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これからの時代は光学やエレクトロニクス中心の物理教育であるべきではないでしょうか。

東京大学 名誉教授 霜田 光一


しもだ こういち:1920年生まれ。1943年,東京帝国大学理学部物理学科卒業。
同年,同大学院特別研究生入学。48年,同研究生中途退学。 同年,東京大学理学部助教授。
59年,同大学教授。60年,理化学研究所主任研究員(兼任)。81年,同研究所名誉研究員。
同年,東京大学名誉教授。同年,慶應義塾大学理工学部教授。86年,同大学客員教授。
92年,同大学退職。93年,東京都立科学技術大学客員教授。94年,退職, そして現在に至る。
マイクロ波分光,メーザー,レーザー,量子エレクトロニクス,レーザー周波数安定化,
レーザー分光, 物理教育などが主な専攻分野。74 年,第14 回東レ科学技術賞,
79 年,Optical Society of America 第 9 回 C. E. K. Mees Medal,80年,
第70回日本学士院賞,90年,勲二等瑞宝章など受賞。

生い立ち

 まず生い立ちから話しますと,私は大正9年の生まれで,生家は埼玉県浦和市(現さいたま市)にあります。3歳の時に学校の教員をしていた父親の引っ越しにより東京の中野に移りました。その後,西荻窪に移り,結婚してからは吉祥寺に住みましたので,武蔵野界隈に80年の長きに渡り住んでいることになります。
 大学は東京帝国大学に進みましたが,小・中学は明星学園,高校は武蔵高校とすべて私立学校に通いましたから,実は官学よりも私学の方が肌に合っているのです(笑)。
 当時の私学は官学のように官僚的なところがなく自由な雰囲気がありましたので,そのような気風が自然と身に備わったと思います。
 東大を退官してから慶應義塾大学で,理工学部の設立に携わることになったのも,私学の気質に惹かれていたからかもしれません。

図1 大学の軍事訓練での一枚

 子供の頃を振り返って感じるのは,両親の教育に対する進歩的な考え方です。大正デモクラシーという時代的な背景によるものかもしれませんが,優れた教育者であった父の方針で自由に勉強することが許された私は非常に恵まれていたといえます。
 私は小学生の頃から工作が好きで,モーターを作って回したり,模型飛行機を作って飛ばしたりしていました。中学でも学校の勉強より電車や蒸気機関車の模型を作るのに夢中で,小型映画の撮影機や映写機も作りました。物つくりが好きでしたから,高校へ入学した時には,大学は電気工学科に進もうと考えていました。しかし,勉強しているうちに,次第に基礎的な方面に興味が移り,アインシュタインの本などの影響もあって,結局大学は物理学科に入りました。

太平洋戦争と研究生活

 大学に入学したのは昭和16年の4月で,その年に太平洋戦争が始まりましたから,入学してすぐに戦時体制に入ったわけです。軍事教練が厳しくなり,自由な学生生活を送ることができなくなりましたが(図1),昭和17年頃までは敗色も色濃くなく,夏休みには研究のため山中湖の寮に出かけたりもしていました。
 まだその頃は,研究のためなら閉鎖されていた寮を使用することができ,避暑と論文作成を兼ねて仲間6人と連れだって山中湖まで出かけて行ったのです。

 この時書いたのが,「風の息についての研究」というタイトルの論文です。この論文は,風の揺らぎの研究で,寺田寅彦の弟子であった平田森三先生の講義を聞き,その影響を受けて書いたものです。
 この時は論文の作成もさることながら,私がヨット部員であったこともあり,艇庫からヨットを引っ張り出してきて,みんなで乗ったことも良い思い出になっています。
余談ですが,ヨットに関しては,現代の国民体育大会にあたる明治神宮国民練成大会において2人艇で2位になったことがあります。練習は主に横浜のヨットハーバーで行っていましたが,大学対抗の試合がある時などには琵琶湖に遠征したりもしていました。横浜にしろ,琵琶湖・山中湖にしろ,地形が変わると風の状態はまったく異なってきますから,私が風の揺らぎの研究をしよう思ったのもヨットをやっていたからかもしれません。

