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大好きな、大好きな、私の彼氏

Comme la fleur si la belle femme écrit la poésie,

certainement comme la fleur, elle est félicitée.


私のボーイフレンドは背中だ。

彼氏は常に私とべったり。べったり……べったりでいてかつ、共依存とは形容しがたい。”そこまではいかない”からではなく”、行き過ぎている”から。即ち、一々言葉にしない/出来ないレベル。……共依存、それは一般的な言葉である以上、”一般的にあり得る”レベルの依存関係しか表さないだろう。私はそんな一般的なカップルを想像する。鳴り続ける電話、幾度にも重なるリストカット、人間関係の束縛ーそんな程度の、中途半端なのものと一緒にされたくはない。これはそういうレベルの依存ではない。これは、不健全な関係でも、健全な関係でも、肉体的な関係でも、精神的な関係でもない。強いて言うなら、~性で括られるような関係の全て。ただしく、正しく、それらの全てなので。

私の行うありとあらゆる行動は全て、同時に彼氏も行っている。”行っている”ことに”後から必ずなる”の方が正確なのかも知れないが、私にはその区別はつかない。他にも沢山の変わった所がある。ああ……そういえば……その中の些事……ああ、これは、私にとってはそこまで重要なことではないのだけれど、これを重要と思う人が多いらしいので先に言っておいた方がよさそうなことを思い出したので言っておく。ちなみに彼氏には、延長がない。

延長もない。広がりもない。大きさも重さも、五感もない。彼氏は何も持たない。ほとんどの”性質”的なものを持たない。要するに少し、変わっている。(この話をするとよく、変わっているのはお前の方だとこぼされるが、それは貴方何か誤解をしているだけだと思う。今、私は私ではなく、彼氏の話をしている)まあでも、昨今はミニマリストブームともいうし、やっぱそこまで彼氏が変わっているとは思えない。ちょっとだけ過剰なだけだよ。腹の底ではみんな、社会的体裁と相反する異常性というのは持っているものだでしょう。それが彼氏の場合、ちょっとだけわかりやすく表れているだけのことだと私は考えているし、皆さんもそう思いませんかね?

ああ、そうそう先ほども言ったが、延長がない的な話をするとよく驚かれる。99%一番食いつかれる。基本延長云々よりも変わっている(と私は思う)所を予め示した後にこの話をするのだが……本当になぜ周りが延長がないというところばかりに食いついてくるのかが全然わからない。私の友達、私/彼氏の通う大学の教授、頭がダイヤモンドでできた母親と、特に何もない父親。その他も含め、押しなべて人というものは彼氏の魅力をちっとも理解しやしない。話すたびに高確率でうんざりしてしまう。だから私は、闇雲に彼氏の魅力を他人に話すのをやめた。しかし彼氏限界オタクとして布教したいという感情も多分にあるため、そのアンビバレントな心中、穏やかでない。

彼氏の保有する所の性質……それは一応0ではないが、ほとんど意識しなくても良いレベル。だからこそ、全ての延長と広がり、重力、額に触れる腕のあの感触。それらすべてを私が自由自在に受け入れられる。これはあまりにも普通の話すぎて、さっきの延長以上に面白くはないけれど。

ではどこが魅力的なのか。訊いてほしい。そして是非とも聞いてほしい。私の心をつかんで離さない、大好きな彼氏。もちろんその頬も、話すときに保険を掛けることも、話しかけると”許し”の垂れ幕になるところも、歴代の装甲も、イエローストーン国立公園も、今なところも、英単語のFreeの語源、それをしっかり理解してるところも、菅原文太の化身としての自覚がしっかりあるところも、肢体明晰なところも、100均で買った外国概念(外国の特定の個物ではなく、外国概念であることに注意)なところも、額面も、十中八九”場”を持つところも、魅力的であるから魅力的であるところも、爆笑大回転陰キャであるところも、速報【準速報】であるところも、あーもう!キリが無く好きだ。キリが無いぐらいではなく、キリが無く。好きだ。

でもそう、特に大好きなのはーー



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待ち合わせ時間はとうに過ぎている。私はバーで人を待っていた。私にはこの”バー”が”バーであること”ぐらいしか見えていない。全体的に茶色っぽくて、お酒がたくさんあって、人がまあまあいるぐらいはかろうじて分かる。どうせ、より詳しく意識を向けたところで、上の説明をグダグダ長引かせるだけ。そんな下らないものに意識を向けるぐらいなら、彼氏のことを考えていたい。

