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【試し読み】霜田光一に聞く電波と光の最前線開拓

  今年5月に102歳で逝去された霜田光一先生。まだ学生だった霜田先生は戦時中の昭和18年(1943)年海軍のレーダー開発に従事したことを皮切りに,戦後はメーザー(レーザーの前身),レーザーの研究をはじめ一貫して電波と光の分野で歴史的な貢献をしました。また,100歳を超えても論文を発表,意欲的な活動をされていました。
 また,物理教育も重要視していた霜田先生は『エレクトロニクスの基礎』をはじめとする多くの教科書や参考書を執筆しました

 光と画像の技術月刊誌Oplusでは霜田先生へのインタビューを連載し,電子書籍「霜田光一に聞く電波と光の最前線開拓」にまとめました。

 ここでは同書から一部を抜粋して掲載します。

はじめに

 

Mens et Manus(Mind and Hand)の 100 年

ヒアリンググループ

 霜田光一は 1920 年に誕生し,このたび白寿を迎えた。 霜田の名は,メーザーやレーザーの誕生と直後の発展の経緯に通じた世代には親しいものであるが,若い読者のために,霜田による卓越した業績の中から,あえ て 4 つの代表例を紹介するならば,
 ・第二次大戦中の海軍マイクロ波レーダー用の鉱石受信機の開発と実用化  ・戦後半世紀を超す期間になされた量子エレクトロニクスの前線開拓の研  
  究,特に,
   メーザーやレーザー発振の基本理論の構築
   メーザーやレーザーの雑音の基本となる STT 理論の構築
   レーザー分光学の推進とこれを基にしたレーザー 周波数の超安定化 の研究が挙げられるのではなかろうか。
 霜田の誕生から 100 年間,電波と光の科学と技術は 劇的な発展を遂げてきたが,その要所で,霜田は歴史的な貢献をなしている。そうした霜田の主要な研究に関し,連続してヒアリングを行った。ヒアリングの動機は 54 頁に述べてあるが,以下に,幾らかの補足をしておきたい。
 本ヒアリングのもともとの動機は,霜田が戦時中に集中的に行った海軍のマイクロ波レーダー受信機であり,特に,鉱石スーパーヘテロダイン受信機に必須と なる鉱石検波器を実用化し,受信機を高性能化する研究にあった。この研究期間は 2 年弱だが,聞き手の興味と話し手の熱意が高まったため,戦後のマイクロ波研究,メーザーやレーザーの誕生と発展への霜田の貢献,霜田の幼少期や学校での経験や教育,霜田の物理教育への寄与についても,話を伺うこととなった。このため,ヒアリングでは,新たな聞き取りメンバーの参加・協力も得て,実現したものである。
 このような経緯もあり,戦時中のレーダー研究は短期間であったが,詳しい聞き取りを行い,連載 2 回分として纏めることとなった。他方,その後の数十年に及ぶメーザーやレーザーの研究に関する聞き取りは, 紙面の都合もあり,同等の詳しさで扱うことはできず, 内容を圧縮し,駆け足になっている。この部分に,主たる興味をお持ちの方々や読者には,ご容赦を願うほかはない。幸い,霜田のメーザーやレーザーに関する研究の詳細は,多くのオリジナル論文・解説論文・専 門書に記されているので,それらを参考にしていただきたい。
 逆に,本ヒアリングでは,学術論文や専門書には, あまり述べられていない事項をできるだけカバーするように努めている。例えば,聞き手から,「アインシュ タインにより誘導放出の概念が提示されてから,メーザーが誕生するまで 50年を要したのはなぜか」という素朴な疑問が霜田に提示された。これに対し,霜田は「アインシュタインの誘導放出理論では,光(電磁波)の 粒子性に基づくフォトン数の増大を論じているが,光 (電磁波)の波動性に基づくコヒーレンスに関する問題意識がなかったため,メーザー概念を直ちに誕生させるに至らなかった」ことを指摘している。タウンズや霜田など,少数のマイクロ波の研究者が誘導放出における電磁波のコヒーレンスの問題に気づくことで,メーザーが誕生・発展したのである。
 霜田によれば,この誘導放出におけるコヒーレンス に関する問題意識は,レーダー用多空洞マグネトロンにおける発振周波数の安定性と不安定性の問題にそのルーツがあり,その原因でもある空洞共振器のモード 間の連成振動と深く関係しているという。特に,アンモニア分子の量子論的連成振動を用いたメーザー発振器の登場の際に,マイクロ波発振のコヒーレンスの重要性が直ちに把握できたことを述べている。1953 年の 霜田とタウンズの東京での邂逅は運命的なものであり, 1954 年のメーザー誕生の直前に始まったこの霜田とタウンズとの学術的交わりが契機となって,その後に多くの研究上の実りを齎(もたら)すことになった。そうした背景には,両者が共に,戦時中にレーダー研究に従事し,共通の発想に到達していたことによるとの説 明には,大いに感銘を受けた次第である。
 本インタビューは,霜田の100 年に及ぶ活動を記しているが,工学と理学の間を,また,実験と理論の間を, 自由に往き来して卓越した業績をあげてきた物理学者・ 工学者の回想として,味読していただければ幸いである。本ヒアリングを通じて聞き取りグループ全員が等しく感銘を受けたのは,霜田光一の独自の研究スタイルが,物作りのスキル,実験における創意,数理解析 の全てにわたる力量によって生み出されてきたことに ある。Mens et Manus は MIT の教育・研究のモットーであるが,まさに霜田のことをいっているようにも感じられる。

