見出し画像

若いということ


人生とは意外にロマンチックだ。


しかし、それは大人になって物事を客観的に見られるようになったから。 若い頃はいくら環境や関係がロマンチックであろうとも、余裕もないし人の気持ちもわからない。だからきっと、自分からそのロマンチックを潰して回っていたんだろうなあと今では思う。 

 僕は大学生になってすぐ、いくつかある軽音サークルから適当に選んで見学へ行った。  

煙草の吸殻がこんもり山盛りの灰皿や酒の空き缶とともに、楽器が雑に並べられている練習スタジオ。スコアよりも漫画の方が多い湿気た部室。音楽というよりはモラトリアムと向き合っているような風景に辟易しながら、上級生から説明を受けた。 

「年に数回はライブハウスでイベントしたりしてるよ」  

そう言って新入生へ説明する西嶋さんはほほ笑んだ。破壊的なほど巨大なおっぱいを持つこの人は、ベース歴5年の3回生らしい。僕はおっぱいの揺れと西嶋さんの言葉に合わせながら、相槌がてら首を縦に振っていた。 

「この後、18時から新歓コンパするから是非来てね~」 

おっぱいはそう言うと、居酒屋の場所の説明を始めた。大学生のおっぱいとはこんなに凄いものなのか、と僕は衝撃を受けていたのか、この後のことはいっさい覚えていない。


 まぶしさで目が覚めた。うっすら目を開けると西嶋さんが目に入る。

 「あ、起きたね」 

理解が追い付かないまま起き上がると、そこは朝焼けまぶしい公園だった。

 「はい、飲んでね」  

西嶋さんがペットボトルの水をくれた。僕は水を飲みながら状況を理解しようと周囲を見渡すが誰もいない。西嶋さんしかいないから西嶋さんに聞くしかない。 

 「あの…」  

「君、1軒目で飲みすぎて倒れちゃったんだよ。2軒目にはみんなで頑張って引きずって連れて行ったんだけどね」 

 「…すみません」 

 「いや、いいんだけど」

 西嶋さんの説明を鵜呑みにすると、どうやら1軒目でつぶれ、2軒目で目覚めた僕はむちゃくちゃに暴れたらしい。みんなを叩いたり絡んだり。その後また倒れて、3軒目まで連れて行ったけど入店拒否されたらしく、西嶋さんだけ残って近くの公園で介抱してくれたようだ。ほかのメンバーは始発まで3軒目で時間をつぶしている。 説明を聞いた僕は、やってしまった…という絶望よりも、天使のように優しい西嶋さんに驚愕していた。

 そして大学に入ったばかりの世間知らずの僕は、ベッドで眠る、扉を開ける、椅子に座る、それらと同じくらい簡単に、恋に落ちた。 


 軽音サークルのマドンナは西嶋さんではなかった。彼女は容姿が優れている何名かのグループではないが、少しかわいいかな、くらいの位置にいた。そんなに競争相手がいなかったことも幸いし、積極的に仲良くした。僕は人懐っこい方ではなく、相手の懐に入るのも苦手で、そんなに女性慣れもしていない。でも西嶋さんもそうだったようで、ぎこちないながらも、慎重に、少しずつお互い距離を詰めていった。  

何度かデートを繰り返し、サークルの集まりでも西嶋さんと僕の仲が周知されたころ。 チャンスが訪れた。飲み会の帰り、たまたま二人で帰ることになった。西嶋さんの終電はなくなっていたが、僕の終電はギリギリまだある。 僕は独り暮らしの我が家を思い出した。よし。大丈夫、片付いてはいないがギリギリ許容範囲内。 

なんて誘うのが自然なのか。いや、逆に自然じゃない方がいいのか、相手に下心を見せない方が正解か、見せてはっきり言うのが正解なのか。 

ぐるぐるぐるぐる。 

 「あ、電車、僕、あの、家がね」  

最悪だ。考えがまとまらないうちに言葉を発してしまった。 沈黙の恐怖と終電までのタイムリミットが僕を焦らせた。しかも声が裏返ってしまったしもう無理なんじゃないかなどうしたら挽回で 

