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空白の染み _『リファ』#14【小説】

 予定通りの時刻に東海道新幹線に乗っても、何か忘れ物をしたような心許なさがあった。単身で移動することが、もう非日常になっている自分に気づく。

 つい数時間前に見てしまった太一のスマホ。そこからの動揺も、続いていた。

 駅の売店で買って持ち込んだアイスコーヒーの蓋をあけてミルクを入れようとしたら、派手にこぼした。折りたたみテーブルの上に、どろりとした白い液体がアメーバのように広がる。夫の浮気の可能性を知り、平静でいられる妻なんてきっといない。

 私は何に動揺している?

 怒りや腹立たしさは、不思議なほど抱いていなかった。整理してみる。

 太一と兵藤はどういう関係なのか。いつからなのか。

 仮に、仕事上のパートナーという関係から友人関係に発展したとして、「もう、会いたい」という言葉を使う局面は、何かを越えたとしか考えにくい。太一は、私以外にも大切な女性がいるということ?

 コロナ下でソーシャルディスタンスが叫ばれ、ほとんどの人が他人との距離に過敏になっている。ゆえに、その“大切さ”は軽くないもののように感じた。太一が自身のプライベートディスタンスに兵藤を入れたことに、冷めたインスタントコーヒーを飲んだときの不味さに似た嫌悪が広がった。

 一方で、太一が私や子どもに注いでくれる愛情が、ここ数ヵ月で変化していたとは思えない。

 もしも、太一が実際に不倫しているとして。

 裏切られたとは、思わなかった。複数の相手を一度に愛することは、小さな虫も愛でる太一には難しくないだろうから。

 私のこの落ち着かなさは、自分の知り得ない夫の領域が増えたことによるものだった。
 
 私と太一の間にある空白の染みが、ひと回りもふた回りも大きくなる。疑心暗鬼という名の鬼はむくむくと成長し、私を悲観的な妄想でいっぱいにする。

 モダンなカウンター席に、私と太一が並んで座っている。カウンター前では、板前のような真っ白な調理衣を着た男性が、やきとりの串のようなものを焼いている。そんな二人を天井から眺めている視線に構うことなく、二人はビールグラスをぶつけ合って乾杯する。

 太一の横にいる私と、それを俯瞰して見下ろしている私の目があった。

 二人の距離や表情から愉しげな様子は伝わってくるが、話の内容までは聞き取れない。

 カウンターの後ろにある扉が開いた。

 入ってきた女性客の二人組が、太一たちに気づいて驚く。二人に近づく。

 「だれ?」

 二人組の女性の一人が、太一に聞いている。その親しさや馴れ馴れしい声の調子から、その女性と太一は知り合い以上の関係があることはわかる。太一は「彼女だよ」と隣に座る私を紹介した。

 「私もなんですけど」

 その彼女は、睨みつけながらふてぶてしく言った。

 「元な」

 太一は、ふっと表情を緩める。

 「ひどい」

 女性の声が細切れになる。太一が、感情の込もらない声で続ける。

 「もう好きじゃないんだよ。悪いけど、はっきりと気持ちが冷めたんだ」

 ただ事実を述べている、そんな様子だ。

 「三年よ。あんなに好きだと言ってくれたのに」

 その理不尽さに納得できないと叫び出しそうな彼女の声は、震えている。太一は、何を言いたいのか心底理解できないという顔でいる。

 「変わらないものなんてないんだよ。仕方ないじゃないか。もう好きじゃないんだから。自分のことを好きじゃない相手でも、一緒にいてほしいの?」

 太一は、彼女の言い分が不思議でたまらないようだ。一連の様子を、横にいる私はただ聞いている。

 上から全体の様子を眺めている私は、太一のドライな物言いに、共感力のない冷たいロボットに出会ったようで背筋が冷える。馴れ合いや情などというものが、まったく通じない人なのだ。

 次の瞬間、元カノだったはずの女性の顔が、私に変わっていた。

 俯瞰して眺めていたはずの私は、太一と対面している。

 数分前に「もう好きじゃないんだ」と放った太一が、話のわからない元恋人に困り果てた表情で私を見つめている。

 太一の顔を構成していた目や鼻、口が消え、その顔は真っ白になった。

 
 「次は、名古屋、名古屋です」

 車内アナウンスで、ハッと我に返る。いつの間にか寝ていたらしい。肘掛を握っていた手のひらに汗をかいている。

 妙に現実味のある夢だった。内容も鮮明だ。「もう好きじゃない相手でも、一緒にいたいの?」無垢な少年のように聞いた、夢の中にいた太一。

 私の知る太一とは別人のようにも感じるし、理性的で時に感情が稀薄に思える太一が言わないとも断言できない。

 これまで見てきた太一のいろんな顔が、私の外を流れていく。

 十年以上かけても、私は太一について何も知ることができないでいる。お互いに何も知らないまま、間にある空白は大きくなる。それは少しずつ、でも確かに私を疲弊させる。

 ほとんど手つかずだった冷えたブラックコーヒーを飲んだら、全身が余計に冷えた。



つづく

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