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衣服について思うこと。

今回のnoteは小川によるエッセイです。
衣服という皮膚と季節について

季節の変わり目は、決まって物悲しくなる。自分のもとを過ぎ去った沢山のものごとを数えてしまう。大学の春休みが折り返しを迎えて、残り1ヶ月を切った。折り返しとは言っても、冬休みからほとんど地続きだから、もっと長い感じがする。春休み、なのに、そのほとんどは春ではなかった。春が来たと言えるのはいつからだろうか。

私にとって、それは春服を買いに出かけたときだ。冬の昼間の柔らかい陽射し。あの中で日向ぼっこをしながら、空想に耽るのがすごく好きだ。この昼の陽射しが、少しの鋭さを帯びたころ、もしくは向かい風が強くなったころ。春がそこまで来ている、と思う。春服でも買いに行くかあ、とようやく重い腰をあげる。いつか行くであろう花見を思って、その陽気の中の君を思い浮かべて。

春服を買いに新宿まで行く。私くらいの年齢の女の子が服を買いに行くところって、原宿、渋谷、下北沢、あとは新宿あたりだろうか。原宿は、私には少し奇抜すぎる。渋谷、ここは人が多くて極力行きたくない。下北沢。古着を着てしっくりきたことがない。こうなるとやはり、新宿が私に合っている。消去法なのだ。

春服を選ぶ。
〈試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。〉ルミネの広告でこんなのがあった。本当だろうか?なんだか言葉の強さに納得させられてしまいそうだけれど、試着室ですることは、その服を買うかどうかの判断である。この服を君にみせたい、と思って買ったところで、買った服を君が見るのはたった一回で、そのあとは、もともと持っている服になる。洋服を選ぶときに重要なのは、2回目以降どう着回すかであって、1回目に君がどう見つめるかではない、と思うのだけれど、我ながらロマンに欠けているな、とも思う。

春服を着る。「衣服は人間の皮膚に次ぐ第二の皮膚である」という考え方がある。私が思うに、今日着る服を選ぶとき、その時々で着るべきものは移り変わっていく。第一の皮膚が剥がれ落ちて、やがて全てが生まれ変わるように、第二の皮膚も代謝によって移り変わるべきだ。洋服の(無印系とか地雷系とか淡色系だとか)決まった系統を持ちたくない。初めは本当の好みだとしても、途中から維持するための嘘になっていく。同じ系統にこだわるということは、いつか自分の好みの変化を受け入れられなくなるということ。それが怖い。

4年前、森美術館の塩田千春展のキャプション



毎朝、着る服と新しい組み合わせを選ぶ。停滞せず変わりゆく自分と、過ぎ去ったものごとは、そうやって受け入れる。着る服は1番外側の皮膚なのだから。

(文責:小川)

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