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過去の恨みと現在の許し

(帰省に関する記事はまた後日、と書きましたが、筆が乗って書き上がったので投稿します。)

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二年ほど前、曾祖父の葬儀の日。伯母と私と妹で、近くのコンビニにおかしを買いに行った。集まった親戚たちへのお茶請けだ。田舎なのと、曾祖父に子どもが多いのもあってサマーウォーズ並みに親戚が多い。当然、買わなければいけないものも多くなる。

結構な量を買ったが誰もエコバッグは持っていなかった。大きいレジ袋を購入した。そのとき、妹がてきぱきと袋を広げ、店員さんがバーコードを読み取った商品を流れるように、かつ綺麗に袋に詰めていった。妹は高校3年間、コンビニでバイトしていた。そこで培ったスキルをいかんなく発揮していた瞬間だった。

私はそれを見た瞬間、雷に打たれたような敗北感を感じた。
(余談だが、『違和感を感じた』などの『感』の重複は明治文豪の小説からも普通に確認されているので誤用とはされないらしい。よって私もあまり気にしすぎず使うようにしている)

当時の感情を分析すると、やはりなにもできない自分が情けなかった、というところだと思う。
私は伯母と妹のうしろで突っ立っているしかできなかった。別に、それ以外のことではいろいろ手伝っていたし、私が抜きんでて無能だったというわけではない。だが、とてつもなく、妹に対して劣等感を抱いた。

妹は勉強ができないし、しない子だった。反抗期も長く、私がうつになるまでは両親の頭を悩ませていたのは妹だった。妹は県でいちばん偏差値の低い公立高校に落ち、学費ばかり高い田舎の私立に進学した。

妹はしかし、生きる力には溢れた、したたかな子だった。それを理解したのは自分が大学生になった時だったと思う。
私はそれまで自分の存在価値は「勉強ができること」しかなく、うつになって成績が学年で下から2番目くらいになってからはそれすら失いどうしたらいいかわからなくなっていた。

大学も、高校3年間の後半はほとんど勉強もできなかった人間が進学できる先なんてたかが知れていて。一応、父親の母校でもあったし、その地方では一番大きな私大だったのだが、正直言って偏差値も大して高くなければ、学生の質もよくなかった。中学生の時に相容れなかったタイプのヤンキーやギャルがそのまま成長してきたような学生がたくさんいて、比較的勤勉な同級生のグループで友人たちを得てはいたが、講義中に後ろの方の席でおしゃべりして平気でスマホをいじっている派手な学生がたくさんいる空間はひどく苦痛だった。
そもそも志望校でもなければ、私が学びたいのは理系教科だったのに受かったのは文系学部で。浪人させてください、と父親に頭を下げたが、覚悟もない人間に浪人なんてできるわけないと一蹴されてしまった。

思い返してみると、妹が高校生、私が大学生の頃の我が家は特に荒れていた。両親も疲れていたし、ゆえにすぐ怒っていた。家の空気がぴりぴりしていた。私はいい歳になっても母親に詰られると石のように固まって声が出なくなった。母は石のように固まって動かない私がなにか話すまで睨むようにじっと見つめ続けた。ときには、三時間も、四時間も。

ちょっと話がずれてしまった。
妹は勉強ができなかったが、仕事はできたらしい。良くも悪くも気が強く、コンビニのバイトでは店長さんにも頼られていた。誤発注で大量にとあるお菓子を仕入れてしまったときも笑い話にしていたのは衝撃だった。私だったら申し訳がなくて絶望して自分を責めて仕方なかったと思う。
振り返れば、そういうおどおどした態度がより、周りの人をいらつかせたのかもしれない。

そして、学費はともかく自分が遊ぶためのお金はすべて自分でまかなう妹を、両親はえらいと褒めた。

私は100点を取っても褒められなかったのにな。親にお金を使わせたくなくて、高校受験の参考書を全部自分が貯めていたおこづかいで買って、塾にも行かず独学で、県でも有名な高校に進学した時も、祝ってはくれたが褒めてはくれなかった。
成績が上がっても褒めてはくれないのに、落ちたら遠回しにため息をつかれた。勉強が苦しくなってきた頃に弱音を吐いたら、「勉強しなさいなんて一度も言ったことないでしょう」と、頑張らなくてもいいよと言いたかったのか、それとも自分たちは強制したことなどないけど? という責任転嫁だったのか、それはわからないがどちらにせよ寄り添う言葉はくれなかった。

妹は中学時代は素行で親に迷惑をかけ、私のことはババアと呼び、月3万掛かる塾に行っても「先生が気に入らない」とだけ愚痴って宿題もせず、先述の通り結局、私立に進学した。
そんな妹だったが、自分で生きることができると示した途端褒められて、私みたいにおどおどしていないから両親とも対等に会話ができて。私はよく、自室にひとり引きこもって膝を抱え、リビングから聞こえてくる両親と妹の談笑を聞いていた。