大学院特別研究生

 昭和18年になると戦局が悪化していることがひしひしと感じられようになりました。東大の物理学科は諏訪に疎開し,文系の学生が徴兵されるに至って,われわれもある程度覚悟を決めざるを得ないと感じたものでした。雨のなか代々木練兵場で行われた学徒出陣の壮行会があったのもこの年です。
 そのような状況でしたから,大学の卒業にしても半年ほど繰り上げとなりました。夏休みを返上して授業を行い,9月には卒業し皆戦地に送られたのです。
 われわれ理系の学生に関しては文系とは少し状況が異なり,兵器開発の研究要員として残されてはいましたが,それでも大学卒業後は多くの学生が徴兵されていきました。

 同級生の多くが戦地に向かうなか,私に関しては,運命の転期というべき巡り合わせで,その年にできた大学院特別研究生として研究を続けることができたのです。大学院特別研究生というのは,大学における研究者を確保する目的で作られた制度で,その時選ばれたのは私を含めて全国で20人程度しかいなかったと思います。
 そのようなことで,大学院特別研究生として研究をすることとなりましたが,当時私がやっていたのは原子核の基礎研究でした。卒業研究は,熊谷寛夫先生の研究室でガイガー・ミュラー計数管の放電機構の研究を行っていましたから,できるならば原子核の実験を希望していたのです。しかしながら,戦時下ではそのような研究はできなくなり,最終的にはマイクロ波レーダーの研究をすることになりました。
 といいますのも,電子線回折で有名な菊池正士先生が大阪帝国大学から海軍の技研に移ってレーダーの研究を行うこととなり,熊谷先生もその研究への協力を依頼されたからです。それで,マイクロ波レーダーの研究を始めたわけです。
 昭和18年の夏頃からレーダーの理論的研究も始められ,朝永振一郎先生を始めとして,宮島竜興先生,小谷正雄先生,落合騏一郎先生,坂井卓三先生などが研究成果を挙げ,実験は海軍の技研が行いました。私の主な仕事は実験でしたが,朝永先生のグループの理論研究にもオブザーバーのような格好で顔を出させてもらいました。
 今考えて見ると,一流の日本の物理学者が一堂に会しているわけですから,この研究に携わることができたことは若い研究者として非常に幸運だったと思います。

マイクロ波分光の研究

 レーダーの研究を始めて2年後に終戦となり,海軍から大学に戻ってきたわけですが,戦後しばらくはGHQの命令によりレーダーの研究も原子核の研究も禁止されていました。そこで思案したところ,海軍から大学に戻る時に貰ってきたマグネトロンなどのマイクロ波発振器を使う研究を考えたのです。
 2年間のレーダー研究でマイクロ波に関する技術を取得していましたので,そのマグネトロンを使ってマイクロ波による実験ができないかと考えて始めたのがマイクロ波分光なのです。
 大学院を卒業する少し前に助教授になり,助手の西川哲治君や大学院生と一緒にマイクロ波分光を研究したわけですが,当時マイクロ波は最先端の分野で市販の装置もありませんでしたから,実験装置はほとんどが手作りでした。いろいろと苦労はしましたが,マイクロ波分光で調べたホルムアルデヒド分子は,後に宇宙天文学のデータになった結果も出ています。
 昭和25年頃になるとマイクロ波分光によるアンモニアのスペクトルを利用した原子時計が作られたというニュースを聞き,われわれも原子時計の研究に取り組みました。
 この時はそれまでのものより精度の良い原子時計を作ることができましたが,予想外の誤差源があり画期的な性能を得ることはできませんでした。

メーザーからレーザーへ

 そのようにマイクロ波分光を研究していましたが,マイクロ波を使った分光では吸収スペクトルしか観察することができません。そこで自然な流れとして,可視光線での分光のようにマイクロ波においても発光スペクトルを観察できないかと考えるようになったのです。
 このマイクロ波を使った発光スペクトルの観察のために考えられたのがメーザーでして,最初に本格的に研究に取り組んだのはアメリカやソ連です。私がメーザーを初めて知ったのが昭和28年で,日本で開かれた理論物理学国際会議でのことです。アメリカのメーザー研究の第一人者であったタウンズが講演後の質疑応答でメーザーについて語ったのです。メーザーは後にレーザーの発明につながり,タウンズは昭和39年にノーベル物理学賞を受賞しています。(図2)

