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“稲作文化を守る”と決めた、お米農家が見据える目標

栃木県の最北に位置する那須町は、酪農だけでなく米作りも盛んな地域。ここ那須町には、稲作に取り組みながら、農産物を使った加工品を販売する「6次産業」の分野で目覚ましい実績を残しているご夫婦がいます。お米専門ブランド 「稲作本店」を運営する、井上敬二朗さん・真梨子さんです。「稲作本店」を立ち上げてから現在にいたるまでのストーリー、稲作への思いなどをお話いただきました。

井上敬二朗いのうえけいじろうさん|1979年生まれ 兵庫県三田市出身
井上真梨子いのうえまりこさん|1981年生まれ 栃木県那須町出身
職場で出会い、2009年に結婚。その後、敬二朗さんの仕事の都合で岡山県に移住し、県内でカフェ経営などを行う。2018年に家族全員で栃木県那須町に引っ越し、真梨子さんの父の後を継ぐかたちで就農。現在、東京ドーム4つ半ほどの面積にあたる約22haの田んぼで「コシヒカリ」を無農薬・減農薬栽培している。「稲作本店」というブランド名のもと、農業法人「FARM1739イナサク」と製造・販売会社「TINTSティンツ」を運営。

ハードワークに疲弊した就農1年目

2018年に真梨子さんの実家がある那須町に移住し、就農した井上さん夫妻。当時、お二人には農業経営に関する知識がほぼなく、従来のやり方を踏襲するほかに選択肢はありませんでした。しかし、それゆえに就農した当初は、多大な苦労があったそう。敬二朗さんは、こう回想します。「お義父さんは米作りのほかにアスパラも栽培していたため、僕らも就農後、お米とアスパラの両方を手がけることになりました。しかし、これが想像以上に大変で。お米とアスパラは、手がかかる時期がほぼ同じで、慣れていないこともあり、繁忙期は毎日朝4時から夜11時まで作業をしていました」

懸命に働いたにも関わらず、お二人の働きが報われることはありませんでした。真梨子さんが次のように続けます。「農家の間では、アスパラは“儲かる野菜”とされていますが、自分たちのところでは様子がまったく違いました。パートさんへの支払いをはじめとする経費がかなりかかって、収支計算をしたところ、帳尻が合っていないことが分かって。多大な時間と経費をかけて栽培しているのに、収益はとても少ないと知り、愕然としました」

無理がたたって体を壊せば、農業ができなくなる可能性も。約22haの田んぼでさえ維持することが難しくなると考え井上さん夫妻は、アスパラ栽培をやめて、お米のみを手がけようと決意します。また、これと同時に、作ったお米を地域の組合をとおして共同出荷するだけでなく、自社で販売することに。これに加えて、お米を使った加工品を開発・販売することにしたのです。

その決意の背景には、お米農家を取り巻く厳しい現状と、お二人の確固とした思いがありました。「年々、米価が下がっているので、協同組合に米を納めている限り、収益の増加は見込めません。それに、協同組合をとおしてお米を販売しているだけでは、消費者とコミュニケーションをとる機会には恵まれないもの。こうした現状があるからこそ、お米や稲作の魅力が目減りしているのだとも思いますが……。また、私たちは、消費者のニーズを反映した商品を展開し、ファンを増やしていきたいとも考えています。ニーズのある商品を展開することは、事業者として必要なことだと考えていますし、消費者に向けた積極的な取り組みをしなくては、農業はどんどん廃れてしまうと思います」(真梨子さん)

多くの人に稲作の魅力を知ってもらうために

井上さん夫妻は、岡山県から那須町に移住する直前、それまで経営していたカフェを売却したそう。その売却金を資金として、お二人は2018年に「稲作本店」を立ち上げました。ちなみに「稲作本店」はブランド名で、真梨子さんが代表を務める農業法人「FARM1739」と、敬二朗さんが率いる製造・販売会社「TINTS」の総称でもあります。なお、「FARM1739」で生産した米は「TINTS」が買い取り、その後、「TINTS」がお米や加工品を販売するというのが、「稲作本店」における営業形態です。

「稲作本店」を立ち上げた後、井上さん夫妻は、栽培したお米を一般消費者などに直販するとともに、ポン菓子「イナポン」をはじめとするオリジナル商品も開発・販売。やがて、良質でおいしいお米とオリジナル商品は、各所で高く評価されるようになります。また、こうした目覚ましい取り組みが評価され、2020年6月、お二人は下野新聞社主催「とちぎ次世代の力大賞」を受賞します。

ポン菓子「イナポン」

お二人の快進撃は、まだまだ続きます。2020年9月には、受賞やSNSでの地道な発信が実を結び、クラウドファンディングで目標金額の3倍以上もの支援金を獲得。その後、支援金を使って「稲作本店」の実店舗「田んぼストア」やキッチンカーを製作したほか、米粉を原料とする「田んぼのカヌレ」など新商品を開発しました。

