空地 Vol.4 文学のふるさと、架空のノスタルジア 巻頭言
YouTubeに上がっている大谷翔平の高校時代から現在までの映像にNewjeansの「Ditto」という曲をつけた動画のコメント欄には、さまざまなユーザーの大谷との架空の思い出が書き込まれている。アイドルのグラビア──それも制服を着たノスタルジックな写真に対して、多くのファンが存在しない思い出が蘇る、とコメントしている。ネットカルチャーと密接した遠泳音楽と名づけられた音楽ジャンルは、存在しない記憶を呼び起こすことをその定義としている。
近ごろ、そういった架空のノスタルジアと呼ぶべき現象を見かけることが多くなった。それにはおそらく、ノリやミームといったソーシャルメディア上でのコミュニケーションと大きく関わっているのだろうが、どうしてもぼくはそこに現代性を見いだしてしまう。大きな物語が、共同体が失われて久しい現代における人々の《帰る場所》、それは架空のものにしかありえないのかもしれない。そんな気がしてくる。
前のページの三枚の写真──これは友人が撮った映像からキャプチャーしたものなのだが、ちょっと眺めてみてほしい。何だか、ノスタルジックな気持にならないだろうか。知らない街の知らない風景なのに、ぼくたちはそこに架空の郷愁を覚えてしまう。
評論家、音楽ディレクターの柴崎祐二は、昨今のレトロブームについて「レトロとはいまや、それが喚起する歴史性の重力から解放された、あくまで「なんかいい」ものなのだろう」と指摘しているが、ノスタルジアもまた、実際の故郷や血縁に対して生じるものではなくて、そういう「なんかなつかしい」ものへと変容してきているように思える。つまりそれらは代替可能であり、そこに唯一性はない。
かつて安吾は「むごたらしく、救いのないもの」こそ文学のふるさとであると言った。それこそが救いであるとも。しかし、現代においてはそのゆりかごさえも、架空のヴァーチャルなものへと変容してしまったのではないか。その時、「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」はどうなるのだろう? それもまた、架空で代替可能なものになってしまうのだろうか。あるいはそれゆえにむしろ、より孤独を深めるのだろうか。
分からない。しかし安吾はまた、「大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではない」とも言う。ふるさとが架空のものであるとしても、ぼくたちはそこから出発しなければならない。それだけは明確である。
その道程をともに歩んでくれた同人たちに、心から感謝を送りたい。ぼくたちが本質的には孤独だとしても、たったひとりでこの雑誌を完成させることはできなかった。本当にありがとう。それからもちろん、今この文章を読んでくれているあなたにも。この後につづく七篇の小説も楽しんでいただければ幸いである。
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空地は、日芸と東京芸大の学生による、同時代の生活者のための文芸誌です。このたび第四号を刊行します。
今号のサブタイトルは「文学のふるさと、架空のノスタルジア」。Y2Kや「エモい」など、そのもの自体ではなくそれが醸しだす「なんかなつかしい」という感情が氾濫する現代において、かつて坂口安吾が言ったような「文学のふるさと」はどこに規定しうるのか?
そんな問いのもと、現代の生活者からの回答ともいうべき七篇の小説を掲載。
収録内容
【小説】
「サマーアンセムをもう一度」松崎太亮
「きみのドロシー②」中村渚
「古地図の皺の上」野村穂貴
「ドキンは待たないの」安孫子知世
「電話の電波、列車は電車」今井詩乃
「コルクボードが揺れる」藤原尭大
「街とその鳥の、」壹岐悠太郎
〈データ〉
【タイトル】『空地 Vol.4 文学のふるさと、架空のノスタルジア』
【サークル名】空地
【発行日】2024年5月19日
【サイズ】26cm/124p
【定価】700円
・文学フリマ東京37にて頒布
ブース:E-15
5月19日(日) 12:00〜17:00
東京流通センター第一展示場にて
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