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欅坂46の"僕"たちの物語

※本記事は映画「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46」の感想記事です。ネタバレを含むので映画をご覧になってから読まれることをおすすめします。

ノンフィクションから生まれたフィクション作品

「この映画はフィクションだ。」

僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46を観てそう感じた。

まず断っておくと、この感想は決してドキュメンタリー映画での現実を受け入れられなくなったが為の逃避ではないし、映画を観ての感想がたったこれだけということでもない。

単に今回私が書きたいと思ったのが、あのシーンが良かった等の断片的感想ではなく、映画全体を俯瞰した時に感じた違和感の正体だということだ。

それはおそらくリアルタイムに欅坂46を追いかけてきたファンならばすべからく感じたであろう、次のような違和感である。

......孤立しすぎでは?

映画では不協和音の MV 撮影で孤立する平手さんの姿が強調された。以降のシーンも平手さんが独りでいる姿ばかり映され、他のメンバーと話すシーンはほとんどない。

しかし実際には、不協和音のMV撮影ではベンチコートに埋もれて笑う姿を見せているし、黒い羊の頃には KEYAKI HOUSE でメンバー達と仲良く戯れている。つまり映画における平手さんの描写は"ありのままの真実"というわけではない。

だから私は次のような解釈をしてみることとした。

「嘘と真実=フィクションとノンフィクション※」という趣旨の話を監督がしていたけど、この作品は欅坂のノンフィクションを切り取って創り上げたフィクションだと感じた。その境界が曖昧なリアリティあるフィクション。
※正確にはフィクションとドキュメンタリー

そもそも 5 年間の軌跡を高々 2 時間程度に圧縮するのだから、ありのままの真実を伝えられないのは当然だ。大量の映像記録から取捨選択をして映画を作るには、一貫性を持ったストーリーが不可欠になる。そこで問題となるのは「いかにして欅坂46のドキュメンタリー映画がこのような作品として語られるに至ったのか?」である。

ファンの疑問に答えるという選択肢

ドキュメンタリー映画として想定できた作風の一つとして「ファンの疑問に答える」というものがあったかもしれない。

欅坂は何かと不安定なグループだった。休みがちなセンター、明らかに元気のないパフォーマンス、突然の卒業などにより、「どうして?」「一体何が起きているんだ?」といった疑問を抱えていたファンがたくさんいるし、自分もその一人だ。だからこそ、初のドキュメンタリー映画でこれらの疑問が解消されることを期待した人も多い。

しかし結果的に、本映画は"答え"ではなかった。

そこで改めて考えてみる。そもそも仮に疑問に答えるための映像を用意したとして、一体どれだけの人が納得しただろう?

欅坂に起きていた事実を映像としてありのままに流したところで、おそらくそれは答えになり得ない。この世界で起きていることは考えているよりずっと複雑だからだ。例えば週刊誌の言うようにメンバー間での対立や喧嘩があった様を見せられたとして、あなたは「〜は不仲が原因で卒業した」と結論づけるだろうか?

それはあくまで一元的な解釈に過ぎない。

人は安心するために答えを探す。答えが見つかれば、それ以上探す必要がなくなるからだ。答えが正しいかどうかは、実はその人にとって重要ではないことが多い。

"僕たち"の嘘と真実

では、ドキュメンタリーをどんな作品に仕上げるか?

ファンの疑問に対してある種の答えを用意することをドキュメンタリーとしないのなら、欅坂46の 5 年間のノンフィクションから、どんなフィクションを創作するのか?

そんなことを考えていて着想した一つの解釈が、次のようなものだ。

欅坂の映画、実はこれまでの楽曲の主人公である"僕"たちの物語として捉えるのが一番腑に落ちる気がする。"僕"の感情を欅坂46というノンフィクションを通して表現した作品...?

映画タイトルの「僕たちの嘘と真実」や公式HPの「これは、誰も知らない僕たちの物語」という言葉。欅坂46のドキュメンタリー映画なのだから、一見すると「僕たち=欅坂46のメンバー」と受け取ることができる。

しかし"僕"という言葉は、実は欅坂46の話をする上ではもはや専門用語とも言うべき言葉の一つだ。

"僕ら"は何のために生まれたのか?
(サイレントマジョリティー)
"僕"は信じてる 世界には愛しかないんだ
(世界には愛しかない)
"僕"は YES と言わない
(不協和音)
黒い羊 そうだ"僕"だけがいなくなればいいんだ
(黒い羊)

例示したように、欅坂46の楽曲の主人公は"僕"という言葉で表現されることが多い。そのため曲のメッセージを届けたいという欅坂46の想いは、いつしか「僕の気持ちを伝えたい」という言葉で言い換えられるようになった。

そこでもう一度映画のタイトルや予告文を振り返ってみる。

"僕たち"の嘘と真実

これは、誰も知らない"僕たち"の物語

改めて読んで、言葉の意味が違って見えたのではないだろうか?

