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「あ」

 母からの教えで特に印象に残っているものが三つある。一つ、お世話になった相手に対しては当日、後日ともに必ずお礼を述べること。二つ、仕事で誰かが話している時には、「あいうえお」でも構わないから、メモを取ること。そして三つ、誰であろうとお金は貸さないこと。貸すのであれば、あげたと思うこと。
 一つ目と二つ目の教えは社会に出るとその効果を発揮し、仕事上で生じる面倒な人間関係のいざこざを和らげてくれることもあったように思う。三つ目は、母譲りの固い金銭感覚のおかげで、人とお金を貸し借りすることなく生きてこられた。それに、私の周りに平気でお金を借りようとするだらしのない人がおらず、幸運だった。

 私は本を読むことが好きである。生きている上でままならないものにぶち当たる時、本をめくる。
 本ならば何でも良いわけでなく、スピリチュアル本、ヘイトを煽る本をメインで出している出版社のものは読まないように気をつけている。私は弱い人間なので、すぐにスピリチュアルに救いを求めて傾倒してしまいそうだし、自分の弱さから逃げるために他者を攻撃するような人間になってしまいそうだ。そんな麻薬に蝕まれたくはない。
 苦しい時には、いつも須賀敦子や向田邦子、中島敦をめくる。特に、向田邦子のシナリオ集『あ・うん』が好きで、笑いながら、泣きながら読んでいる。

 通信制の大学で特別支援学校教諭免許を取る際にもとにかく本を読んだ。レポート課題を書くため、教育実習に行くため、何よりこれから関わる子どもを理解しようと指定図書以外にも図書館にある障害関連の本を読み、日々遠ざかってゆく「学問」を手元に寄せなくてはならない。そうでなければ、30歳手前の私を教育実習生として受け入れてくれる学校とそこに通う子どもに申し訳ないと心から思っていた。家の近くに教育学部のある国立大学があるからか、地域の図書館に教育関連の書籍が充実していたことは誠に幸運であった。

 息子に知的障害があることが判明した後も私はやはり本を読んだ。でも、注意を払わないといけないのは、「知的障害は治る」、「〇〇を食べれば/〇〇をすれば、改善する/治る」と謳う本だ。こういうのは、人の不安をお金に換える霊感商法に似ているとさえ思う。

 障害児者の親の会で時々、お薦めの本はあるかと問われることがある。その場合、いくつかの本を紹介すると、「貸して欲しい」と言ってくる人がいる。快く貸したはいいものの、もう1年以上前に貸した数冊の本がまだ返ってこない。
 返してもらいたいという催促はメールやLINEといった文だけでは角が立つので、直接会った際、努めて明るい口調で本を返して欲しいと申し出てみた。
 すると、その方は
「あ」
 と言うだけで、去ってしまわれた。

「あ」
 この場合、何を意味するのだろうか。
「あ、そういえばまだ読んでいない。の『あ』」
「あ!忘れてた。の『あ』」
「あ……。まだ読んでいる最中なのになぁ。の『あ』」
 この一文字で随分と色々なことが想像できる。

 もしかして、あの「あ」が
「あ。失くしちゃった」
 だったらどうしよう。あの本はあげたと思って、絶版になる前に再び購入すべきだろうか。

 母の教えは、「お金を貸すのであれば、あげたと思うこと」だったが、これはお金だけでなく、本にも同じことが言えると教えておいて欲しかった。自分にとって大事な本は、お金を同じなのだから。

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