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政治が好きだったS先生の話。

高校生の時にお世話になったS先生の話をする。
ふと思い出してここで記録に残しておかないと忘れていくに違いないからだ。

同級生でS先生を覚えている人間は相当少ないだろう。先生は3年生の英語を担任していて、かつ、僕たちが1年生のときにしか在籍していなかった。
僕がS先生を覚えているのは明確な理由があって、彼は僕の才能を認めてくれた唯一といってよい大人だったからだ。

S先生にお世話になったのは、高校1年生の時の総合的な学習の時間だった。ゆとり教育まっただなかの僕は高校生のとき、週に一回、興味ある学問分野を選択し調べ学習と発表を行うことになっていた。
当時、政治記者を目指していたこともあり、「政治・経済」の分野を選択したのだが、その担当がS先生だった。
最初の授業で、見た目The 中年のS先生が「僕は3年生の英語を担当していて~」と自己紹介したときは「英語の先生が政治の授業担当するって大丈夫か?」と不安を抱いたが、それは杞憂だった。
S先生はなぜか近隣の大学の教授や講師とコネクションがあり、彼らは授業のたびに高校生向けのレクチャーをしてくれ、そしてそれは普段の授業とは違って刺激的だった。「なんで自民党が下野し民主党が勝ったのか」など、実際の社会の出来事に沿った学びを得ることは、教科書に基づいた授業よりも興味深く感じられた。
講師のスケジュールがうまく合わなかったときは、S先生自身が政治の授業をしてくれた。S先生は「本当は政経の教師になりたかったんじゃないか」と思わせるほど熱意ある授業をしてくれていた。


印象に残っている授業がある。「囚人のジレンマ」との概念を説明した授業だ。
囚人のジレンマは、(素人の僕が説明をさせていただくが)政治や交渉の際に、利害関係が生じる相手がいる中で、自分と相手の双方の利益になる行動を取ることの困難さを示した理論だ。
具体例を、当時の授業でS先生が僕たち生徒にさせたゲームの内容とその結果を用いて説明する。

S先生は僕らに以下のルールを提示した。
・3,4人で一組のチームを作って、ほかのチームとじゃんけんをしてください。
 じゃんけんの勝ち負けで得点を競ってもらいます。
・じゃんけんで勝ったら得点は+5点。負けたら-10点。あいこなら+1点です。
・自チームが出す手を事前に相手に伝えても伝えなくてもOKです。もちろん事前に伝えた手と別の手を出すのもOKです。

このルールの元、ゲーム開始となったが、どのチームもマイナスが増えていくばかりだった。期待値がマイナスであることからも、当然、闇雲に騙しあいをして相手を出し抜こうとするのでは得点は減っていく。周りのチームを尻目に、僕は「このゲームに求められているのは勝つことではないのではないか」とある答えに至った。僕は高揚感を胸に、相手チームに提案をした。
「お互いあいこをだし続けませんか?」
このゲームの目的は相手に勝つことじゃなく得点を積み重ねることで、そのためには相手と協力してあいこをだし続けることが一番の方法なのだ。
相手チームも納得してくれ、途中から僕たちはあいこで互いの得点を重ねることに終始した。
教室を練り歩いていたS先生は、僕らのやり方に気づき「おお分かったようだねえ」と声をかけてくれた。
「これは一位だな」と確信をしていたが、結局うまくはいかず、ゲームの終盤で相手チームが裏切ってしまった。事前にこちらのチームが伝えた手に勝つ手を出してきたのだ。それをきっかけに騙しあいが始まり、最初に裏切られた僕たちは、負けた分を取り返せず、2位に甘んじた。それでも、教室の全チームで得点がプラスだったのは、僕らと相手チームの2つのみであり、それはそれで達成感を抱かせる経験だった。

ゲーム終了後、S先生が「プラスの得点を取った組み合わせがあるね、どんな方法を使ったのかな?」と呼びかけた。
僕がゲームの本質を伝えると先生は満足げにうなづき、解説をしてくれた。
「このゲームは外交の難しさを伝えている。あいこを積み重ねれば自国も相手国も利益を積み重ねられるのに、どの国も相手を打ち負かそうとしてしまう。それが歴史的事実だ。このゲームでも多くのチームが騙しあい、また、唯一ゲームの本質に気づいたチームも最後は争ってしまった。つまるところ国というのは、国民の血を流してでも周りより利益を得たいと考えてしまい、戦争に突き進んでしまうのだ」

当時の3年生の先輩によるとS先生は英語の教え方が下手だったらしい。しかしそんなことは気にならなかった。僕にとってのS先生は大学の先生方と強いコネクションを持っており、簡単なゲームで専門的な理論を教えてくれるすごい先生だった。ほかの大人とは違う。憧れだったのだ。

秋になると、総合的な学習のカリキュラムも後半に差し掛かり、11月最初の授業でS先生は生徒へ、自らのテーマを定めるよう伝えた。11月の後半から3月にかけて順番に発表を行うのだという。
僕の発表は2月下旬で、そこでS先生に認められたい、先生を感服させる発表をしたいと強く感じた。
11月最初の授業が終わった後、S先生が僕に「君は何をテーマに発表するの?」と聞いてきた。「将来ジャーナリストになりたいので、政治報道をテーマにしようと思います」と伝えると先生は「君はいいジャーナリストになると思うよ。頑張ってね」と話してくれた。その言葉は僕にとってとても大切に思えた。県内有数の進学校で、周りの生徒の優秀さに挫折を覚えていた当時の僕にとって、S先生のかけてくれた期待の言葉は非常に心に染み入るものであった。

