友とBOSSジャン
己のアイデンティティー自認に大きく関わった人のことは、忘れられない。
わたしはもう12年ほど某テクノポップユニットの、いや伏せるまでもない、Perfumeのファンである。
ファンとして過ごしてきた日々のほとんどを相当な密度で費やしてきたのだが、わたしを「おたく」という生き物であると自認させてくれたのは友達のひとりだった。
以下、Yとする。
Yは大学時代の同期であった。
彼女は法学部、わたしは文学部と在席は別々だったのだが、1年時に語学の授業で隣りの席になったのを機に――思えばそれは神の采配であった――プライベートでも遊ぶ仲になり、その蜜月は卒業まで続いた。
ラーメンを食べてカラオケに行く、あるいはカラオケに行ってからラーメンを食べる。いかにも学生くさいそのパターンがわたしたちのいつものコースだった。
よく響くアルトボイスを持つYは、ほとんど男性ボーカルの曲しか歌わない。
音感がよく歌唱力も高い彼女と互いにハモり合ったりコーラスを付け合ったりする楽しみは、他の人とはなかなか味わえない種類のものであった。
何より彼女の醸す独特な空気感や率直な物言いをわたしはいたく気に入っていた。
社会人になってからもぽつぽつと会ってはいたが徐々にそのスパンは長くなり、30歳になる直前、数年ぶりの再会と相成った。
南池袋公園の前で少しどきどきしながら彼女を待っていると、午後の陽射しを背にYが現れた。
BOSSジャンを着ていたーーあのBOSSジャンである。
そのことに気づいたとき、なぜだか確信を得た。わたしが彼女を嫌いになることは、一生ないだろうと。
実はわたし自身、企業名やメーカー名、商品名の刻印された非売品や限定品をこよなく愛する身である。BOSSジャンだって、当たったならば飛び上がって喜ぶだろう。
さりながら、そうしたグッズを身につけて外を歩くには高いハードルの存在を意識せずにはいられない。それを事もなげに飛び越えてみせる彼女が、眩しかった。
カラオケボックスに向かう道すがら、近況を報告し合った。
生まれてから一度も実家を出たことのないYではあるが、都内の某有名スタジオで働く彼女の話は刺激的だった。仕事の話を始めたらわたしは愚痴ばかりになりそうだったので、趣味の話題を選んだ。
Perfumeにはまっていること、初めてライブというものに行ったこと、ファンクラブにも入会したこと、コアなファン仲間が増えたこと、一緒に振りコピしたりもしていること。鼻息荒く口角唾を飛ばしてわたしが語ったあと、彼女はさっくりと言った。
「わー、おたくだねえ!」
「え……おたく……」
その響きにわたしは戸惑った。人生で一度も己に適用したことのない単語だった。
今でこそ「おたく」をカジュアルに名乗る時代だが、当時はまだごく一部の特殊な人種を指す言葉だったのだ。
「いや、ただのディープなファンっていうか……」
「いやおたくだよ、そこまで熱量を注ぐのは」
抵抗を試みるも、彼女は訂正してくれるどころか確信を強めてゆく。
筋金入りのL'Arc〜en〜Cielおたくの彼女にサクッと断言されて、おたく……おたく……とその単語を口の中で反芻してみた。
繰り返すうちにその言葉は不思議と身に馴染み、カラオケとラーメンを終えて帰る頃にはなんだかいろいろ吹っきれて、わたしは新たな自己を受け入れていた。
そうか、わたしはPerfumeおたくだったのか。
見える世界がきらめくわ。
その後の人生をおたくとして生きることとなったわたしは、Perfumeにまったく関係のない短歌イベントで友人3人と踊ったり、年齢もわきまえずにPerfumeとおそろいの服を着てライブ参戦するなどの暴挙を重ねた挙句、Perfumeファンのひとりと結婚することになった。挙式・披露宴にはもちろんYも来てくれた。
あれ以降も思いだしたように呼びだし合ってはカラオケ・ラーメンコースを回ったけれど、わたしが出産し夫の地元へ引越した辺りから徐々に疎遠になり、今ではかろうじてメールや年賀状を交わすだけの間柄だ。
あのとき、わたしをおたくだと気づかせてくれた彼女。
あの日着ていたBOSSジャンは今、どこにしまわれているのだろう? 不惑を迎えた今も現役だったりするのだろうか。
今度会ったら言いたい。初産のとき、陣痛室で朝を待ちながらわたしが握りしめていたのは、Coca-Colaの非売品のスポーツタオルだったことを、どうしても聞いてほしいのだ。
風に乗るにおいは同じ合宿で使いまわしたNIVEA青缶/柴田瞳
生きているうちに第二歌集を出すために使わせていただきます。