母の信頼 _『リファ』#15【小説】
紅白の鉄塔が車窓に迫ってきた。蝋燭をイメージしたらしいタワーは、何度見ても垢抜けないが、その野暮ったさこそが風情ともいえる。
京都駅のホームに降りると、生ぬるいお湯をたっぷり含んだような湿気が全身を包んだ。京都では雨は降っていなかったようだ。盆地の蒸し暑い夏が、すぐ近くまで来ている。
新幹線の改札口の前に、母が待っていた。約一年半ぶりだが、少し小さくなった。母は拍子抜けした顔をして「葉と銀は?」聞いた。孫を連れずに、娘が一人で帰省したことに落胆しているのが、声でもわかる。
「太一が見てる」
「アンタは、子どもと離れて一泊するの平気なんか?」
「うん、太一がいる」
「ええ時代やなぁ。子どもと母親はいつ何時でもセットで動くこと以外、考えられへんかったわ」
「せやで、時代がちがうんよ」
語尾が丸くなるように努めた。聞きようによっては娘への嫌味なのだろうが、取り合わない。専業主婦で家を守ることで家族を支えた母と、ガチの共働きで家庭と仕事に精を出す娘。「お母さん」というものへの宗教が異なる二者は、近づきすぎると争いになる。お互いに敬意を持ち、いい距離間を保っておくのが吉だ。
京都駅構外に向かって歩きながら、確認すべきことを聞く。
「お父さんの体調は、どうなん?」
「ようなってるよ。点滴につながれていたのが昨日終わって。流動食から、今日は病院で出るごはんを食べられたらしい」
順調に回復しているらしく、ひとまずほっとする。
「よかった」
「寝たきり状態で筋力落ちてるからリハビリは欠かせへんけど、このまま行けば体調も良くなって、退院もできる」
「毎日、病院に行ってはいる?」
「二日に一回、洗濯物を交換しに行くだけ。なんせ病室には入れないし、お父さんの顔も見てへん」
「ぜんぜん、会うてないの?」
「そうや。お父さんの顔を、二週間も見てない。結婚して初めてとちがうかな」
長年連れ添った夫の顔を二週間見れないことが、七十歳の妻にとってどういう心情なのか。母のさっぱりした声からはわからない。両親の夫婦の側面に興味は特になかったが、聞いた。
「さみしい?」
「せやなぁ。健康なのに部屋でゴロゴロ寝てばっかりのときは鬱陶しかった。それが病気でいないとなると、かわいそうと思うかなぁ。亭主元気で留守がいいってやつ?」
車を停めていた駐車場に着いた。私がまだ実家にいた学生のころは三列シートのミニバンだった自家用車は、数年前からワンボックスの軽自動車に変わった。両親が確実に老いていることを、車種の変化で受け止める。
車が走り出すやいなや、この話を母に知ってもらいたくないと抱きながら、話さずにいることができなかった。
助手席からフロントガラスに顔を向けたまま、「太一が浮気している。浮気か本気か、誤解なのかわからんのやけど疑惑が出た」言い切った。
「あらま。たいちゃん、モテるやろう。人当たりいいし、いつでも堂々としてるところ」
母は、曇りの予報だった天気が雨に変わった程度の驚きだった。私は、太一への目線に女を感じて怖気づく。母は常に母であって、異性に対する女性の意見という立ち位置がぴんとこないのだ。
「そんなふうに、義理の息子を見てたことあんの?」
「そりゃ、あるわ。たいちゃんってさ、どっからどう見ても赤やのに、たいちゃんが青と言うと紫色ぐらいには見えてくる、独特の資質あるやん。あれはな、多くのメスが本能的に引き寄せられるものがある」
母の太一評は言い得ていたものの、自分が惹かれた、太一の揺るぎなさみたいなものを、メスの一般論で語られたくなかった。こちらの心情を気遣う気配もなく、母はまくし立てるように、畳みかけてくる。
「腹立ってる? 怒り? 悲しみ?」
気持ちを聞かれても、やはりよくわからなかった。心の状態を、できるだけ正確に言葉にしたいとは思った。
「私が見てる太一以外の顔は、どうやっても知りようはない。その途方もないわからなさに、蝕まれていくような感じかな」
「さすがやな。ものを書いている人の表現を感じる」
母が茶化す。娘の気持ちに寄り添う気は、まったくないらしい。
母は、自分の見ている世界以外への想像力が足りない。そのガサツさが、昔から好きになれなかった。「おもしろい話してあげようか?」と、話し出す前からケタケタと笑っている。
「裕輝もさ、お母さんは浮気を疑ってるんよ。会社が忙しい時用にオフィスの近くにマンション借りた言うててさ、自宅にも帰ってないようす。怪しい」
裕輝(ひろき)とは二歳上の兄だ。新卒でエンジニアとして企業に就職した三年後には、ITベンチャーで起業して結婚もしていた。小学四年、一年、年中児がいる三児の父でもある。自宅とは別にマンションを借りていたとは。中学までは、くっつくように遊んでいた兄も、今や彼について何も知らない。
「息子が浮気するとさ、母は、嫁に責任があるって思うわけ。だって祥子ちゃん、料理も全然せえへんから裕輝の胃袋をつかめていない。いつ行っても、部屋は散らかってる。家に帰りたくならない裕輝の気持ちがわかる」
「ひどいな」
三人も子ども作っておいて家に帰らないとは、子育ての主権は自分にないと言わんばかりだ。当然、妻である祥子さんの味方である。一方の母は、同じ妻の立場であっても息子の肩を持ち、破綻した理論を自信満々に展開する。助手席から、その横顔をまじまじと見てしまう。
「それがたった今、娘が夫に浮気されてるかも、と聞いた。うちの娘を悲しませて、どういうつもりや! お父さんと、太一のいる家に乗り込んでやろうと思ってる」
母は、かまわず続ける。
「お嫁さんやお婿さんがいくら可愛くても、親は一生わが子の味方。息子や娘を大切にしてくれる義娘や義息子だから、可愛い。大切にしないなら、その可愛さはいつでもひっくり返る」
呆れて私は、吹き出した。
「無茶苦茶やな。客観性、ゼロ」
「あたりまえや。客観性なんてない。親とはそういうもの」
「そういうもんかね」
「娘や息子が何か法に触れる犯罪に手を染めたとしても、それなりの理由があったんやろうって信じる。どこまでも主観。つまり、わかるか?」
「つまり?」
私はいつの間にか、母の強引な理論に魅了されていた。
「配偶者の不倫や浮気を親に相談しても、参考にならんってことや」
確かにな、母の持論に吹き出す。
実際、具体的なアドバイスは母の口から語られなかった。私の感情を慮ることもなかった。
ただ、自分の内側だけでぐるぐるしていたものに、風が吹き込まれた感触はあった。今日初めて、呼吸ができた気がした。
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?