それからは定期的に図書室に通いつめ、また冬休みも市の図書館で資料作成に当たった。年が明けるころには自分で納得のいく内容ができていた。

冬休み明け、先生に発表資料を見てもらいたい一心で英語研究室を訪ね、「S先生いらっしゃいますか?」とそこらの先生に尋ねた。すると先生方は驚いた表情をし、そのうちの一人が「何か用なの?」と聞いてきた。「おかしなことを言ったかな?」と思いながら理由を説明すると、それならS先生の机の上に置くように、と伝えられた。病気で休暇中なのだという。直接フィードバックをもらえないもどかしさを抱えながら僕は研究室を後にした。

冬休みが明けてしばらくたってもS先生は休暇で不在だった。代わりに講師のT先生がピンチヒッターで僕たちの調べ学習を見守ってくれ、発表を聞いてくれたのだが、彼のフィードバックは正直薄く感じられた。T先生は物理の若い先生なのだから代わりが務まらないのは仕方のないことなのだけれど。

僕はS先生が不在の中でも「自分の発表のころには復帰してくださるだろう」と楽観視していた。復帰後に褒めていただくために、プレゼンの原稿を作成し、練習を繰り返した。

先生の訃報を知ったのは2月になる直前だった。朝のHRで周知がされ初めて知ったのだが、S先生は前から重いがんだったらしい。2か月前まで教壇で政治の話を楽しそうにしていたので「人はこんなにもすぐに亡くなるのか」と戸惑い、信じられなかった。

後日、僕はS先生のお通夜に出席することになった。
たまたま名前を貸して在籍していたJRC部(日本赤十字社部)の顧問をS先生が務められていたのだ。僕はJRC部の活動はあまり行っていなかったが、総合的な学習の時間でお世話になったのだから、といつもは発言をしない部のメーリングでいち早く通夜に出席する旨を連絡した。
通夜の会場に向かう東武線の電車で、部員はあまりS先生の話をしなかった。実のところ、部に顔を出すことは滅多になく、JRC部の生徒との交流もあまり無かったらしい。「S先生はボランティアとか興味なかったのかな」と思うと同時に、あまりS先生のことを知らないことに気づかされた。総合的な学習の時間では政治や経済の話をすることに終始していて、自分のことを話さなかった。家が東武線で向かう方向にあることやJRC部の顧問でありながらあまり部に顔を出していないことなど、通夜当日の行きの電車で初めて知ったのだ。なぜ自分の話をあまりしたがらなかったのか。電車に揺られながら、思いを巡らせたが答えは浮かばなかった。

通夜の会場では粛々と先輩方に着いていき、見よう見まねで焼香を上げた。結局S先生に発表を見てもらうことはなく、また先生がどんな人かも知らないうちにそれぞれの機会は失われてしまった。
通夜の会場では、普段寡黙な数学の先生が人目もはばからずに涙を流している姿が目に入った。もしかしたら彼とは教える教科は違えど、深い交流があったのかもしれない。S先生には色んな側面があったが、僕がそれを知るには、あまりにも時間は限られていた。

2月下旬、僕は自分の発表の順番を迎え、精一杯に政治報道の問題点について述べた。
「政治におけるメディアは「第4の権力」と呼ばれるほど強い影響力を有しているが、中立的な報道というのはまず有り得なくて、どのメディアも事実を恣意的に伝えている。アンケート調査がその最たる例である。メディアの恣意的報道に対抗するには異なる論調を比べて読んで、メディアリテラシーを身に着ける必要がある。」
覚えたての用語を駆使して、そんなことを発表した。

発表後、T先生は「報道に関する君の興味関心の高さを感じました。ぜひメディアリテラシーを高めていってください」とコメントを返してくれた。
僕はそれを聞きながら、S先生ならどう評価しただろうと思いを巡らせたが、すぐに考えても仕方がないことなのだと思いなおし、T先生へお礼を述べた。
こうして一年間の総合的学習の時間が終わった。

ここからはその後の話になる。あれから10年ほどが経った。
結局僕は就活でマスコミに挑戦したが全滅し、途中で志望を変えて今は別の業界で働いている。未経験である今からマスコミへの中途入社は難しく、おそらくS先生の「君はよいジャーナリストになると思うよ」との予想は外れるだろう。そもそも僕はジャーナリストにすらなっていない。S先生は生徒の将来を予想できない。数年たって分かった事実であり、S先生について知る最後の事実だろう。
先生の言うように僕は良いジャーナリストにはなれなかった。しかしだからといってすべてが無駄ということはないだろう。僕の将来の夢へ、後にも先にも、唯一肯定的な言葉を先生は投げかけてくれた。その言葉を頼りに、挑戦するところまではたどり着いたのだ。ある一人の教師の何気ない言葉が、目立たない一人の生徒に自信を与え行動を促した。その事実だけでも、僕は今後の人生に希望を感じるのだ。人が人に対して何気なくかけた言葉が、その後を支えることもあるのだと。