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「九年前の祈り」小野正嗣

    芥川賞受賞後に読んだときは、海辺の町のありふれた家庭の日常風景という印象だった。ただ、そのときも今回の再読も「引きちぎられたミミズ」という独特な言葉の形容と登場人物の感情が交錯した。

    このような純文学は芥川賞らしさを感じるし、退屈な日常描写はあっていい。なぜなら我々の現実は多くの平凡な選択の連続だし、決してドラマチックではないからである。

    蒲江町の白砂青松の美しい海岸線が続く入り江。海辺の町の荒々しい方言と静かな日常。母と子が織りなす寡黙な希望の風景。僕はカズオ・イシグロの「日の名残り」を思い出し、作者の気品に満ちた穏やかさを感じた。しかしもっとこころ打たれたのは、付録の芥川賞受賞スピーチである。サミュエル・ベケットのミミズの観察の引用から始まる「与える」ことへの展開と、亡き実兄への兄弟愛である。他人が推し量るにはおこがましいような、尊敬や無念、思慕などの複雑な気持ちに感涙せずにはいられなかった。

    「お人好しで、不器用で、子供のころ、みんなからからかわれていました。何をされても怒らない。人の悪口は言わない。勉強はできない。足は遅い。(中略)でも兄がいなくなって、わかりました。奪われていたのではなく、与えていたのです。」「僕はたかられているのではないかと思っていたのですが、そうではなかったのです。(中略)兄が死んだとき、通夜にも葬儀にも、過疎の集落のどこにこんなにいたのかというくらいたくさん人が来てくれました。足の悪い年寄りが足を引きずりながら仏壇の兄に会いにやって来ました。兄はないないづくしだったけれど、自分は否と言わず、人を受け入れ、ひたすら与えました。」「文学は僕にとってそういうものです。一方的に与えるのです。」

    深く読もうとすることは、自分で考えるという作業によって気づきを与えてくれる。だから僕は狭い範囲でいいから、深く掘り下げてみたいと思ってきた。またいつかこの小説を読もう。年齢によって感じ方も考え方も変わってくるだろう。季節が移り変わるように、その変化も受け入れ楽しみとして捉えたい。僕はイエスや賢治の言葉よりも、ショドリーの言葉を思い出していた。「一生を終えて後に残るのは、われわれが集めたものではなく、われわれが与えたものである」   〜Gerard Chaudry〜

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