどうだってよかったんだよ。日本にある国民意識は、支配の原理として使われたのが始まり。概念が作られたから、こっちとあっちで線引きして考えるようになった。ある意味でさ、心でどう捉えるかだけの問題なわけ。誰かに与えられた観念に従順になる必要はないよ。梨華が、そんな風にとらわれる必要もないって思えるでしょ?」

 私はもう覚えてしまった。あるいは、こうも言った。

 「ルーツが『朝鮮半島にある』ってさ、時間軸を近代以前まで長くとらえて、さらにもっとずっとずっと前の四世紀から七世紀に渡来人が日本列島に渡ってきたところまで遡れば、俺だって大陸からの先祖に行き着くよ。朝鮮半島、中国大陸、日本列島にいる人類、みんな遠い親戚みたいなもの。在日朝鮮人がどうのこうのと差別するヤツは、単に知識不足なだけ」

 太一の説明は、公平で正しい。

 だけど、足りない。太一の機械じかけのような言葉は、私の感情を前に進めてはくれない。

 数時間前に義父母宅で走った違和感が、私を感傷的にさせているだけかもしれなかった。

 地球が青いことをこれでもかと主張してくる快晴の日曜日、家族四人で、三鷹にある義父母宅へ行った。空気が冷えると、空の青の純度は増す。

 自宅から車で一時間程度の距離にあるため、年始に行ってもよかった。ただ、年末年始は帰省や移動を自粛するよう政府も東京都も国民にメッセージを出していた。

 梅のつぼみが開き出すころまで日程をずらし、新年のあいさつの場を設けようと連絡をくれた義母は、相変わらず非科学的な人だなと思う。コロナの状況は一ケ月前から変わっていないし、ワクチン接種はその目途も立っていない。

 義母を胸の裡で皮肉りつつ、金箔入りの大吟醸酒と義母の好物であるたねやの最中を持参して協調する私がいる。

 義父母宅の食卓は、遅れてやってきたお正月のそれだった。

 三段のお重に入った義母手作りのおせち料理の数々は見た目も味も見事で、鶏だしが効いたお雑煮も手練れた上品さがある。息子たちは、雑煮をおかわりしていた。

 ふたりはお年玉をもらい、義父とトランプを楽しむ。「新年のおじいちゃん家」としてスタンプにできそうなほどの、日本のお正月だった。

 正月がもたらす寿ぎの盛り上がりに相反するように、私の心は毎年、蚊帳の外に置かれる。カップルだらけの川沿いを一人で歩いているときのような孤独を味わいながら、祝いの空気が過ぎ去るのをじっと待つ。

 放っておいてくれればいいのに、正月は暴力的なほど国民総出で祝いにくる。

 その圧力に無理やり、鍵をかけてある引き出しを開けられてしまう。自分は、この世界の異端者だと突きつけられてしまう。

 その事実を切り離して、奥に奥に、隠しているのに。結婚、出産、親族で過ごすお正月と、自分を形成するその一点以外、多数側に入れるような証明書を集めてきたのに。

 なかったことには、できないらしい。

 三鷹から、代々木上原にある自宅マンションに戻ってきた。参観日のお母さんを絵に描いたような無難なネイビーのワンピースという鎧から、部屋着のスエットに着替えた。

 豆から挽いて時間をかけてコーヒーを入れたものの、うんざりするような気分は回復しない。

 太一は、お正月を味わったことで疎外感を抱いている妻に思いをはせる、なんてことはしない。

 リビングにあるソファに腰かけ、熱心に本を読んでいる。

 子ども部屋で遊んでいた葉(よう)と銀(ぎん)が、「ママ、おなかすいた〜。おばあちゃんのおぞうに、食べたい!」と、声を揃えてリビングに飛び込んできた。

 ダイニングテーブルに座る私に、二人がまとわりつく。まだ食べたいの? そう返しながらも、普段通り腰を上げて冷蔵庫を開ける。

 実家の母が送ってくれたキムチの詰まったタッパーが目に入り、そこから鼻の奥を突き刺す強いにおいが届いた。白菜のペチュキムチ、大根のカクテキ、きゅうりのオイキムチと三段に重ねられている。懐かしい、におい。

 太一が、冷蔵庫の前にやってきた。私と並んだ太一は、子どもたちには見えないように腕を腰に絡ませてお尻を触ったあと、冷えた缶ビールをするりと持っていく。

 「太一、おつまみにキムチ食べる?」

 精一杯明るく声をかけた。

 「いい」

 太一は二文字だけ残し、買い置きしておいたポテトチップスの袋をひょいっと手に取った。シュパンとビールを開ける音が弾けて、太一は読んでいた本の続きに戻った。

 キムチはつまみにしないけど、ポテチはするんだね。内側から沸いてくる嫌味は苛々の八つ当たりでしかない。

 自制して口には出さない。

 どこかで読んだ一節を思い出しながらコンロの前に立つ。今日は料理をしたくないなという時どうするか?

 とにかく、二分我慢してニンジンを切るべし。動き出せば、気持ちはついてくる。

 こんな感じだったなと、お雑煮をつくる。水を注いだ鍋に茅乃舎のだしパックを投げ入れて、火をつける。冷蔵庫から取り出した鶏肉を、一口大に切って鍋に放り込み、いちょう切りにしたニンジンや大根、冷凍された里芋を鍋に入れる。火を通す間に丸もちを、オーブントースターで焼く。

 子ども用のおかずにソーセージを焼きながら、義母が持たせてくれた黒豆や田作り、煮しめ、紅白なます、昆布巻、伊達巻、紅白かまぼこを藍色の大皿に盛りつける。

 おせち料理の具材には、それぞれ縁起の良い意味や願いが込められているというが、それぞれの由来に、関心を持つことが私にはできない。

 借り物の衣装を着せられているような落ち着かなさがあり、にもかかわらずそこに従順になる自分も嘘くさい。

 嘘なのだ。

 おせち料理、雑煮、晴れ着、お年玉……お正月恒例のあれこれは、自分の先祖がつないできた慣習ではない。自分には受け継がれていない文化にもかかわらず、同化して祝っている。

 同質な者以外は冷淡な島国意識も、調和を重んじる体質の日本文化も、しんどい。そこに同調し、同化し、家族以外には隠し続けることを選び、びくびくしながら生きているのがほかならぬ自分であることは、私が一番知っている。

 遅れてきた新年が演出されたテーブルを、家族四人で囲んだ。

 太一、葉、銀の三人の表情に目を配ると、普段より血色がいい気がして心が跳ねる。自らの手で引き寄せた自分の家族であり、自分でいられる居場所はここだけだ。

 私も冷蔵庫から缶ビールを出し、太一と乾杯をする。

 私以外誰も食べないから一向に減らないキムチをつまむ。母が送ってくれた京都のコリアンタウンで買ったキムチは、周辺のスーパーで売られているものとは、味の深みがまったく違う。

 これよこれよと舌鼓を打つ。家族と囲む賑やかな食卓は、確かな充足を運んでくれた。

 けれど、すぐに私からこぼれていく。

 日中に抱いた濁流に取り込まれる。体内の荒ぶりを、操縦できない。



つづく
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