ちなみに、私は彼氏に会ったことがない。何故って、”会う”という言葉はそもそも、離別からの変化を表す言葉であり、私と彼氏が離別することはあり得ないからだ。

それは心情的な意味合いでも、必然的な意味合いでも。

離れたくないし、離れることが不可能。私たちはそんな関係なのだ。

ということで、彼氏について考え始める。

……その次の瞬間、私は待ち合わせ相手を視認した。これが、”彼氏について考えようと思った矢先、相手が到着した”のか、”彼氏について考える時間が幸せすぎて、体感時間が一瞬だった”のかは分からない。普通の関係ならばその辺は、”体感はどうあれ、時間的に一瞬だとしたらあまりにも考えている量が多い”とか言って、或いはその逆だったりで、どちらか否かを判別できるのだろうが、私たちの関係にはそんなものは通用しない。やろうと思えば一瞬で彼氏の全てを把握することができるし、彼氏を一瞬で、一瞬で把握できないものにもできる。その辺の不可能性はノリでやっている。何を可能にして、何を不可能にするか、それを任意のタイミングで着脱できるというのならそれを不可能性と呼ぶ意味はあるのか。

「ごめんね、待たせちゃった?」

「えーううん?私もついてすぐだった~!ぜんっぜん大丈夫だよ!」

全体的にかっちりとした私の内言語(そうか?)に反し、私の語り口調はいつもこのような感じである。が、特に”演じている”という自意識もない。一般的には”腹黒い”だとか”表裏がある”と言うような、もっとひどいと精神病質者だとかなんとか……言葉で自覚される傾向にある自我傾向なのだろうが、私はそういう思考法を好まない。思考とか精神の傾向なんてものに対しては特に。私は利害などを特に意識せず、自然とこうなっていた。

「良かった良かった」

ちなみに今更だが、内言語が明らかに”読み手=あなたに向けて綴られている”ように見えることの理由を詳しく説明する気はない。

遅れてきた男は、私の隣の席に座る。ああ、私の隣がカウンター席という事は、恐らく私も、カウンター席に座っているのだろうな。

特徴のない顔をしているな、と毎回思うし、その上全体的に”当たり障りなくやらせていただいてます”みたいな感じの表情を張り付けている。宛ら”現代が批判するような無個性"の鋳型、”つまらなさそうな鋳型”っぽ過ぎて逆に個性が抜きんで居るようにも見える、みたいな。まぁ何か、そんな感じの印象を受ける。

「マスター、いつもの」

まあ、絶妙にみんながやるレベルで寒いことを言うこの男のことなんて、ある種どうでもいい。と私は彼氏の大腿に意識を寄せる。その艶めかしい肉感と汗の香りを、店内の”酒概念”全般、主にボトルキープしておいたウイスキーに、垂らしていく。思弁的にも、はたまたグラスにも体にも垂れていくそれを感じながら、……私はいつも通り、男、言い換えるならばそう、「彼氏」に相当するそいつの話に、適当に相槌を。彼氏について考え始める。

……どうせこの後は似たようなことをするのだろう。これまでと同じように、似たように相槌を打った後、暫くしたら、じゃあ今日はこれ、などと言って<彼氏>は何かを私に提案する。その提案イベントは会うたびに毎回やっていて、この間は一風変わったスマホゲーム、この間はサイコパス診断、この間は全裸ヨガ、この間はタピオカミルクティー。”毎回前回とは違うもの”で楽しませてくれる。ただその”毎回なされる提案”の内実そのものはバラエティに富んでいるとはいえ、その一連の行動自体がもはやある種のルーチンワークと化しているような感覚を覚えざるを得ない。”毎回違うことをする”と自覚し続けたら、内実に関わらず”自覚してそうしている”という共通項が必ず残る……考えのない実践でしかたどり着けない領域というのはあるのかもしれない、それは自分のミスで割ってしまい、修繕した皿には愛着がわくが、その愛着を複製しようとしてわざと割って修繕したってダメ、というとある錬金術師が言った言葉と発想が似ている気がするな……そう、<彼氏>はやはりこういう壁を超えることができない。勿論それは仕方ないことだ。<彼氏>は、ただの人間なのだから。だがしかし彼氏には可能だ。罪のなさ、仕方なさとは独立に、やはり良いものは良い、そりゃそうだ。こういう、今回で言うならば”毎回完全にランダムになることは出来ない”的な、起こる前からは言語化しずらいが、必ずちょくちょく発生している論理的ギャップ、的なあらゆるものを解決するという点において彼氏は本当に凄い。というか比較対象が居ない。……なんでも彼氏の良さに繋げてしまうな……などと適当に考えながら、私はグラスのウイスキーをストローで一口。しっかし、何回飲んでも酒というのは……いや、そりゃあ彼氏に比べればあらゆる娯楽は気休め程度ではある、まぁ、悪くはない。そして悪くないどころではない彼氏について考え始める。…………<彼氏>全体が悪くないかと言われれば、まあ正直、今までの口調からはそうは見えないかもしれないが、彼氏に及ばないというだけで、普通に、好きだ。何だかんだ、長年一緒にいてもストレスはないし、毎回楽しませてくれる。そんな相手を嫌いになる道理は持ち合わせていない。

