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ポストトゥルースとアンビエント〜『Aマッソのがんばれ奥様ッソ』から考えるフィクションの現在

 Tverで「Aマッソのがんばれ奥様ッソ」が再配信されているということで、編集長・松崎が2022年の春に書き、結局本誌には収録されなかった原稿を公開します。
 ネタバレを含みますので、鑑賞後に読まれることをおすすめします。

 本稿では、ポストトゥルースの状況下においてフィクションの説得力は何によって担保されるのかについて考察する。また、その上で『Aマッソのがんばれ奥様ッソ』がいかに現代におけるフィクションの形としてアクチュアルであるかを分析していく。

①陰謀論とフィクション

 新型コロナウイルスの流行はさまざまな陰謀論を生み出した。ウイルスの出自について、ワクチンの効果について真偽の不明な情報が飛び交う状況は現在も続いている。「反ワクチン」「コロナはただの風邪」といった主張のSNSアカウントを覗いてみると、自分とって都合のよい言説のみが集められていることが分かる。

 もはや人々は真実を必要としていないのかもしれない。人々が自分にとって有効な「真実」を恣意的に取捨できるのであれば、誰もが共有できる前提が存在しないことは明らかである。消費社会化の中で共同体の崩壊が起こり、共通前提が失われたことは、宮台真司の1993年の著作『制服少女たちの選択』において社会の島宇宙化としてすでに言及されている。あるいは、宇野常寛が『教科書を作る会』の意図的な歴史修正さえ厭わない姿勢に警鐘を鳴らしたように、トランプ当選などに付随して「ポストトゥルース」という言葉が囁かれるずっと前から人々は、それぞれの真実の中に生きていた。コロナ禍による陰謀論の氾濫はそのことを2020年代に加速させ、より見え易くしたと言えるだろう。

 そのような時代においてフィクションはどのように説得力を持つことができるのだろうか?フィクションも一種の陰謀論と変わらなくなっているのが現状である。今やフィクションが立脚している現実自体がフィクションであるという可能性を大いに孕んでいるのなら、フィクションは説得力を失い、アクチュアリティを持たないただの絵空事になってしまうだろう。

 真実が一定ではなくなった時代においてフィクションはちょうど宙に放たれた風船である。拠り所を無くして浮遊している。その紐を掴み、地上に繋ぎ止めることはできるのか?そのためにはアンビエント・ミュージックのコンセプトを流用する必要があるというのが筆者の主張である。


②アンビエント──空間そのものの音楽

 アンビエント・ミュージックはイギリスの音楽家・ブライアン・イーノによって提唱された。アンビエントの最大の特徴は空間そのものを音楽と捉えてしまう点にある。タワー・レコードのサイトでは「対峙して聴く音楽とは異なり、場と一体化した音楽空間に身を置くという音楽概念」であると定義されている。このように、アンビエントにおいて「外部と内部」という区別は存在しない。楽器から発せられる音とその空間の音は等しく扱われるのである。その空間に鳴っている音すべてを「音楽」と捉える点に最大の特徴がある。

③「越境」のための装置としてのアンビエント

 アンビエントを導入したポップスが増加したのは、パンデミックの時期と一致している。宇多田ヒカル『BADモード』の表題曲の間奏では、すべてが曖昧さへと解体されていくような、何らかの境界線が溶けていくようなサウンドスケープが展開される(また、「ネトフリ」や「ウーバー」といったネームドロップが多用されているのも不確かな現実にどうにかして根を張ろうという試みに思える)。また、アッパーなクラブ・ミュージックを鳴らしていたパソコン音楽クラブは、2020年には『Ambience』と名付けられたインスト作品を発表している。正確にはアンビエントではないものの、自粛期間中のムードを示す言葉として「アンビエンス」が採用されたことは注目に値するだろう。さらに、2021年のアルバム『See-Voice』では、水中にいるようなサウンドテクスチャーの中でオブスキュアな音像を奏でている。また、三田格との対談でアンビエント感の必要性についても語っている。このように、コロナ禍と対応するように、ポップスのフィールドでアンビエントが導入されることが増えているのは確かである。

 コロナウイルスの流行は人々の分断を加速させた。アンビエントのアイデアはその境界を取り払い、対立する要素さえ一緒くたにしてしまう。それは特定のイデオロギーを支持しないということとも近い。その都度適切な選択をすること。それは画面から押し寄せる情報の波に思考停止してしまっている現代人への処方箋とも言えるだろう。
 物事をありのまま並列に見ること、その態度をアンビエント的と呼ぼう。


④フィクションのアンビエント化

 ここからが本題である。前段まででは、ポストトゥルースの状況下、特に昨今のコロナウイルスに関連する陰謀論の氾濫が、フィクションが立脚する土台を揺るがしている。ではその状況で特定の言説やイデオロギーに(完璧には無理だとしても)絡め取れないようにするためにはアンビエントのアイデアを援用するべきであるということを整理した。

 フィクションにおけるアンビエント化の意味合いは、また少し違っている。フィクションのアンビエント化最大の特徴は「語り手のパーソナリティとフィクションの境界線が曖昧になることで、語り手のパーソナリティにフィクショナルな効果が与えられる」ということである。

