自死した弟のこと【4】大学時代②
学祭実行委員会の長となった弟の大学生活はますます順調のようだった。家でも不安定になったり、母へ暴力をふるったりすることは無くなった。引きこもっていた妹も少しづつ外出するようになり、我が家は明るい方向へ進んでいた。
弟が大学生だった頃、私、妹、弟の3人きょうだいで大阪王将へ行ったことがある。
「今年を一文字で表すと?」
という私の問いに対し、弟は
「俺は…『友』という字だな」
と答えた。「友」ができ、充実した学生生活を送っている弟の口調は、それはそれは穏やかだった。
あまり美味しくない唐揚げをつつきながら私は、ただ笑みを浮かべてはこのパサパサした揚げ物でかき消した。
この時弟が「友」と答えた理由が分かるのはまだ先のことだ。
大学3年生も半分を過ぎた頃だったか、本格的に就職活動が始まった。合同説明会へ参加するため地方から東京ビックサイトへ行ったり、慌ただしくSPI問題集を解き始めたり周りは準備に追われている。地元を離れたいらしい弟は月に何度も東京へ足を運んでいた。就職活動に専念するためにとアルバイトも辞めたようだ。しかし、交通費がかさむ。地元から東京へ出るためには、少なくとも1回5,000円程度必要で、その他諸々のお金が必要だったため、手持ちのお金があっという間に底をついてしまったようだ。元来弟は「お金をためる」という行為が得意ではない。何かを始めると必ずその分野の最先端品を買わなくては気の済まない弟は、アルバイト代、奨学金をほとんど自分の趣味や交際費に使っていたようだ。
こうして、金銭的な事情により弟は東京での就職活動を諦め、地元企業にシフトしていった。地元企業を受けるにあたり最も難しい面接官からの質問は、
「どうして〇〇高校を辞めたのか」
だった。当然である。私だって知りたい。県内有数の進学校を退学したのは何故か、と。
面接官の質問に弟がどう答えたのかは分からないが、内定を出すという知らせは一向に届かない。心配する家族をよそに弟は何も告げず、台湾旅行へ行ってしまった。何日か帰宅しない日が続いていたが、帰ってきたと思ったら台湾名物パイナップルケーキが入った紙袋をだらんと下げていた。
(いつパスポートを取ったんだ)
(なんで何も言わないんだ)
(就職は決まったのか)
母はそんな言葉を飲み込んで憤っていた。下手に刺激してまた暴力を振るわれたら嫌だという母の思いが私にも妹にも伝わってきた。
こういう家庭内暴力(DV)の場合、夫婦だったら「離婚」という手段があるが、実子だったらどうすればいいのだろう…。
就職が決まらないまま卒業を迎えると家族、本人でさえも思っていたところにある企業から電話がかかってきた。
それは「内定」を伝えるものだった。
卒業式前日の出来事である。
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