そこで私はこの映画を、欅坂46での 5 年間の軌跡を通して覗きみる、欅坂の楽曲に登場する"僕"たちの物語として解釈してみることにした。

公式パンフレットで高橋監督はこう述べている。

"インタビューから紡ぎ出される心境からあらためてライブ映像を見直してみて感じたのは、その時々のメンバーの心情が、もろにライブへと反映されていることでした"

ライブに全身全霊を注いできた欅坂46のドキュメンタリーを創作する上で、"僕"たちの物語を伝える以上にふさわしいことはないかもしれない。

平手友梨奈に投影された"僕"

映画の中で TAKAHIRO 先生が言っていた。

欅坂46の"僕"というのは、背負い人なんです。
みんなが感じる苦痛を背負って...みんなが感じる不甲斐なさを感じて...
でも、それを何とか変えたいと思っている。

映画は東京ドームの本番前、舞台裏で思い詰めたような表情をして周りに支えられる平手さんから始まる。思い返せば、その姿は多くの苦痛と不甲斐なさを背負っている姿の象徴かもしれない。そして明らかに正常ではないその姿をよそに、ライブの始まりは刻一刻と近づく。

いよいよライブが始まると、私たちファンは異常な舞台裏のことなど知る由もなく熱狂の渦の中へ飛び込んでいた。あまりに対照的な情景に感情が揺さぶられているうちに、画面は東京ドームの1年前、"あの日"のガラスを割れに切り替わった。

2018年9月5日、全国アリーナツアーの千秋楽である。

個人的な話になるが、あの日の私の座席はG2ブロック、ほとんど最後尾の座席だった。傾斜のない広大な平面からなる幕張メッセの特徴的な会場では、最後尾というのはほとんど何も見えないハズレ席である。後方座席のために用意された巨大モニターでさえ、その席からはよく見えなかった。生で見るメンバーなど当然豆粒ほどだ。

ガラスを割れの終盤、平手さんが独りで花道へと駆け出していくのが見えた。

その瞬間、不思議な感覚に襲われた。目に映るのは確かに豆粒ほどの人間でよく見えてすらいない。近づいてくるのが分かるだけだ。それなのに、まるで広大な会場全体に熱風が吹き荒れたと錯覚するほどの激動を感じたのだ。ただただ圧倒されたというのが正しいだろうか、興奮とはまた違った、恐怖にも似たその感情は強く記憶に焼きついた。

そして平手さんは私の知らぬ間に倒れ、会場から一時姿を消していた。

まさに平手の中の"僕"像が爆発し、ガラスを割った瞬間だった。

映画館のスクリーンであの日の姿を再確認して、当時の不思議な感情に説明がついたのと同時に、どうしてこんなパフォーマンスができるのだろう、どうしてこんな風になってしまったのだろうと疑問が湧く。

その疑問を置き去りにして、映画はデビュー当初の頃の映像、いわば平手さんが普通の女の子だった頃の映像に切り替わり、欅坂46の 5 年間の軌跡を歩み始めた。

ここからのシーンこそ、欅坂46に起きた事実から構成された、不協和音やガラスを割れ、そして黒い羊で描写されるような"僕"の軌跡であった。

その才能ゆえに普通ではない存在として扱われる平手さんは、常に何か大きな物を背負っているように感じられる。初めはライブ前にメンバーを鼓舞したり MC の組み立て方を提案したり、グループを引っ張る存在だったが、徐々に孤立していき、ライブの当日欠席や MV 撮影のドタキャンをするようになる。

これらの事件は、「一度妥協したら死んだも同然」「全て失っても手に入れたい物」といった"僕"にとっての譲れないものがあったことを象徴する。

あえて実際の時系列を無視して物語を進めていくことで、不協和音やガラスを割れ、そして黒い羊に登場する"僕"の背景が巧妙に塗り固められていく。孤独に追い込まれ、他人と違う意見を持った僕だ。

そしてあの日のガラスを割れで、全てが爆発した。

幕張最後列にいた私でさえ激動を感じたあのパフォーマンスを映像で示すことで、全てを破壊して爆発する象徴的な僕が表現されていたように思う。

話は逸れるが、私は MV 撮影のドタキャンは、許されざる行為だと思う。あなたも映画で観ただろう。真剣な表情で指示を出す新宮監督、ダンスを統括するTAKAHIRO先生、振りを仕上げてきたメンバー、クレジットにすら名前が載らない多くのスタッフさんたち...。かけた迷惑は計り知れない。

しかし"僕"は決して傍若無人なだけの人間ではなかった。

2017年の紅白では、自分がいる限り他のメンバーがほとんど注目されないという不可避の事実を、グループから離れる自己犠牲の選択で解決しようとしている。

譲れないもののために迷惑をかけてまで抗う僕と、グループやメンバーのことを第一に考えた優しさを持つ僕とは、同一人物なのである。

人間とは、矛盾した感情や行動を自己の中に抱え込む生き物なのだと思う。そしてその矛盾を"弱さ"と呼び、抱え込んだり分けあったりするのではないだろうか?