私は弄っていたスマホを膝の上に置き、両手で頬杖をつく。そして上目使いで彼氏の話に適当に返答する。さっきも言った通り私は<彼氏>が好きだから、この”適当に”ってのは言っても別に<彼氏>に嫌悪感があるとか、そういうことではない。寧ろ血液型診断のO型の記述によくある、”仲のいい相手に雑になる”とかそういう方向性だと思ってもらいたい、そもそも適当にという言葉には二通りの意味がある、例えば、その二つの用法をぐちゃぐちゃにかき混ぜた状態をイメージしてほしい。具体的には思いついた思想をそのまま単線化せず、即返すような電波的な対応だが、ある程度考えている。などの。繰り返すが、”などの”。そんな感じの方向性ならあり得る組み合わせは全部あると思ってもらっていい。勿論あなたはそれを把握しきれないだろうから、あなたの好きに、望むなら無限に慮ってくれて構わない。どこで判断する、或いは更新し続けるにしても、あなたが想起したレベルの広さでのそれがその都度私の<彼氏>に対する対応と考えてもらって差し支えない。ちなみに、彼氏に対する対応はありとあらゆる任意の対応だと思ってもらって差し支えない。

<彼氏>はまあまあ名の知れた大学の学生(彼氏の方は大体の大学の学生である)で、社会学とか文学とかの研究をしているらしい。いや、今は院生だったか?よく覚えていない。まだ一年生と言われても別に納得してしまう節もある。まあそういう事なので、そういう話をする、否、その帰結は普通に非自明で、大体の文系大学生は意中の女性相手に思想の話なんてしないのかもしれない。私は逆に、ウェーイw系なるものをあまり観測したことがないので、文系と言えばこういう風、という印象を抱いてしまう。のだが、まぁ意中の相手に対して学問の話を延々と語ってしまうというのは、一般的には”理系っぽさ”に区分されるのだろうな、と思う。まあ、至極どうでもいい話だ。そんな理系っぽい文系くんのする話を聞いている、よく聞いている生活。ちなみにそれは高確率でむず痒い気持ちになるイベントだ。

「その”彼氏”ってのはさ、”大きな物語”が消失したポストモダン、要するに現代の問題を解決するために導入された”自己内在的な自己超越性”なんじゃないかな。それは画期的なソリューションだと思うけど、ただ、それは非常に自己矛盾した概念で、性質を制約しない感じがするから用法が危なそうだし、なんなら”深いレベルでは全員がそうという……」

これは<彼氏>に彼氏について分析してもらった時の発言の冒頭を抜き出したものなのだが、私はこのような”時代背景などに個人性などを還元する”アプローチがどうも苦手らしいのだ。広く、部分を全体性に還元する試み。文学研究だってそうだ。作品からエピステーメーが読み取れるみたいなノリは根深いものらしいが、私はどうも好きになれない。あえて同じ穴の狢になる。要するに整合するように理由を物語るとしたら、現に私の世界観に”時代性” ”世界” ”政治”なるものが全く入り込んでいないように見えるからだろうか。私には幼いころから自分しか気にしていないような考えばかりしていた。それは彼氏を筆頭に様々。私の気にすることにはいつだって周りは関係なかったように思える。どこに生まれても発想できそうで、かつ周りの人間が発想していなさそうなことに興味があった。自意識を守りたいとかではなく、私はこれまで、本当に”日本”も、”右翼/左翼”も、”人間関係”も”現代性”も、まるで眼中になかったのだ。まあ勿論この意見は、”無意識には先に構造がある”とかどうこう言える、結局水掛け論になるような話でしかないのだろうけど。結局こういう話になる、それは後付けの、整合する解釈にすぎないみたいな。文系の話は、否、”話”というのは押しなべてよくこの話になる。なんだそれ?