 「君の家、行ってもいい?」  

そう言った西嶋さんの顔はアルコールと恥ずかしさもあってか真っ赤で、それはそれは死ぬほどかわいかった。僕は声も出せずにただ、ひたすらうなずいた。 すると西嶋さんがごく自然に僕の手を取り、駅へと歩き出した。 

嘘だ。 こんなことが起きてもいいのか。 なんだこれは。 心の準備がいまいちできていない状態でどんどん新しい展開が起きてしまい、何も追い付いていない。怖い。 このまま行ってしまって大丈夫なのか。思考が追い付かない。 どうしよう。 そんなことはお構いなしに、西嶋さんはどんどん改札の方へと進んでいく。  

と、そこで西嶋さんの前へスーツを着た男が割り込んできた。 すごいイケメン。パーマ。ひげ。 

 「はるか、何してんの?」

 え?知り合いだ。このスーパーイケメンは西嶋さんの知り合い。 しかも呼び捨て。 濃紺のスーツをきっちり着込んで、革靴もぴかぴか。カバンもおしゃれなイギリス人が持っていそうなヤツだ。それで長めのパーマ。整髪料をしっかりつけてまとまっているので不潔感はない。極めつけはあごひげ。ちょっとだけ生えてる。そして電撃的なイケメン。戦闘力が高すぎて僕のスカウターでは測定不能。 そんなことより西嶋さんはどうしているのかと横を向くと、西嶋さんはなんとも言えない表情でイケメンを見ていた。

 イケメンの知り合いに会ったから、嬉しそうな顔なのかな、とも思ったけど、どうやら複雑なようで、驚きと不安とちょっぴり喜びと、あと気まずさみたいなものを混ぜ込んだ表情をしていた。 その表情のまま、西嶋さんはイケメンに言った。 

「わたし、今からこの人の家に行くから」 

「え? こいつの?」 

イケメンは別に見下しているわけではなく、心底驚いたような顔で言っている。 そうだ。 思い出した。 信じてなかったけど、噂話で聞いたことがある。西嶋さんは妻子あるサラリーマンと不倫関係にあって、それを精算したがっているけどサラリーマンが離してくれないとかなんとか。僕はテンパりながらもなんとか脳みそを動かしていたが、どうしたらいいのかわからなかった。

 「ねぇ、早く行こうよ」

 西嶋さんが催促する。

 「お前誰なんだよ」 

イケメンが詰め寄ってくる。 西嶋さんとイケメンがどっちも僕を見ている。 西嶋さんがだんだん懇願するような顔になってきた。

 「終電なくなるし。この人は気にしなくていいから」 

「いや、気にしろよ、はるかとどういう関係なんだよ」  

イケメンもヒートアップしてきている。 僕はどうしたらいいのかわからなかった。 


 だから、何も言わず、そのままその場を去った。

 改札とは逆方向へ走り去った。

一回も振り返らずに。 

 その後、僕は気まず過ぎて軽音サークルには一回も行かなかった。 めんどくさかったし。 フェードアウトした。 

そして今考えたら、不倫相手は10歳くらい上だって話だったけど、あのスーツのイケメンはまだ20歳そこそこだった気がする。だから同級生か何かだったのかもしれない。 でも当時の僕はスーツを着ているイケメンが怖かったし、なんか必死な顔している西嶋さんも嫌だった。 きっと西嶋さんは僕のことが好きだったし、イケメンは不倫相手でもなくて西嶋さんのことを好きな同級生なんだから、あそこでかっこよく決めたらハッピーエンドは間違いなしだったと思う。 でも当時の僕は、そんなロマンチックな展開起きるわけないと思っていた。さらにロマンチックな展開が気持ち悪かった。 だってロマンチックな展開で何かを勝ち取るリターンがあったとしても、ロマンチックな展開を期待しているキモいやつと思われるリスクが嫌すぎるから。

 仕方ないよね。 若かったんだから。 

でも大人になった今だから分かる。


 人生は意外にロマンチックだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?