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「あした死ぬ幸福の王子」飲茶



 面白かった。哲学はこんなに面白いものだったのか。死の先駆的覚悟は武士道そのものかもしれない。鍋島藩の葉隠に酒でしくじった男の話がある。酒で一度失敗すると世間は冷たい。しかし、そうではなく、過ちを犯した者は必ず後悔し、仕事の役に立つと説く。上役が保証することは、自分の命をかけて保証することである。武士道とは死ぬことと見つけたりとは、そういう意味でもある。
 死を意識すること、つまりこの瞬間に死が訪れるかもしれないという感覚は、今の日本にはない。死は身近なものであり、忌むべきものでもなく、神聖なものとして捉えることが薄れてきた。ときおり諸行無常を感じるのは、身近な死を経験するときであり、そこに負債感のようなものをを覚えるときもある。
 悲惨な死を知ったとき、どこか無力感を覚えないだろうか。不治の病気、自殺、殺戮、幼な子の死、孤独死等々。ときどきある人を思い出すことがある。それが衝撃だったからだろうか。以前国会の厚生委員会で元参議院議員が肺がん患者の参考人に向かってヤジを飛ばした。その心ない言葉に唖然とし、寂しい気持ちになった。人間の尊厳とは何か。生まれてきてよかった、幸せな時間だったと思ってほしい。それぞれの人のそれぞれの存在にそれぞれの価値がある。今となっては元議員さんも悔悟の気持ちと負い目を感じて生きているだろう。己が発したその非情なヤジを受け止め、そこから何を産み出すかが元議員の価値となる。誰にでも過ちはある。そう、人生は終わるまで終わらないのだから。
<読書メモ>
・存在とは何か。存在(ある)は人間の思考を成り立たせている土台であり、だから人間はそれを語れない。にもかかわらず、存在の意味を理解し、存在を土台とする言語を駆使している。
・世界のあらゆるモノは自分という究極の目的のために道具として現れ、他人を道具として見ているが、他人もまた自分を道具として見ている。だが、自分は道具ではない。むしろ道具体系の目的そのものであり、交換不可能な、かけがえのない存在。しかし、死んだら別のモノに置き換えられる存在。
・人間とは自分の固有の存在可能性を問題とする存在。自分がどんな存在であるかを問いかける存在。
・死には他者の視線をはねのけるだけの大きな力がある。しかし、殆どの人間が死から目を逸らして生きている。死の忘却。
・自分が有益な機能を持った道具であることを証明し、安心や自信を得るために他者の視線による承認は重要であり、生殺与奪権を持っているかのような強大な影響力を持っているとする。だが、死においては、自己の道具性が破綻する。その瞬間に他者の視線は影響力を失い、人間は本来のあり方について問いかけ始める。
・本来的な生き方。交換不可能で道具ではない。自己固有の存在可能性を問題とする。自己の人生を問う。死を意識する。
・この瞬間に死ぬ存在である事実を真っ向から受け止める。死の先駆的覚悟。
・人間は、日常の中でふとしたときに負い目を感じる。良心とは負い目を感じてしまう心。人間の無力さ、有限性から生じる。
・ハイデガーの時間論とは、過去・現在・未来を、それぞれの負い目、つまり無力さとして理解する。
・どうにもできないこと。被投性。世界に投げ込まれてしまった自分。
・不確定な未来に向かって自分を投げ入れる。企投性。
・多くの人間にとって、現在という時間は、自分の思い通りにできない無力さを持って存在。
・死んで完結するまで、その意味も価値も決して定まらない。人生は終わるまで終わらない。
・人間は絶対に手に入らないものを求めている。
・バラバラになった個人同士が繋がれるもの、人類共通のもの、それは死。
・すべての問題は、死という確実な現実から目を逸らして非本来的に生きること。死ぬ存在であることを正しく認め、他者が死ぬ存在であることをお互いに認め合えたとしたら、思想も国家も宗教も超えた根源的なところで深く繋がることができ、もっと優しくできるのではないか。
・人間は愚かです。星を汚し、他人を傷つけ、無惨な戦争を繰り返してきました。そして、自分以外の他者を道具として、自分の目的の手段としてしか認識できない自己中心的な存在でもあります。しかし、一方でそれは人間が他者と関わることでしか存在できないということでもあるのです。そんな人間が自己の死に気づき、他者の死に気づいたとき、彼らはお互いを思いやり、そこに固有の価値を問いかけ、存在の意味を生み出そうとします。私は、その営みこそが尊さと美の正体だと考えます。ですから、果てしなく愚かさや醜さを生み出す人間たちですが、一方で尊さや美を生み出せるのも、死を運命づけられた人間たちだけなのです。

#あした死ぬ幸福の王子 #飲茶 #哲学 #ハイデガー #読書

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