そして弱さを抱え込んだまま歩き続けてきた"僕"の終着点が黒い羊であり、角を曲がるだった。

黒い羊の"僕"は不協和音やガラスを割れの"僕"とは違った態度を示す存在だが、映画を見ていると不協和音の時もガラスを割れの時も、黒い羊に存在する"弱さを抱えた僕"がずっと存在していたような気がしてくる。

特に東京ドームの不協和音での「僕は嫌だ!」の叫びは、それまでの不協和音とは明らかに異なり、深い悲しみが込められた叫びに感じられた。黒い羊の期間中であったことも大いに関係しているだろう。(参考記事:平手友梨奈のいた欅坂46が一貫して訴え続けてきたこと、ひとりのファンが受け取ったこと。"反抗心"ではなく"あなたらしさ"について。

平手友梨奈に投影された"僕"を見て、あなたはどんなことを感じただろうか?

私はその姿を見て、生きるということがどんなことかを教えられたような気がする。その姿はとても懸命に映った。そして全てをライブで表現してきた欅坂46だからこそ、ライブ映像を主体とした映画で"僕たちの物語"が完成したのだ。

大人の責任として、TAKAHIRO先生の言っていたように、映画の中に見つけた"僕"の物語を点ではなく、それこそ永く続く線で、見続けていきたい。

もう一人の"僕"とこれからの欅坂46

これまで平手さんの話ばかりしてきたが、実は私が最も好きなシーンは平手さんのシーンではない。それは2018年全国ツアーの千秋楽、急遽離脱した平手さんの担当を空けたままライブが進められる中、二人セゾンで小池がソロダンスを踊るシーンだ。(マイクを渡された詩織さんが驚きつつ嬉しそうなのも好き)

この映画は前述の通り平手友梨奈に投影されている"僕"の物語として観ることもできるが、同時に他のメンバーに焦点を当てて観ることもできる。

世界には愛しかないのMV撮影では才能の差を感じて無力感や悔しさに苛まれ、2017年のツアーでは平手の欠席に動揺してまともなパフォーマンスができなくなった。その年の紅白の後、平手がついに根を上げたが、それでもすがり続けることしかできなかった。

ここまでのシーンで、平手以外のメンバーは、とても無力な存在として描かれている。平手に投影されていた"僕"とはまた違う苦悩を抱えた存在だ。

それは二人セゾンで喩えるなら、目を伏せて聞こえない振りをする僕であり、振り返る余裕も興味もない僕であり、そして自分の張ったバリアから出られない僕であった。

だからこそ、ライブ本番での平手の離脱という緊急事態で、平手のポジションを空けたまま進めてほしいとの指示の中、そのバリアを突き破って踊ることを決意した小池の姿はこの上なく美しかった。

昨日と違った景色よ
生きるとは変わること

生きるとは変わること。

小池のソロダンスは、生きる姿を象徴するシーンだ

変わったのはもちろん小池だけではない。

映画では誰鐘のメロディに合わせて2019年全国ツアーのダイジェストが映し出された。そこに2017年の頼りないメンバーの姿はなく、代わりに、堂々とパフォーマンスする姿があった。これは決して踊りや表現が上手になって平手の場所を埋められるようになっただけのことではない。

有象無象だった無力な存在に、いつの間にか個が出来上がっていた。それぞれが主人公として、僕としてその場に立ち、僕自身の世界観を作り上げていたのだと思う。だからやっぱり、ここの映像はとても美しく感じられた。

そしてメンバー達は、平手の卒業後初めてのライブを Online Live という形でやり遂げる。特に映画のエンディングにもなった『誰がその鐘を鳴らすのか?』は、これからの欅坂46(櫻坂46)の未来を強く信じる根拠となる素敵なパフォーマンスだった。

Online Live で改名を発表した際、菅井が言った。

ここからのリスタートになるので、相当な茨の道が待っていると思います。でもまだ色のない真っ白なグループを皆さんと一緒に染めていけたらいいなと思っています。欅坂46で培った経験がきっと私たちを鍛えてくれています。ですのでこの経験を信じて、また新たに強く、強いグループになることを約束いたします。

そしてこの言葉の意味を、直後に全員がパフォーマンスで示してくれた。

この映画の締め括りがライブパフォーマンスであったこと、その事自体が欅坂46の軌跡を象徴していると思った。これからの希望を強く感じることができるそのラストに、あらためて欅坂46を好きになった理由を噛みしめた。

おまけの平手さん

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これからも欅坂46と日向坂46を追いかけながら、記事を書きます。私らしく。