図2 向かって左からブレンベルゲン(1981年にレーザー分光の功績でノーベル物理学賞受賞)
霜田氏,タウンズ,西川氏

 私は,その時の発表に非常に興味がありましたから,いろいろと質問をし,彼が帰国した後もメーザー開発に関するアドバイスや質問を手紙でやりとりしていたのです。そのようなことがあり,その翌年にはタウンズから招聘され,米国コロンビア大学の彼の研究室へポスドクとして行くことになったのです。
 彼の自伝にもありますが,実はその頃,理論物理学者や実験物理学者の間で「メーザーは成功の見込みがない」ということが囁かれており,タウンズの研究はそのような逆風下にありましたから,私のアドバイスや質問が非常に嬉しかったようです。
 タウンズがアンモニアによるメーザーの発振に初めて成功したのが昭和29年の4月で,私は1年間彼の所でメーザーのコヒーレンスについて研究を行いました。
 日本に帰国してからもメーザーの研究は続けました。改良したアンモニアメーザーを使って高分解能のマイクロ波分光を行い,昭和36年には高精度な原子時計を作りました。
 改良型のアンモニアメーザーによる原子時計を開発している同時期にメイマンがルビーレーザーの発振に成功し,われわれもルビーレーザーの開発に挑戦しました。当時のルビーレーザーは出力が非常に不規則で,これをどうにかしてコヒーレンスの良いものにできないかと,当時助手だった矢島達夫君や大学院生の清水冨士夫君らと共に取り組んだのです。
 ルビーロッドや反射鏡をいろいろと改良した結果,非常に綺麗な緩和発振を実現し,さらには減衰しない緩和発振も観察することができました。
 このようにして昭和40年代に入るとレーザー分光や非線型光学などを研究し,レーザー中心の研究へとシフトして行ったわけです。
 日本国内のレーザーの研究者も増えてきて,レーザー加工やレーザー通信の研究も盛んになってきました。レーザーの応用にはそのような工学的応用だけでなく,理学的応用もあるので,工学的レーザー応用は他の方々にまかせて,私は物理学や化学へのレーザー応用を主として研究することにしました。いろいろな新しいレーザー分光法とそれによる分子構造の研究を始めとして,レーザーの周波数安定化と周波数測定,それを利用した精密計測,光速度の測定とメートルの再定義の研究までも行いました。
 文部省の科学研究費の特定研究では,昭和43年度から3年間「量子エレクトロニクス」を推進し,昭和52年度から3年間は物理と化学へのレーザー応用を中心に「レーザー分光による励起状態の化学」の特定研究を推進しました。また,理化学研究所では昭和52年に「レーザー分光」,「レーザー光化学」,「新レーザー技術」の3部門からなるレーザー科学研究グループを設立して,理化学研究所におけるレーザー同位体分離を初めとして,物理的,化学的および工学的レーザー研究の発展に寄与しました。


研究と教育

 現在はそうでもないのでしょうが,私の時代は先生方から「大学では研究だけでなく,教育も責任を持ってやらなくてはいけない」とよく言われたものです。平田森三先生などはその最たる人で,私が物理教育の道に入ることになったのも,平田先生の教えによるものが大きかったと思います。
 実際に1960年頃にアメリカで物理教育の現代化プロジェクトにより組織されたPSSC(Physical Science Study Committee)のセミナーが日本で最初に開催された時は,平田先生のお誘いを受けて参加しました。実は,それは私が研究として物理教育に取り組んだ第一歩だったと言っていいかもしれません。
 PSSCのセミナーに参加した当時私はまだ物理教育学会には所属していませんでしたから直接物理教育について発表するといったことはありませんでした。しかし,戦後教育制度が新しくなり,高等学校の物理の教科書もそれに伴い新しく作る必要があるということで,茅誠司先生が中心となって物理の教科書を作成した際には,執筆者の末席に加えさせていただきました。
 この教科書は昭和25年頃から執筆に取りかかり28年に検定が済みました。執筆陣は茅先生を始めとして,平田先生,山内恭彦先生,高橋秀俊先生,蓮沼宏先生,木原太郎先生といった蒼々たる面々でした。
 その他にも大学生用の教科書も昭和26年に出版しています。当時は出版事情が今ほどよくない時代ですから原稿ができてから印刷が終わるまでに1年以上はかかっていました。
 教科書の執筆には苦労が伴うだけでなく,多大な労力を必要としますが,さまざまな人から「この教科書で勉強した」という言葉を聞くと,嬉しさはひとしおのものとなります。
 当時は戦後の新しい教育制度ができ,教育方法を一新しなければいけない時でしたから,理科や物理教育にしても,「大学の教員がその責任を持つべきだ」といった考えを持っていた方が多かったと思います。
 今振り返ってみると,私は新しい制度の始まりが人生の岐路になっている場合が多いような気がします。大学院特別研究生もそうですし,助教授になった時も新制大学などがスタートした年にあたりますから。


