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授業はたのしいだけでいい! ー第2回「教育界の非常識教師・誕生!」

 現場の経験もないまま,大学を出てすぐに小学校の教師になったぼく。初めての担任は5年生でした。

「ルールにこだわらず,楽しい学校生活をめざす!」

 と決めたぼくは,希望に燃え,子どもたちが授業でおしゃべりをしてようが,勝手に席替えをしていようが,特に気にすることなく「どんな感じだって,授業を聞いていてくれたらそれでいい」と思って,注意せずにいました。興味を刺激する授業ができていたら,おのずと聞いてくれるようになるだろうと思っていたのです。

 すると,イスの上に腰をかけたり,後ろのロッカーに座りながら授業を受けたりする子が現れ,さすがにこれは管理職に注意されるようになりました。
 でも,その時のぼくは「別に聞いていればいいじゃないか。そんなに怒るなよ,子どもがビックリするだろう」などと思っていたのです。

 そして,学校現場のよくわからないことを,他の先生に言ったり聞いたりしていました。
「毎週うわばきを持って帰って洗う必要ってあります?」とか,「集会の時に列がまっすぐじゃなくても,困りませんよね」とか,「えんぴつ5本と赤青えんぴつだけって,筆記用具の決まりが厳しすぎませんか?」とか,「子どもが学校に携帯電話を持って来ちゃいけないんですか?」とか…。

 そんな感じだったので,管理職や同僚からは,「君の常識は,教育界では非常識だ」「新人類だな」などと言われるようになりました。

●初任者は理想が高すぎる

 そして,その頃のぼくは,ものすごく理想が高くて,他の先生が見せてくれる「普通の授業」が許せませんでした。
 お手本として見せてくれる授業は,特にワクワクすることもなく,ルールだけがしっかりとしている,「つまらない授業」。それは,ぼくがずっと受けてきて,イヤだと思い続けてきた授業でした。「確かに静かに聞いているけれど,みんながまんしているだけだろう」と思いました。

 ぼくはそうはなりたくないと,少しでも興味がわくようなことを調べて準備して,授業に臨みました。けれど,いくらおもしろそうなことを準備してみても,子どもたちはぼくの授業に乗ってくることはありませんでした。ただぼくが一生懸命なだけの,独りよがりの授業。その頃のぼくは,子どもたちを喜ばせてあげられる武器を,なにひとつ持っていませんでした。

 「初任者は〈若さ〉が武器だよね」と言われましたが,確かに,気持ちは近かったし,休み時間や放課後もよく遊んでいましたが,それは一部の子どもたちだけ。授業がうまくできなければ,クラスのみんなを惹きつけることは,できなかったのです。

 他の先生のような授業はしたくない。
 だけど,自分の授業はもっとうまくいかない。

 そんな中で,ぼくを指導してくれた先生の「もっと授業規律をしっかりしなければダメ」とか,「授業は,先生だけががんばっててもダメ。子どもたちが自分から考えられるようなものじゃなければ…」という指摘が,心に突き刺さるようになっていきました。授業を聞いてもらえないのは,そのせいなのだろうか。真剣に悩みました。


●マネをすることができなかった

 そして,当時の最大の難点が,ぼく自身,隣のクラスのベテランの先生のマネができないことでした。教えてもらえなかったのではありません。教えてもらった通りにやりたくなかったのです。
 クラスの子どもたちに「となりのクラスの先生のマネじゃん!」と言われるのがイヤでした。せっかくいろいろな授業のヒントを教えてもらっていたのに,その通りにはやらないで,自分なりにアレンジを加えてやるとか,自分で考えて別のことをやるとかしていました。
 そのままマネをしてしまったら,なんだか自分の力でやっていないような,ズルをしているような,そんな気もしていたし,ぼくの実力がないのを,子どもたちに見抜かれてしまいそうで怖かった,というのもありました。


●何とかしようとするも,かえって上手くいかず…

 そして,まずは聞いてもらえなければ意味がないと思い直し,細かいことも注意するように方向転換していきました。
 すると,一部の女子からそっぽを向かれてしまうような状態になり,クラスはうまくいかなくなっていきました。
 疲れきって,夜寝ていると,保護者から家に電話があり「うちの娘が学校がイヤで行きたくないと言っています。今までずっと学校がたのしいと言っていた子だったのに。こんなことは初めてです!」と言われてしまうようになりました。これは本当にショックな出来事でした。

 早朝,自転車通勤中にコンビニの前を通ると,建築業界の人たちが,朝ご飯のおにぎりを食べながら,現場の話をしているのが目に入り,「子どもたちの前に立たなくていい仕事,うらやましい…」と思ったのが忘れられません。そのくらい,学校に行くのが辛くなっていたのです。子どもを惹きつける内容もないのに,授業しなければならない苦痛は,今でも鮮明に思い出すことができます。

 結局,初担任の子どもたちとは一緒に6年生に上がることはできず,次の年,ぼくは2年生の担任になりました。
 そして,1年生の時に授業規律が身についていたそのクラスの子たちとの日々は,学級経営が驚くほどラクでした。

「そうか…たのしいだけではダメなんだな。ルールができていなければ,話を聞いてもらうことすらできない。そうだ,やっぱり,子どもたちのために,たとえ授業はつまらなくても,基礎的な知識を身につけさせて,いつか興味がわいたときに困らないようにしてあげるのが仕事なんだ」

 そう覚悟を決めました。そしてぼくは,仕事のために学校に行くだけの「学校がつまらない教師」になってしまったのです。


●奥さんとの出会い

 学校以外では,学校のことなんては考えたくもない。そんな教師になってしまったぼくは,当時付き合うことになった彼女の様子を見て,「ああ,やっぱりぼくは教師に向いていないんだな」と心底思うようになりました。
 彼女も同じ小学校教師だったのですが,ぼくとはちがって,休みの日だというのに,たのしそうに授業の準備したり,わざわざ資料を書いてサークルに通ったり,フェスティバルに出かけて勉強したりしていたからです。

 そんな彼女に教えてもらった「仮説実験授業」が,その後のぼくの人生を大きく変えてくれることになるなんて,その時のぼくは,全く気づいていませんでした。

つづく



※これは,『たのしい授業』という雑誌の「手書きのページ」に,2021年6月号~11月号までの半年間連載されたものです。「手書きの原稿」をごらんになりたい方は,ご購入いただけるとありがたいです!



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