彼はどうすれば、踏みとどまれたのだろうか? ミン・ジン・リー『PACHINKO』 【読書レビュー】
取り返しをつけたい、つけなければならないことがある。
私の父の母、つまり私の祖母は、日本語の読み書きができなかった。
識字できない人がこの国で直面する生きづらさとは、どんなものなのか。想像し難いかもしれない。
たとえば、かかりつけの病院に行き、名前を呼ばれて返事をする。そのコミュニケーションは自分でできても、問診表は書けない。病院へは、娘である叔母が付き添うか、受付の人に向かって話し、それを書き取ってもらっていたらしい。
鉄道の切符を買う方法が自動券売機に切り替わったとき、祖母は動揺したという話を、父から聞いたことがある。券売機がなかったときは駅員に行き先を話せば、切符を一人でも購入できた。字が読めないことは外からもわからない。
でも券売機だと、祖母は選ぶことができない。たった一駅移動するのに、その都度他人の手を借りないといけなくなった。
移民一世の苦労話として父は娘の私に伝え聞かせていたのだが、幼稚園で教わるずっと前に日本語の読み書きを習得した私にとって、そんな祖母の姿は恥だった。
こんな簡単なことがなぜできないのか。日本で暮らしているのに学ぼうとしないのか。それは、親の方針で帰化をした私を苛立たせた。
自分と同じ努力をしない人たちは、頭が良くないのだと思っていた。背中が曲がり、晩年は歩けず寝たきりになった祖母を蔑んでいた。
当時の私は、日本の帝国主義政策によって日本の占領下にあった朝鮮から海を渡った祖母や祖父たちが日本でどんな生活をし、どんな想いがあったのか。
あからさまな差別であふれていた日常の中で、父をはじめ5人いる叔父や叔母をどのように産み育てたのか。貧しいあの家で、父の大学の学費をどう工面したのか。
当時の社会や法制度において女性が、それも朝鮮人女性が家庭内外で置かれていた立場はどういうものだったのか。
今思い返すと、祖母は読み書きができない以前に、この国の言葉を聞き取り、話すこともおぼつかなかったのだと思う。そんな世界で生きなければならないとは、どれほど心細く恐ろしかっただろうか。
無口な祖母の小さな身体はどれほどのことを犠牲にし、受け入れてきたのかーー。
その一切に想いを馳せることが、できなかった。祖母の半生に身を置こうとしてみることも、したくても努力を諦めなければならなかったことを思いやり、その先にいまここに自分の存在があり生かされていることを誇ることも、感謝することも、できなかった。
私はあまりにも無知で、未熟だった。
祖母との間で起きた誤解をほどいてくれた
そんなひとりよがりな孫だった私と、祖母という世代間で起きてしまった無理解を溶かしてくれたのが、韓国系アメリカ人作家ミン・ジン・リーによる『PACHINKO』だ。
『PACHINKO』は、在日一世のソンジャという一人の女性の生涯を中心に描かれる、在日コリアン家族の四世代に渡る年代記。日韓併合の1910年から1980年代までの波乱に満ちた日本の風景を、そこで暮らすソンジャを通して描き出す。
戦前から戦後の日本を朝鮮人女性の視点から追体験することで、祖母と過ごした記憶の断片も引き出され重なった。祖母についてたくさん想像し、やっと理解できたこともあった。
目に映る事実や情報だけでは、あまりにも見えなくて、気づけなくて、受け取れないことばかりだ。物語が、亡き祖母と私をつなげてくれた。
ノアについて、考えることを止められなかった
祖母の輪郭を浮かび上がらせたソンジャと同じぐらいかそれ以上に、私の心をとらえたのは、ソンジャの第一子である息子、ノアの葛藤だった。
私もそうだが、移民やその末裔のアイデンティティはその抱えかたや表出のしかたはさまざまで、一括りにはできない。
