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本と文と嫌悪と

てめぇの脳を割りたい。

某文学作品のタイトルをもじって自分の今を表すならそんな感じ。そう思うくらい《てめぇ(自分)》の頭が痛いし、そう思うくらい《てめぇ(お前)》の脳を食って血肉としたい。

今日、図書館で本を借りた。それだけのこと、たかがそんなこと、と思われるかもしれないが私にとっては大きいことだった。

一年前だったか二年前だったか定かではないが、あまりにも家から出れなく、文章も書けなかったとき、書籍化ネットノベルの原作を小説投稿サイトで流し読みするだけでは思考力が鈍ってしまう、あと外に出ないと、と地図上で家から一番近かった(近く見えた)図書館に行った。

結果として本は借りれなかった。
具合が悪い時というのはひどく視野が狭まっていると感じる。貸出カードを新しく作るための記入シートがどこにあるか見つけることもできずおどおどと挙動不審に彷徨っただけで帰った。カウンターの司書さんに声をかけようか悩んで結局できなかった。

が、今回は普通に記入シートは目の前に見つけられたし、司書さんにシートを提出してやりとりして本を探してきて貸し出し手続きをするのも拍子抜けするくらいスムーズにできた。
むしろ、頭いてーな、とか眠いな、などの方がよほど思考を占めていた。

つくづく、ああいうときは『病気』なのだと思う。ここ一年ほどが病気になってから一番安定していた。躁状態のようにハイになりすぎることもなく。最近また少し下がり気味だが、一度この感覚を体験できたのは大きいと思う。これが落ちたとき戻りたい場所の指標となる。

さて、借りた本はSNSの元相互フォロワーが「自身の原典」と語っていたシリーズだ。
最初に断っておくが、私はその人が嫌いだ。本の著者ではなく、その元相互フォロワーが。
その人もなかなかに精神が不安定なのは察せていたが、色々と「それはないだろ」ということが重なってお別れした。私一人いなくなったところでその人には吉牛(ネット用語失礼)してくれるお友達がたくさんいるのだからいいだろう。

その人のことは嫌いだが、その人の書く文章は好きだった。妬ましいほどに。いいところだけ啜り取って自分の力にしたいと思うほどに。
創作を劣等感に苦しまずにやりたい、というのは覚醒剤を健康的にやりたい、というくらい無茶なのだと先日なにかで見かけてハハっと笑ってしまった。ごもっとも。

その一環として「原典」だと語られていたシリーズを数冊と、単純に自分が読みたい本を借りた。

ここしばらく悩んでいたのはその人との関係である。人となりは嫌いだし、ブロックしてさよならして終わりなら本当に良かった。でも、これは人間関係のダルさだが、共通のフォロワーが何人かいて私がフォローを外そうが普通に向こうが関わる話題が流れてくる。それは私の話題が向こうにも流れるので同じことだろうけれど。

それに何より、その人の文章は本当にいいのだ。SNSでの発言と違い、「推敲」という作業を通した後だからかもしれない。
おっと、私怨が漏れてしまった。

これでもいくらか憑き物が落ちたあとなので、今こうして書けている。

私がその人のことが嫌いなのは、高校生くらいの頃の自分を見ているように感じるから、というのもあるだろう。同族嫌悪なのかもしれない。十年も前の自分はもはや他者である、という考えに気持ちが軽くなりはすれど、十年前の私は高校生活に参っていたとか病んでいたとか単純に若かったとか言い訳を並べようがやはり申し訳ないくらいかまってちゃんで、当時交流した方々の記憶から消えたいレベルである。
とはいえ、救われたがっていた、という一点に関しては本当のことだ。
構ってほしかった、聞いてほしかった、見てほしかった。それらすべて、「救われたい」という思いに起因していたのは確かだと思う。

他人の考えてることなんて、いかに自分と似ていると感じる相手だろうが結局わかりはしないので、あくまで「自分が消化するために」相手の内心やストーリーをそれらしく想像するのみだが、その人も「救われたがっている」のなら、いつか終われると良いね、と思う。

私とてまだ終わっていないが、高校生の頃の私にくらべたらよっぽと遠くまで来れたと思う。物理的にも、心理的にも。

本を借りた。それだけのことだが、それだけのことでここまで捏ね回してしまう私の本日の日記。

ゆる

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