反省と希望

霜田光一

 2016 年 5 月以来,3 年余りの長期のヒアリングによって,マグネトロンの不安定な発振スぺクトルの研究を初めとして,幾多の未発表の研究の意義と重要性が顕らかにされた。また,別々に発表されたいくつかの研究の繫がりが見いだされた。
 これらについて,ヒアリンググループの刺激と励ま しに深く感謝する次第である。
 発明王エジソンいわく「失敗は成功の母である」。本書は一連の成功物語のように見えるが,これには表に現れない失敗物語が付きまとっている。一般論として も言えることであるが,優れた研究は発表されたものの何倍もの失敗の上に達成されたのである。
 本文では,小学生のとき反射望遠鏡を作るのに失敗したこと,中学生のとき蒸気機関車のボイラー作りに失敗したことが書かれている。前者は1966 年,理化学研究所で遠赤外レ一ザ一の反射鏡を作って,84.2μm の D₂O レ一ザ一を発振させるのに役立った。これは世界 で最初の,レーザーによる光速度測定に用いられた。 後者は,ナ卜リウムのマイクロ波分光と,メーザ一の 周波数可変空洞共振器の製作技術に生かされている。 戦時中に高感度で安定な鉱石検波器の製作法を確立するまでには,数多の失敗があったことは,いうまでもない。
 論文の内容が正しくなかったという恥ずべき失敗もある。これにより,その後の発表は入念に検討して, 推敲し改筆している。
 最終章は未解決の課題の羅列のようになっているが, これらは現在なお進行中の研究テ一マである。そして, その中には量子技術の基礎概念など,未来に発展する 研究の種子が含まれていると思われる。
 長寿のおかげで,今も課題の探求と独創的実験を続 けている。あるいは,創作活動を続けているので生き長らえているのだろう。さてどちらが本当だろうか?

