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自分を知るために『哲学』をしてみる

「哲学は自分を知るためのものである」

今回は、そんなテーマで哲学を考えてみたい。僕の中でかけがえのない土台となっている考え方で、できるだけ分かりやすく伝えられるようにまとめてみたので、時間が許す方は文章を順々に追ってみてほしい。

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哲学には、大きく2つの姿勢がある。「世界をどのように認識するか」についての姿勢。こう言うと、どこか難しいように感じるかもしれないが、そんなに難しいことではない。

その2つの姿勢は、「世界は元々秩序立っている(客観的な)ものであり、それを正しく認識しよう」という姿勢と、「世界は人間の主観が作り出すものであり、その主観のあり方を考えていこう」という姿勢である。いわゆる「客観的⇔主観的」の二項対立になっている。

古代哲学では、「世界は何から出来ているか」という議論が盛んに行れていたという。紀元前600年頃、タレスは「万物の原理は水である」と説いた。アナクシメネスは、「万物の原理は空気である」と説いている。この世界の原理は何であるかを説明すること、これが哲学するということであった。そしてここがポイントであるが、これらの主張は「世界は元々確固たるもの(元々秩序立っているもの、客観的なもの)であり、その原因を人間の知性を用いて正確に認識したい」という「客観側」の大前提が現れている。

ソクラテス

一方、その姿勢の大転換を行ったのが、ソクラテスである。ソクラテス以前の時代は前述のとおり、世界の生成原因として、水や火、空気など、様々な原因が論理的に論じられてきた。しかしながらソクラテスは考えた。それらのうちの特定の物が「万物の秩序づけ」の原因であると言えないのではないか。言えるのは、むしろヌース(=知性、精神)が万物を秩序付けているということだけではないか。ソクラテスは、この世界の秩序の原因を、人間の「ヌース(知性、精神、心)」に求めたのだ。「主観側」に求めた。これは「世界をどう認識するか」という姿勢に対する大転換だった。まさに「ソクラテス的転回」である。

そして、ソクラテスは「哲学がやるべきこと」を明確にした。「世界の客観的原理を追求するというよりも、それを秩序立てている心(主観)について、その原理を追求することだ」と。

そしてそこから紆余曲折あって、20世紀初頭にフッサールが『現象学』という哲学を打ち立てる。それは明らかに「ソクラテス的転回」を受け継いでいる。今回は、このフッサールの考え方をメインに議論していきたい。

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エトムント・フッサール(1859-1938)

従来の哲学は、世界を客観的なものとしてそれをどう認識するか、という姿勢であった。しかし、フッサールは、ソクラテスと同様、この姿勢の真逆をとる。「主観性」から出発するのである。哲学のやるべきことは、世界の「真理」を認識するための論理的推論や探求ではなく、「人間(主観)にとって、世界はどういう意味や価値として現れてくるか」を探求することである。確固たる「真理」が存在するのだ、という従来の姿勢を否定したのだ。

確かにうなずける部分もある。水が半分入ったコップを見て「多い」と捉えるか「少ない」と捉えるかについて、真理などない。まさに感じ方、世界の現れ方は人それぞれなのである。

コップ半分の水をどう捉えるか

フッサールの偉大なところは、ここから議論を一歩先に進めたことにある。

フッサールは言う。「真理」があると考えるのは不可能である。そして、この「真理」というものはあくまで、「妥当な一致点」を探す日々の営みによって出現するものだ、と。

ちょっと込み入ってきたかもしれないが、一つひとつ考えていこう。

この「一致点」というのは何との一致点だろうか。それは「社会」との一致点である。身の回りの人間関係の中での妥当な一致点。社会との接続の中で探していく妥当な一致点。

一致点

例えば、「人を傷つける」という行為は社会の中で決して許容されない。法律で罰せられたり、評判が悪くなったりと、いわゆる社会的制裁を食らうであろう。一方で、「人を助ける」という行為は社会の中で称賛される。社会からのこうしたフィードバックのよって、これは「妥当な一致点(=真理)である」と理解することができる。

これは普遍的な例であるが、もっと個人的な事柄にも、社会との妥当の一致性を模索する例が見られる。

自分が「美しい」と思う信念を社会(他者)に発露させる。そして、社会(他者)がどう感じるかの何かしらのフィードバックを得る。それを踏まえて自分がどう感じるかを考え修正していく(または確固たるものにしていく)。こういった営為を、意識的にしろ無意識的にしろ、多くの人が行っていると思う。

少し抽象的になってしまったから、もう少し具体的に考えてみる。

「僕と関わる人全員が幸せになるような、そんな人間になりたい」という自分の貫きたい信念を社会に表明する。「そんなの理想論すぎる」「トレードオフが必ず存在するという現実と向き合えよ」という負のフィードバックがある一方で、「素敵だ」「そのまま行ってくれ!」という正のフィードバックもある。それらを踏まえて僕は「確かにトレードオフは存在することは明らかなことだ(経済学を学んでいると、なお分かる)。現実的に必ず存在するだろう。一方で、その空想にも似た理想を応援してくれる人も居るし、そこである種の「エネルギー」が生まれる可能性があることも分かった。」と考え、思考実験を始めるだろう。