勉強なんて頑張らなければよかった。
自分を大切にする方法を、自分の存在を肯定する方法を、おどおどせずにいられる精神のありかたを、生きる力のつけかたを、両親は教えてくれなかった。
わからなかったから、世間一般に「出来たらいいこと」とされている勉強を頑張ったわけだが、それを失った私は本当になにもできなくなった。
高卒で働き始め、実家に住み続けはすれど自分のことは自分で賄う妹はえらいねと褒められる。
苦しい、助けてと言い続けたのに応えてもらえなかった私は、大学生活もまともに送れず一日中自室にこもって布団にくるまっているのを、学費を払う甲斐もないこのくそ娘、とベッドを蹴りながら怒鳴られた。

お父さん、お母さん。わたし、勉強なんてできなくてよかったからさ。妹みたいに強い子になりたかったよ。

妹がうらやましくて妬ましくて、家族は怖くて憎かった。今はだいぶ落ち着いているわけだが、こうして思い返しながら書いていると涙が伝う程度には苦しかった記憶が根強い。

なんやかんや家出をして名古屋に来て、あまり褒められない仕事もしつつ生き延びて数年。曾祖父が亡くなり、その葬儀の準備やらなんやらで立ち寄ったコンビニで、私はふたたび敗北感にうちのめされた。

きっと私以外はそんなことなど覚えてなどいない。日常風景の中の、ほんの一コマだったはず。
でも、私はいまだに忘れられずにいる。

先日、曾祖父の三回忌だったかで帰省した。
昨年の今ごろも帰省していたが、そのときは私の体調があまりに悪く、一人暮らしの家でひとりでいたら死んでしまうのではないかと思うくらいひどかったから帰っていた。しかし実家には寄り付かず、祖父母の家でずっと横になっていた。

今回は、当たり前のように駅まで迎えに来てくれた妹と、談笑しながら実家までまっすぐ帰った。昔は両親がいるリビングが苦手で仕方なくてすぐ自室に引っこみ、その態度がさらに顰蹙を買っていたが、普通にリビングでテレビを観ながらご飯を食べることができた。
実家の猫が甘えてきてくれるのも可愛く、楽しかった。
当たり前のようにそのまま実家でふとんを敷いて寝た。滞在中、ずっと実家で寝起きした。

両親も妹も、一度として仕事はどうかとか病状はどうかとか、恋人はいるのかとか聞いてこなかった。数年前に一度、外食の席で妹に「自分で自分を病気ってことにしちゃってるんじゃないの」と言われたのに耐えきれず、泣き叫びながらコップをぶん投げて暴れた甲斐があったのかもしれない。(それについては自分自身も反省しているが、苦しくて仕方なくてもがいているときにそんなこと言われたら無理だった。なにより当時は情緒もひどく不安定だった。)

腫物扱いというわけでもなかったし、いい意味で皆、私の現状をフラットに受け入れてくれたのだと思う。

両親も、高い学費を必死に稼ぐ必要がなくなったり、ブラックな会社を辞めて転職したりで余裕ができたのかもしれない。

おそらく家を出てからいちばん、皆が穏やかで、円満でいられた帰省だった。

気楽でいられた。談笑できた。でも、体の芯が「油断するな」と常に緊張もしていた。
帰ってきたらどうか、と親は言う。
でも、前と同じ形に戻ってしまうのが私はなにより怖い。
今の距離感で、いい意味で「お客さん」の立場として年に数日だけ顔を合わせる、この関係が現状ではベストだと思っている。

いつか地元に帰るのは悪くないと思っている。けど、それをするにはまだ、足りない。両親と過ごしても安心できるという実績が足りない。幼少期から積み重ねられた不安は、残念ながらここ数年程度の良好な関係では消え切らない。

いつだか、低空飛行netの定例会で「今は両親と良好な関係を築けている」という話をしたとき、「どうして許せるのか」と訊かれたことがある。

私は「過去の恨みと現在の許しは共存し得る」と答えた。質問した方も、他に家族と軋轢がある方々も、おそらく理屈はわかるが許せない、ということなのか煮え切らない表情をしていた。
それか、私が無理をしてそう思い込もうとしているだけではないか、と心配されたのかもしれない。

それは本心だ。過去の恨みと現在の許しは共存し得る。
しかし、過去の恨みが消えたということではない。
事実、今だって、こうして過去の恨みつらみを掘り返すと芋づる式に次々悔しさや苦しさ、悲しみがあふれてきて涙が出る。
だからもしかしたら、共存、というよりは、
許しによって、感情の表層にコーティングをしている感じなのかもしれない。

そのコーティングを保ち続けるためにも、「お客さん」の距離感は必要なのだと思う。

ゆる

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