「~なんでこうなっちゃったの?」

「えー、水掛け論になるってことは要するにどっちとも解釈できるようなものが対立してるってことだと思うんだけど、んで事実がどっちかわからないみたいな話になってて、いや、というかそもそも実在論が正しいのかみたいな話が……

まあ、こんな感じの割と面白い話をしたり/してくれたりして、それが一通り終わるとホテルに行く。私の口調、これまでの論調からして”どうせ”的なことを言いそうに見えるかもしれないが、別にそういう訳でもない。セックスは嫌いではないし、普通に嗜好する概念の一つだ。ただ、うん、まぁ、そうだね。自分でも<彼氏>とのこの関係を対象化してみて、一連の説明の内に何か形容しがたい、日常性に薄められた絶望のようなものを感じずにはいられない。二度目になるが、これは結局セックスをするための関係~みたいな巷に跳梁跋扈する浅薄な自覚文学の一種とかではない。


Q.大好きという割に、浮気してませんか?

A.セックス程度で浮気できるほどヤワな彼氏じゃない。それは彼氏が浮気にを気にしないとかいう話じゃなくて、うーん、強いて言うなら”浮気に相当するのが”不可能みたいな意味。それに実際、今真剣に考えてみてもどうしたら浮気できるのか見当もつかないし、したいとも思わない。

Q.彼氏って結局何なんですか?

A.冒頭の感じからして一番好きなのはーーーの後の文章が終盤に明かされてそこから彼氏の正体が明らかになりそうな感じすることない?ないならそういう意味と解釈してください。無粋なこと言わないように。私がその質問に愚直に答える性格してたらネタバレを食らう/食らわせることになるということを意識して欲しいものです

Q.それを超越概念と呼ばず、彼氏と形容する意味ってあるんですか?

A.色々あるけど、多分”無い”ってあなたは言って欲しいレベルのものだと思う。



轟音。

それは突然の事だった。それは蚊を殺すのにも一考察を挟むような、はたまた16personalityでT100%みたいな結果を叩き出すような、そんな自意識を持っている<彼氏>には余りに似つかわしくない、粗野で突発的な凶行だった。ラブホテルで<彼氏>に彼氏の話、あるいはその逆をしているときに突然。突然。

私は直接その光景を見たわけではないのだけれど、結果だけを見るに、ソファに座ったまま机を蹴り飛ばしたかのような、というかそれ以外にどう説明すればいいのか分からないような状況。勿論それ以外の解釈もあり得るが、少なくともここは”後の解釈でどうとでも言える”という空間ではないように見えた。おお、こういう場合もあるのか。と状況に反して嬉しくなってしまった。嬉しくなったというか、”肩をなでおろせる”みたいな方向性の良さを感じた。そしてまあ感覚が留保するそういう場合は全然あるか。と肩を落とす。

<彼氏>は一言も発しない。タバコを片手に持ったまま、ソファと肩を組み、天井を見上げて動かない。この静寂の間、流石に自分が何にキレているのか考えてくれているだろうとか思ってたらゴメン。全然違うこと考えてた

かといって今更取り繕ったかのように考える気にもならない。興味がないものはないのだから仕方がない。興味がないというよりかは考察することにあまり意義を感じない。なんでだろう、二度目のゴメン。なんかかまって欲しそうだけど、あんまり興味もてないっぽい

しかしそんなことを言っている場合ではないのかもしれない。実際ただならぬオーラを発しているように見える。ように”見える”な、ヨシ!やはり言語というのは感覚を平素にするなあ。

「かれし……かれし……かれし……」

と、<彼氏>が繰り返し小声で言っているのに気づく。このかれしは彼氏を指すのか、<彼氏>を指すのか、それとも彼氏概念一般を指すのか。

「かれし……かれし……かれし……かれし……かれし……かれし……かれし……かれし……かれし……かれし……かれし……かれし……かれし……かれし……かれし……かれし……かれし……かれし……かれし……」

同語反復。トートロジー。それは、形式的な論理学においては無意味とされるが、なぜか現実界において”意味を持ってしまう”ことで知られる。”ルールはルールだ”や、”成功したければ最強=(なんにでも対応出来るように)なろうとすることだ”※出典:自己啓発書は100%正しい 上 サウル著より  などなど、しかし、私たちがこういう問いを立てるとき、その”意味を持ってしまう”の根拠が”私たちの中にすでに先取り”されているとよく思う。そういうところを無視して、そういう共有できない非論理的な領域をさも感じてませんよ、みたいな顔をしてシニフィアンのみで論理を閉じようとする方向性を周りに示せば”カッコいい・理知的”という印象を受けるかもしれないが、だからといって……

「お前のかれしは、このかれしだろう!!!!!!!!!」

ああもう、思考が途切れた。何?今まさにそういう話を考えてた気がするんだけど?