例えばこんなケースを考えてみよう。自分の信念に基づくあるサービスを世に広めたいとする。それには競合他社が居て、自分のサービスを広めるためにはその競合のシェアを取らないといけない。その帰結として競合は極論失職してしまう。それは不幸にするということではないだろうか。では理想論であり実現は不可能なのか?いや、また別の方法が生み出せるかもしれない。

例えばこんなのはどうだろう。政府に税金を収めセーフティーネットの拡充に当ててもらうこと、NPOを支援すること、自社で雇い入れたり、寄付活動等をすることで周り回って『不幸にしてしまったかもしれない人』に還元できるかもしれない。

こんな感じだ。

思考が浅すぎるかもしれない。が、こうして考えていくことで、新たな見方が浮かび上がってくる可能性があることは確かなように思われる!ある種の弁証法的な思考回路(アウフヘーベン)でもある。

ここで注目したいのが、この「可能性」は、自分の信念を社会に向けて「表明」したことによって初めて見えてきたものだ、ということだ。まさに、社会との妥当な一致点を模索する行動によって、見えてきたものだ。

そしてこれは、自分を取り巻く社会や他者との関係を、常に豊かなものに作り替えていける可能性を示している。何度でも言いたいが、人間は決して一人では生きて行けない。必ず社会の中で、人間関係の中で生きてゆかなければいけない。だが、その関係は決して固定的なものでも苦しいものでもない。妥当な一致点を探す営みによって、自分なりの「真理」を作り上げていくことができる!

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また少し飛躍するが、他者と関わることがまさに「自分を深く知る唯一の方法」なのだ。

これは、どういうことだろうか。少し見ていきたい。

「世界」は確固たるものではないらしい。なぜなら主観によって映る世界や価値観は様々であるから。そしてその「世界」というのは、常に自分と他者との関係のあり方によって、作り替えていけるものでもある。先程上げた例(自分の理想に対する他者からのフィードバック)を思い出してほしい。この例はつまり、自分と他者との関係によって初めて自分の「世界(=真理)」が現れる、ということを表している。ということは、他者とのつながりの中でこそ、自分の「世界」を認識する機会を得られる、ということにならないだろうか!?

もしかしたらこう思うかもしれない。

「他者には決して左右されない、『自分』という確固たるものがあり、いつもそれを”一人で”内省して自分を知る努力をしている。自分の『世界』が主観の問題であるなら、わざわざ毎度”社会に表明する””社会と接続する”というストレスフルなことはせず、自分自身で、この主観を見つめてさえいればいいのではないか。ここに自分のアイデンティティがあるという確かな実感があるし、それは他人には全く関係ないと思う!」

でも考えてほしい。私たちが内省しているものは基本的に、「他者」に対峙して生まれる自分の感情や価値観ではないだろうか。「この花はとてもきれいだな。私はこういうのを美しいと思うんだな」。この「花」は他者である(対象と言ってもわかりやすいかもしれない)。「あの人から言われた言葉に傷ついた。なんで私はこの言葉に傷つくのだろうか」。この「人」や「言葉」は他者である。

そう。自分の湧きあがる感情や価値観は、全てにおいて他者を介在させて浮かび上がってきたものだと言えないだろうか!それによって「自分」の輪郭が現れてくる。

「社会(=他者や人間関係)の中で妥当な一致点を探すこと」は「自分を取り巻く関係をより豊かに作り変えていく営為」であることは前述した。そして社会との妥当の一致性を模索することは、「自分を深く知っていくこと」の唯一の方法である。なぜなら、社会と接続することによって初めて自分自身を知るきっかけとなる感情や価値観が浮かび上がってくるからである。

フッサールの現象学によれば、哲学とは「人間(主観)にとって、世界はどういう意味や価値として現れてくるか」を探求する営為である。人間が見る「世界」は「人間関係の中で私達が日々見出す、妥当な一致点」として現れる。他者とのインタラクションによって、浮かび上がってくる、私達の主観が作り出したもの。

「社会との妥当な一致点」という字面だけ見ると、一見「世間の常識との一致」ではないかと思うかもしれない。でもそれは違うことは、前述の信念を貫徹する際の弁証法的な思考回路の例を見ていただきたい。世間の常識に迎合することでは決してない!

「社会との妥当な一致点」としての「世界」とは、社会(=他者)からのフィードバックを元に、自分が日々作り換える、もっともっと豊かな「世界」である。自分だけの「真理」である。

自分の信念や価値観、アウトプットは他者に晒してこそ価値を生む。

そしてその尊い営為を通じて、僕たちは己を知り、豊かな「世界」を作っていく。

(※参考文献/『自分を知るための哲学入門』竹田青嗣)

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「自分の言葉できちんと表現する」
僕はこれから、今まで出会ったモノや読んだ本、考えてきたテーマ、自分の専門分野など様々なものごとを、自分の言葉で表現する習慣を作ろうと思う。真剣に向き合い、自分の言葉で表現し、そして自分自身を見つめていく。そういったことをコツコツと積み重ねていきたいと思う。それを通じて、自分自身の「イズム」的なものを確立することができれば嬉しいなと思う。そして、このアウトプットを通じて、多くの人とインタラクションを交わせたら幸せだなとも思う。

こういった目的で書いています。わざわざ貴重なお時間を割いて読んでいただき心から大感謝です。
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