テクノロジー時代の物理教育

 高校の物理の教科書に関してはずいぶん後まで関与しましたし,学習指導要領やその解説書を作成する委員も長年務めてきました。
 しかし,昭和55年の学習指導要領の改訂で「理科I・II」の教科書ができた時に,忙しさと意見の相違のため,委員を辞退することに致しました。この時は,保守的な物理教育のあり方により,新しい考えが取り入れられなかったからというのが本音であったと思います。
 以下に述べるのは昨年の世界物理年関連で講演したことですが,新しい物理教育のあり方という点でお話ししましょう。
 体系的に物理を学校で学ぶようになった時に,従来まず最初に学習するのがニュートン力学です。ここで,学生はニュートン力学が物理の基礎であり,ニュートン力学なくしては物理は成り立たないといった観念を教えられます。これは大学の教養学部の物理においても同様です。
 ゆとり教育と呼ばれた昭和55年の学習指導要領の改訂において高校では必修科目として理科I・IIが作られました。
 そもそも,理科I・IIという科目が作られたのは,授業の時間的制約あるなかで必修として教えるには自然科学の重要な部分を総合した科目にする必要性があったからです。
 しかし,自然科学のすべての分野を体系化することは難しいため,最終的に出た結論は,「物理・化学・生物・地学のそれぞれから基本的事項を集める」というものでした。
 この時物理に関しては,「物理とは物のことわりであり,物には質量があるから,質量がなんであるかをまず教える必要がある」という考え方で進められたのです。
 これにより,物理は力学を基本として教えるという学習指導要領になりました。これは,文系の学生に対しての配慮でもあります。
 しかしながら,近代物理というのは必ずしもそうではありません。例えば,カオスや非線形光学,あるいは複雑系の物理などがそうです。これらのなかには質量はあまり出てきません。このような例は幾つでもあります。
 明治以来の伝統で,ガリレオやニュートンの力学をこれまで最初に教えてきましたが,そういう伝統もそろそろ考え直して新しい物理を考えるべきではないかと思うのです。
 現代はコンピューターやインターネットを始めとして,CDやDVDなどの光ディスクといった最先端分野のすべてが光学とエレクトロニクスを基幹技術としています。
 そこで,今の時代背景に合うように,力学ではなく光学とエレクトロニクスを中心とした新しい物理教育を提案したいのです。
 電磁気の教育にしても,必ず最初にクーロンの法則を教えますが,現代の科学技術を学ぶのにクーロンの法則が基礎かどうか疑問だと私は考えています。歴史的な順序で学習するよりは,現代的に体系を作り直して教育する方が効率的でしょう。しかし,それには教える側の負担や不安があります。教育というのは大変保守的なもので,自分がかつて教わった通りに教えるという傾向がどうしても強いものです。
 「自然科学の真理は変わらないから,それでいい」と思っている方がいるかもしれませんが,自然科学は進歩しています。進歩に合わせた変革をやめてしまった学問は伝統芸能になってしまいます。
 昨今話題になっている理科離れという現象もその辺に原因の1つがあるのかも知れません。少子化で日本の科学技術を支えて行く若い人材の確保が厳しくなるなか,そろそろ手を打たなければ日本の将来は危うい気がしますが,皆さんはいかがお考えでしょうか?

(O plus E 「私の発言」2007年1月号, 14~18ページ掲載。
ご所属などは掲載当時の情報です)


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