「お前のかれしは、このかれしだろう!!!!!!!!!」

……ああ、そういうことか。二度目で<彼氏>の意図を私は考える間もなく”自然に解釈した”、というか。あまりにも必然的な解釈だな、みたいなノリで解釈してしまった。まあでもそれもそのはず、彼氏がこういうことを言い始めるのは一回目や二回目ではないのだ。

要するに、「お前の彼氏(概念)はこの<彼氏>だろうが」ってこと。

というかこれ以外には考えつかない。

私はベットの上で身を起こし、シーツを体に巻き付けながら<彼氏>の方向に顔を向けて女の子座りになる。虚ろな、いや、正直目とかじゃ全然正直感情とか読めないけどまあ多分心情が虚ろなんだろうな、という感じの<彼氏>と目を合わせて、<彼氏>の目をしっかり見て、言う。

「えー、私の一番の彼氏は、彼氏だよ」

余談だが、彼氏の方向は全方向だ。

<彼氏>がこうなるたびに、私はこのズルい返答をする。なにせ、<彼氏>は文学を嗜んでいるのだ、それ以上聞くのは野暮という顔をして勝手に勘違いしてくれるからお手のものだ。今日も月が奇麗ですね。

「……それは、この<彼氏>じゃねえんだろ、どうせ……」

まあでも、そうだろうな、流石にここまで来てそれで誤魔化せるとはあまり私も思っていなかった、確かに、私は<彼氏>よりも彼氏の方が大切で、それを隠している。……好かれたい相手から自分を指す言葉で別の他者も形容されていて、かつ薄々そちら側に上回られていることにさえ気づいている。それは気分の良いものではないのだろうと思う。

「なあ、お前の彼氏彼氏っての、結局俺にかまって欲しいだけなんじゃないのか?それって単なる、ミュンヒハウゼン症候群みたいなもんの一環じゃないのか?」

……恐らく彼氏は、ミュンヒハウゼン症候群を単なる”かまって欲しい人”みたいな、一般に間違えた意味合いで使っている。まあそれを責めるつもりはない。私の彼氏どうこうの方がよっぽど一般的な用法ではないわけだし。さらにもっと責める気はない理由として、<彼氏>は普段こういう邪推をちゃんと避けてくれる。今は明らかに冷静でないようだし、仕方ない。

「……」

ちなみに彼氏を存在しないものとして扱われた怒りなど湧いてくるわけがない。他者にどんな風に扱われようとも私の彼氏は彼氏だ。それだけでいい。<彼氏>とのセックスの最中にも、私の背中にべったり彼氏は張り付いている。<彼氏>が背中を乱暴に掴んできたとして、それは彼氏とは無関係だ。

「俺は……お前に構って欲しいだけだよ」

「……」

「俺は……!」

それを皮切りにして、<彼氏>は私に対する思いの丈をつらつらと綴り始める。私はそれを聞き続けた。ひたすら黙って。どれほどの時間が経ったのかは分からない。が、かなり長い時間だったように思える。内容は稚拙そのものだった。だがこの際内容はどうでもよかったのかもしれない。私はそんな、構成できる内容だとか、そんなものよりももっと絶望的に彼氏と<彼氏>の間に横たわる迂遠な溝を感じていた。<彼氏>はやはり人間なのだ。

彼氏のように論理的ギャップを超える力は無い。彼氏と違って、<彼氏>に無欲を欲望する能力は無い。

仕方ない。仕方ないのだ。

仕方ないが、潮時だ。




「彼氏の中でも、一番好きなところはね」

日頃軽いかどうかとは無関係に、重い口を開く。

その瞬間早口でまくし立てていた<彼氏>の表情が一瞬で変わり、その表情が”怒りや悲しみの混濁したものから一気に、”絶望”一色に変わるのが見て取れた。しかし、仕方ない。仕方ないものは仕方ないのだ。

「おい…………」

彼氏が此方に寄ってくる音。足音、足跡、

それは一つの関係性が終わる後なのだろうか。

「ううん、もう駄目なの。ここで言っても言わなくても、私が言おうとしたという事実は変わらないよ」

<彼氏>は命からがら帰還した歴戦兵のような足取りで、ひたすらにゆっくりと、ベットに上がってきた。泣きそうな顔をしている<彼氏>と見つめあう。様々な感情が混濁する。否、シンプルに辛い、と言った方が正確なのかも知れない。そりゃあ、人並みには悲しい。でも、

でも仕方ない。仕方ないものは仕方ないものは仕方ないものは、仕方ない。

「ごめんね」

暫くして私のことを抱き寄せた、<彼氏>の耳元で

私はこう囁いた。


I'm not interested in people trying to get me.









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