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煮物とチゲ _『リファ』#17【小説】

 切り干し大根の煮物とタコときゅうりの酢のもの、レタスや薄切りにした玉ねぎとトマトの上にたっぷり盛られた冷しゃぶ、あさりと豆腐のチゲ。立ち上る湯気から炊き上がったばかりであろうごはんが、テーブルに運ばれてきた。

 インスタントラーメンで適当に済ませればいいと思っていたお昼ごはんは、想像した以上にちゃんとした家庭の食卓だった。

 夫は入院中で今はひとり暮らしなのに、バランスのいい食事を作り続ける母とは女の種類が違う。改めて感心する。

 「すごいな。作ってくれてありがとう」

 感謝の言葉は自然と出た。

 「煮ものと酢のものは、昨日の残りやで。葉と銀に作ったミートソースは今晩においておいた。冷しゃぶは、ゴマだれで食べて」

 母がごまだれが入った瓶を、食卓の真ん中に置いた。おばんざい屋の定番料理の中に、赤いチゲが混じっているのがわが実家らしい。

 いただきます、と静かに手を合わせ、あさりと豆腐から口に運んだ。唐辛子の辛味がからだの中心を通っていく。積み重ねられてきた舌の記憶は、誰にも上書きはできない。心が悦んでいる。

 「キムチ出す? チャンジャ大根もあるで」

 頭の中を見られていたように、母が聞いた。「夜に食べる」と返し、煮物、酢の物と箸を進める。自家製のごまだれと絡めた豚肉も、おいしい。

 母と向かい合うと、濃くなった目元のしわに目がいく。ただ、しみは少なく、おばあさんといわれる年齢のわりには、はりとツヤも肌にある。目鼻立ちの整った造形も、若いころは綺麗な人だったのだろうなとぼんやりと思う。

 ネイビーのリネンシャツは、貝殻のようなアンティークのボタンに付け替えていて、さりげなくオシャレだ。母は昔から、いい生地で縫製のいい洋服を数少なく持つ。

 次の瞬間、自分でも予想外のことを聞いていた。発する言葉とは、本人の意識の統制がどこまで届いているものなのだろうか。

 「なんで、帰化したの?」 

 「どうしたん。今さら」

 きゅうりをサクサクと噛み砕きながら、母は気の抜けた声を出した。終わったこと、という認識なのか。母にとっては。

 「葉と銀に、どういうふうに説明しようか。最近考えるようになった」

 真剣さが伝わったのか、母はじっと私の目を見つめた。

 「日本で生活しやすいように、や。とにかく不便なんよ。住民票や戸籍謄本が必要なとき、韓国から取り寄せないといけない。民団に間に入ってもらってやりとりをするんやけど、いちいち手間が煩雑なわけ。海外旅行をするにも、再入国許可申請の手続きをしないといけなかったり」

 小学生だった私に話してくれた帰化する理由の、「生活は日本にあるから」の具体的な部分だった。

 民団とは、在日本大韓民国民団のことで、日本に定住する在日韓国人のための団体だ。東京に本部、各都道府県に地方本部があり、各地域に支部がある。母は続ける。

 「帰化するための書類を集めて用意するのも、ハングル語なんよ。うちの親戚で、まともに韓国語ができるのはあんたのじいちゃんだけ。元気なうちにと、じいちゃんが帰化申請のやりとりを率先してやってもくれた」

 「国籍を変えることへの、葛藤とか反発はなかったわけ?」

 「ないよ。国籍を変えたことで、実体は何も変わらんもん。あんたたちに説明したときと同じ。『生活は日本にあって、ルーツは韓国にある』、ただそれだけ」

 母は当然のことのように言う。母の考えは、昔からシンプルだ。

 こうやって聞いているのは、親になった私が、わが子に等身大の誇りと尊厳をもって、出自の話をしたいから。そして、子どもにほんとうの言葉で伝えるためには、私自身が弱みとして閉じ込めていることから解放されないと始まらないから。

 在日韓国人であることを、隠してきた。

 恥ではないことを恥じている。その恥ずかしさへの自覚があるから、親に伝えるのは酷だと言わずにきた。親自身の存在も否定しかねない。

 今なら、率直に聞いてみてもいいのではないか。できるだけ本心で紡ぎたいと、私は言葉を探す。

 「在日であることを、自分で卑下するようなことは、お母さんはなかった? 四十年以上韓国人として生活してきたわけやろ?」

 「せやなぁ」と、母はチゲのスープをすすった。クローゼットの奥に閉まっていた記憶を探し、手繰り寄せるように、頭上を見ている。

 「生まれたその国の国籍やったらよかったのに、とは何度も考えたよ」

 「日本のってこと?」

 「韓国籍なら、韓国に生まれたかった。でもお母さんは、韓国籍で日本で生まれ育った。ずっと日本の義務教育を受けた。韓国語もよく知らないし、韓国の歴史や文化も疎い。でも自分は韓国人。ねじれていてややこしい。その国の一員って思えるのに、必要なものってなんやろうな」

 私は黙って母の顔を見ていた。目をじっとのぞき込み、話の続きを促す。

「大学の友だちと卒業旅行に海外に行ったとき、お母さんだけビザを取得する必要があったり、入国するのに時間がかかったり。外国人登録書を作るのに、指紋をとられるのも心外やったわ。その外国人登録の切り替えのために、何年かに一度役所に行くのもなんで? やった」

「緑色のパスポートを、持ってたんやもんなぁ」

「“在日”っていう言葉もいや。在日米軍みたいに、いつかこの国を離れる人と同じ位置づけやんか。もっといえば、“帰化”も失礼な言い方や。帰って化けるって、動物みたい。日本人が外国人をどう見ているのか。言葉に表れてる」

 母は、かつて抱いた自身の感情も、記憶のクローゼットから引き出していた。

 その生っぽさが、母としてではない、ひとりの人生の葛藤に触れた気がした。自分と似たことに理不尽さを抱えた実像の、手触りがあった。



つづく

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