日本統治下の朝鮮半島から渡ってきた祖父母たち一世、日本で生まれ育った父母たち二世、その下に続く私たち三世。時代や社会情勢、生活や教育、体験によって世代間で価値観が違うのはもちろんのこと、言葉、文化、慣習、被差別経験、歴史認識、同化と異化への意識など、同世代であっても、この国で生きていくことの向き合いかたは、ほんとうに違う。
『PACHINKO』でも、在日コリアンであることに早々に折り合いをつける次男モーザスと、密かに日本人になりたいと願う長男ノアは、対照的な存在として描かれる。
ノアは激しい差別に遭い、戦争で学校に通うことを中断させられながらも、孤高に学び続ける。長男としての責任感も強い。
そして、生活に苦労する家族の経済をアルバイトで支えながら、早稲田大学に合格する。
ノアは、社会階級を自力で飛び越えられる「教育」という武器を授けられた、一家の希望でもあった。
進学によって、ノアの人生は開かれたように見えた。その延長で、彼は自らの出自を隠して生きる選択をする。
生まれ育った日本にいながら、自分は日本人ではない。それを突きつけられ続ける中で生きてきた。だからこそ、前提を自ら取り払うことで一人の人間としてただ普通にいたい。その願いの表れだった。
きっかけは、大学のクラスメイトである日本人の恋人、晶子との衝突からだった。晶子といるときのノアは、自分がコリアンであることを意識することはなかった。
ところが、リベラルだと自認する恋人は、無自覚にそうではなかった。
「わたしはコリアンだからこそ、あなたが好きなのよ」「コリアンは激しやすいっていうけど、初めて見たわ」などと、ノア自身を見てはいなかったことが明らかになる。
ノアの望みは、日本人だとかコリアンだとかではなく、ただ自分らしくありたかった。ノア自身を見てほしかった。
一方、彼がいくら望んでも、自分のいる社会も法制度も、目の前の愛する人も、そうは見てはくれない。
さらには、彼の生みの父はヤクザだと知ってしまう。何をしても変えられない血のつながりを、またも突きつけられる。
ノアは名前を変え、コリアンとしての過去を暗く重い石として自分の内側に追いやり、別人として新しい家族を作る。新しい家族には注意深く接した。
彼が本来の自分を自分で確かめるすべは、昼休みの30分間、愛読するディケンズやトロロープ、ゲーテを英語で読み返すことだった。
血のつながりにもっとも執着したのは彼自身だったのか?
ところが、密やかだった彼の日々は、十数年間息子を探し続けていた母が会いにきたことで一変する。母ソンジャは、ただ息子に会いたい一心だった。
ソンジャの想いが届くことはなく、ノアは行き場を失う。
血から逃れられないことを、再認識する。
彼は自死を選んだ。母、生みの父や親族、弟、新しい家族を置いて。
血のつながりから逃げようとし、血のつながりにもっとも執着したのは彼自身だったのかもしれない。
ノアは、どうすれば死なずにすんだのだろう?
いまもこの問いが、私から離れないでいる。
ロスに暮らす友人が勧めてくれた
Apple TV+のドラマシリーズ『Pachinko パチンコ』としてシーズン2が配信中ということで、「アメリカではすごく話題。きっと、読むといいよ」と、ロスで働く友人から教えてもらった。
「日本の話なのに、なぜ日本からはこういう話が描かれないのだろう? 移民で成り立ってるアメリカとは違って、日本にはこの小説で描かれている感情に共感できる人は多くないのかな」
友人に勧められる前から、小説の存在は知っていた。ただ、ある程度経済的に恵まれた在日コリアンの親族のどこかにはパチンコ経営をしている者がおり、それは私にとってなんとなくの拒否感があった。タイトルに、手を伸ばせずにいた。
この作品にしっかり出会わせてくれた経緯も含めて、自分を取り巻くつながりを感じずにはいられない。
とても大切な一冊になった。