第Ⅳ章 【レーザーの誕生とレーザー科学・技術の発展】

第Ⅳ章の位置づけとその概要

 本書は,第0章で述べた通り,マイクロ波・メーザー・ レーザーに関し,世界的業績を挙げた霜田光一に,この1世紀の電波と光科学の驚異的発展に関し,経験や思いを語ってもらうものである。第Ⅰ章では,1920年の誕生から,明星学園小・中学校や旧制武蔵高校でのユニークな日々と東京帝国大学での学びについて聞き取りを行った。第Ⅱ章では,1943年9月の大学卒業から終戦 までの2年間,特別研究生の立場で従事した海軍でのマイクロ波レーダー開発,特に,鉱石検波システムの研究開発と実装について伺った。第Ⅲ章は,1945年から1960年のレーザー登場前までの15年間に焦点を当て, 東京大学でのマイクロ波研究,コロンビア大学C. H. Townes(以下,タウンズ)に招かれて米国で行ったメーザーに関する先駆研究,メーザーの周波数安定化や分子分光の研究をカバーした。この第Ⅳ章は,1958年ごろから,霜田が東京大学を定年退職する1981年までの約 20年間を中心に,レーザー登場の前後の事情,その後の関連の研究についての話をまとめたものである。特に,レーザー登場直後に行った短パルス光の発生と高速 度写真への応用,粒子加速器への応用,周波数安定化と時間標準への展開,レーザーを駆使した分子分光について記している。また,最後に,タウンズを中心に,メー ザーやレーザーに関する成果でノーベル賞を受けた研究者達との交わりについて語っていただいた。

1. 序:レーザー誕生前のマイクロ波・
     メーザー研究の思い出

聞き手:第Ⅲ章では,マイクロ波研究と1954年に生まれ たメーザーの研究について伺いましたが,今回は1960年 のレーザー登場とその後の研究についてお聞かせ下さい。
霜田:まず,戦後間もなく,東大物理教室の工作室で職 員に協力してもらい鉱石検波器を作り,2 GHzの波から 高周波を発生させるなどして,研究を進めました。この 一連の実験については,「マイクロ波の実験」と題する 論文(科学19, p.490(1949))にまとめました。また, 朝永振一郎先生が定式化した導波管回路のSマトリック スに関心を抱き,6分枝回路の研究などに活かしました が,朝永先生と共著で「極超短波理論概説」をリスナー 社から1950年に出版したことも良い思い出です。さらに,Na原子の超微細構造に関するマイクロ波分光などの研究が進み,論文を発表したところ,関心をもったタウンズから手紙が来たことはお話ししましたが,光ポンピングの業績で後にノーベル賞を受賞するフランスの A. Kastler (以下,カストレル)からも手紙が来ました。 タウンズは1953年に来日し,議論の機会があったこと が契機で米国に招いてくれたことをお話しずみですが, カストレルも招いてくれました。米国行きの決断後なの で断りましたが,パリに滞在していたら,またちがった展開になっていたかもしれません。
聞き手:1954年秋からの米国滞在についてはすでに伺いましたが,ほかに思い出がありますか。
霜田:波長約1 ㎝のクライストロンを私費で購入し,持ち帰りました。ジャンク屋から1本約75ドルで7本買いました。奨学金が4000ドル(当時の為替レートで144万円, 大学卒の初任給の100か月分以上)だったので買えました が,研究に大いに役立ちました。また,文化勲章を受けた作曲家一柳慧さんが,同じニューヨークのInternational Houseに滞在されており,一緒に食事やコンサートに 度々行ったのも良い思い出です。

2. メーザーからレーザーへの発展:先駆論文と量子エレクトロニクス会議

聞き手:先生は,1955年に帰国後にメーザーの研究を進められましたが,1960年にはレーザーが登場しました。このレーザー誕生の背景についてお聞かせ下さい。

図1 第一回量子エレクトロニクス会議(1959年9月)。
            左より,J. P. Gordon ,バソフ,H. J. Zeiger ,プロホロフ,タウンズ。