 これはどういうことなのか。以下『Aマッソのがんばれ奥様ッソ』を分析していく中で解き明かしていきたい。


⑤『Aマッソのがんばれ奥様ッソ』

 『Aマッソのがんばれ奥様ッソ』は、BSテレ東で2021年12月27日(月)深夜11時30分から4日連続で放送されたテレビ番組である。Aマッソは、ワタナベ・エンタテインメント所属の加納(主にツッコミ)と村上(主にボケ)からなるお笑いコンビであり、彼女らのBSテレ東初の冠番組である。公式HPでは「芸能界のおせっかい奥様が日頃大変な思いをしている奥様たちのお悩み解決に大奮闘!笑いあり、涙ありのハートウォーミングバラエティ」と紹介されている。

 四夜連続で放送されたこの番組は、芸能人が二つの「困っている」家族のもとに派遣される。第一回と第二回では、金田朋子が石井家に派遣される。石井家は1男5女の大家族である。大家族である理由は美羽と千鶴の2人を連れ子として持つ翔が3人の連れ子を持つ真奈美と結婚したからだ。序盤は至って普通のバラエティのようであるが、徐々に現れる違和感に視聴者の多くは気がつくだろう。父親である翔と妻・真奈美の連れ子である花梨が家庭内不倫の関係にあり、ふたりが真奈美の愛犬を惨殺したということが映像や発言の端々から示唆される。このようにこの番組は、奥様応援バラエティの形をとったホラーテイストのフェイクドキュメンタリーなのである(実際、番組の最後には「この番組はフィクションです」と表示される。

 第三回、第四回では紺野ぶるまが人口数十人の村・式中村に住む一ノ瀬家を訪れる。この村の村民は「ワイマグ会」という団体に洗脳されており、村ぐるみで密かに大麻を栽培している。また、一ノ瀬家の娘・莉々子が五穀豊穣と子孫繁栄の舞という名目で、村長にレイプされたことも示唆されている。

 また、その模様をスタジオで見守るAマッソの二人がいっさい不審に思う様子がないこと、村にあったものと同様の数珠がスタジオにも飾られていることからAマッソもグルなのではないか、などネット上にはさまざまな考察が書き込まれている。

 このようなドキュメンタリーを模したホラー作品はすでに多く存在している。フジテレビで放送された『放送禁止』はその代表例である。しかし、この番組はそれらとは一線を画している。それは、フェイクであることがAマッソのふたりのパーソナリティに作用している点である。言い換えれば、フィクションの境界が消え去り、現実のふたりさえもがフィクショナルな存在として立ち上がってくるという点である。これはどういうことか。VTRではなく、スタジオのAマッソふたりのトークを中心に見ていくと、その意味がよく分かるだろう。

 『奥様ッソ』が奥様をテーマとしている理由は明白である。2021年に週刊誌によってふたりが結婚していたことが報道された。「おもんないと思われたくなかった」という理由から公表していなかったために、お笑いファンの間では驚きの声が上がった。つまり、週刊誌報道による不本意な公表を逆手に取ったのがこの『Aマッソの頑張れ奥様ッソ』なのである。ここでふたりはあからさまに「奥様」的な発言を繰り返す。「使い古したTシャツを切って隙間を掃除する」、「新聞紙で窓を拭くと汚れが取れる」といった家事のテクニックなど旧時代的ともいえる奥様発言がつづく。

 しかし番組がバラエティを模したフィクションであると判明していくほど、ふたりの発言の真偽が揺らぎ始める。前述の「Tシャツで汚れが取れる」話を加納は「ムカつく先輩のライブグッズの新品のTシャツを使う」と続ける。初見時には多くの視聴者は、普段の尖った芸風から、その発言を特に奇異なものとしては受け止めない。ボケの一つと受け止めるだろう。しかし後から振り返るとそこからすでにフィクションは始まっているのである。

 一方で正反対のことも起こる。番組が進んでいき、ふたりの発言がフィクションであるという可能性が浮上する。しかしこの番組はどこまでがフィクションであるかは明白ではない。SF小説が実際の科学の理論に基づいて語られるように、ここではAマッソの二人のエピソードが事実であるということは、それらがフィクションであるということとまったく同等の可能性を持っている。観客は次第にAマッソの二人のエピソードがフィクションか否かの判断出来なくなる。加納は本当にハムスターの鳴き声で保湿しているのか、村上は本当に姑からダメージジーンズをもらったのか、そしてそもそもAマッソのふたりは本当に結婚しているのか。すべてがフィクションである可能性を帯び始める。VTRの明らかにチープなフィクションはそれ単体で成立するというより、初めからAマッソのふたりのパーソナリティに作用するように企図されていたように筆者には思える。

 このように『Aマッソの頑張れ奥様ッソ』では、フィクションがそれ単体で作用することを意図されていない。そのフィクションが「現実」のふたりにフィクショナルな視点を付与する。そのための装置としてフィクションが用いられている。一からフィクションを立ち上げるのではない。キャラクターとして売り出されやすい芸人という職業の特徴を逆手に取り、むしろそのパーソナリティを揺るがすことでフィクションを生み出す。それはエッセイ的な書き口の中にフィクションを立ち上げることとも近い。個人のパーソナリティという「とりあえず」は疑いようのないものを、虚構というフィルターを通すことで、変容させる。そうしてフィクションを機能させる。

 あらゆる言説がポストトゥルースの状況下でフィクション化していくのなら、ぼくらがアクチュアルな物語を語るには、あからさまなフィクションと個人の境界という堰を、(アンビエント的に)切らなければいけない。そしてフィクションが個人に逆流して作用した時、それは自然に僕らの認識を揺るがす。それはかつて多くの偉大なフィクションが行なってきたことと同義である。

(文責:松崎)


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