田んぼストア外観
左端に写る車がキッチンカー

「開かれた田んぼ」というキャッチフレーズのもと、消費者とのつながりを築いていった井上さん夫妻。こうした姿が注目を集め、やがてさまざまなメディアで井上さん夫妻やオリジナル商品が紹介されるように。これに伴い、商品の売り上げも右肩上がりに伸びていっているそうです。

田んぼのカヌレ

農業法人であれば誰もがうらやむような活躍ぶりを見せているものの、井上さん夫妻は、世間からの評価に躍らされることなく、真摯に稲作の未来を見つめています。「お米農家が置かれている状況は厳しく、このままのペースで需要が減り続けると『50年後には、国内ではお米が存在しなくなるのでは』ともいわれています。また、一般消費者の間で、お米の生産現場のことが全く知られていないという現状もあります。こうした状況に対して危機感を覚えたことが、僕らがクラウドファンディングに挑戦した理由です。『田んぼストア』やキッチンカーの利用をきっかけに、多くの人に田んぼに来てもらいたいですし、『イナポン』や『田んぼのカヌレ』を手に取った方々に、稲作を取り巻く現状に少しでも興味をもってもらいたい。言うなれば実店舗やオリジナル商品は、皆さんに稲作の現状を伝え、稲作の未来について考えてもらうためのツールなのです」(敬二朗さん)

生産者と消費者がつながるイベント

現状、生産者と消費者の“距離”は遠く、一般消費者が稲作やお米について知る機会はほとんどありません。「だからこそ多くの消費者は、スーパーマーケットでお米を選ぶ際、価格やパッケージを頼りにしてしまいます。目の前に陳列されているお米が環境や体にどのような影響を与えるものなのか、考える機会すら与えられていないといえます」と、真梨子さんは話します。また、「生産者と消費者の“距離”が遠いことは、消費者がお米から離れ、国内で稲作が衰退していく原因の一つ」とも。

「田んぼが生み出すものはお米だけじゃない」、風景や生き物、水やその土地の風土・食文化と密接に繋がっています。だからこそ、「開かれた田んぼ」を作り、生産者と消費者の“距離”を縮めたい。それが、井上さん夫妻が掲げてきた目標です。これをさらに実現に近づけようと、近年、お二人が新たに始めたのが「Tan Cafe」と「田んぼでCAMP」。「Tan Cafe」は、田んぼの真ん中に停めたキッチンカーを拠点に展開されるカフェで、訪れた人々は、田んぼの美しい景観を楽しみながらのんびりと過ごすことができます。「『Tan Cafe』は、田植えが終わる初夏にオープンしています。田んぼの真ん中のカフェなので、小さな子がいる家族も気兼ねなく楽しめます。田んぼや水路に入り、びしょ濡れになって遊ぶ子もいますよ(笑)」と、敬二朗さん。いっぽうの「田んぼでCAMP」は、その名のとおり、田んぼで楽しむキャンプ。1グループが田んぼ一枚をキャンプサイトとして利用できるため、広大な田んぼでのびのびと炊事やレクリエーションが楽しめるのだとか。

Tan Cafeの様子

「Tan Cafe」と「田んぼでCAMP」は、消費者が田んぼに訪問できるイベント。「稲作本店」のお米や加工品のファンがイベントに参加するケースも多く、多様な生き物が生息する田んぼを見て「こんなにも豊かな田んぼでお米をつくっているんですね」「生きている間はずっと『稲作本店』のお米を買い続けます」と話す人もいるそう。また、初めてイベントに参加した人からは「農業に興味が湧きました」との感想が寄せられることも。

田んぼでCAMPの様子

なお、「Tan Cafe」と「田んぼでCAMP」は、井上さん夫妻と参加者、つまり生産者と消費者がコミュニケーションをとる絶好の機会。イベントを経験した今、敬二朗さんは、“両者のコミュニケーションこそ、農業の未来を明るくする”と考えているようです。「コミュニケーションをきっかけに、生産者と消費者の間で人間同士の関係性が築かれます。両者の“距離”が縮まることで、農業はより魅力的な仕事になりますし、農業に対して魅力を感じてくれる消費者も増えるはず。私たちの活動は、全体からしたら小さな動きかもしれませんが、将来的に稲作の衰退も食い止められたらと考えています。」

井上さん夫妻の「稲作の衰退を食い止めたい」「稲作の魅力を伝えたい」という思いは、まだまだ尽きません。敬二朗さんは、将来の展望を力強く語ります。「今後、さらにオリジナル商品のラインナップを増やすとともに、東京だけでなく世界の都市にも『稲作本店』の実店舗を設けたいと考えています。稲作文化の素晴らしさを世界の人々にも伝え、たくさんの人にお米を食べてもらいたいですね。また、田んぼにも足を運んでもらいたいと思っています」