霜田:当時のメーザー研究者は,⑴低雑音の増幅器や発振器として活かす,⑵周波数標準に用いる,⑶発振の波長を短くすることを考えていたと思います。実際,低雑音増幅器は天文観測などに貢献しましたが,波長を短く し,サブミリ波や遠赤外光を出すのは困難でした。メー ザーの多くは,マイクロ波領域で発振し,原子にとって重要な赤外域や可視域とは波長が大きく離れているの で,原子を用いて,いわゆる光領域で動くメーザー,すなわちレーザーの実現可能性を探ることは自然な流れでした。そうした状況の中,A. Schawlow(以下,ショーロウ)とタウンズは,サブミリ波や遠赤外域を飛び越し, 光領域での発振の可能性を理論的に検討し,有望であることを示しました。
 光の領域は,光の検出器や窓材料が存在する点で有利ですが,周波数ωが高くなると,自然放出確率がωの3 乗に比例して増し,励起準位に十分な数の電子やその他 の励起に関わる粒子を留まらせるのが難しくなる面もあります。しかし,彼らは,ある条件のもとでは量子準位間の双極子遷移の強さもωの3乗にほぼ比例して増すため,光領域でもマイクロ波領域でも,発振に必要な条件 はさほど変わらないことを見出しました。さらに,ωが増すと,共振器内の電磁波のモード数がωの3乗に比例して増え,モード選択が困難になりますが,2枚の鏡を対 向させたファブリーペロー共振器(いわゆる1次元共振 器)を使えば,モード数が劇的に減ることも示しています。これらの解析結果を“Infrared and Optical Masers” と題する論文にまとめて1958年8月に投稿し,12月に, Phys. Rev. 112, 1940(1958)に掲載されました。量子 準位間の遷移確率をもとに,必要な励起光強度を計算 し,アルカリ原子の蒸気や結晶中の希土類原子を具体例 として,発振の可能性を示したのです。
 この論文は,発行前からpreprintの形で,私などメー ザー関連の主要研究者に届けられたこともあり,赤外や可視光メーザーへの関心が高まりました。この流れを強めたのが,翌年9月にタウンズが招集した第1回量子エレ クトロニクス国際会議です。ニューヨーク市の北,Catskill 山域のBloomingburg村のShawanga Lodgeで開かれ, 物理学者と電子工学者,実験家と理論家たち約150名が集 まりました。日本から私が,欧州からはソ連(当時)のN. G. BasovとA. M. Prokhorovら10名余が参加しました (図1)。量子エレクトロニクス,Quantum Electronics, と い う言 葉はそのころに生まれたものです。 従 来の Electronicsでなく,分光学者と電子工学者とが協力し て新分野の開拓を目指すためのものでした。しかし,こ れを境に,研究者間の関係に競争的要素が強まったように感じました。

3. ルビーレーザーとHe-Neレーザーの誕生の経緯

A. ルビーレーザー
聞き手:1960年にはレーザーが登場しますが,それま での1年間にどんな動きがあったのでしょうか。 霜田:この会議には,後にルビーレーザーの発明で有名 となるヒューズ社のT. H. Maiman (以下,メイマン) も参加し,クロムの濃度が低い,濃度0.05%ほどのピンクルビーを用いたミリ波メーザーの研究を発表しましたが, 光メーザーにも関心を抱いていたのです。

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以下は本書の目次です。

目次

第0章 霜田光一の百年と電波と光技術の進展
    -連続インタビューの趣旨とその概要-
第Ⅰ章 小学校から中学・高校,大学まで
    -工作に没頭して成長,戦時下に過ごした学生時代-
第Ⅱ章 戦時中のマイクロ波レーダー研究(上)
    -鉱石スーパー受信機の開発を中心に-
    戦時中のマイクロ波レーダー研究(下)
    -敗戦が近づく中での空洞波長計開発など-
第Ⅲ章 戦後のマイクロ波研究とメーザーの誕生・発展
    -C. H. Townes との交わりを中心に-
第Ⅳ章 レーザーの誕生とレーザー科学・技術の発展
第Ⅴ章 教育の場で~教科書,カリキュラム研究,実験教室~
第Ⅵ章 霜田の物理教育を目的とした振り子実験
    -現在も継続中の実験と思索-

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