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「オープンダイアローグを使いたい」という声の意味と、その行き先について

この記事は2021/01/20配信のメルマガ用の文章を微妙に修正したものです。ずっと話題に出したかったことなので、メルマガ以外の場所にも載せてみたいと思います。(ふ)

こんばんは、ふゆひこです。今日は令和3年1月19日、いまは午後7時13分です。いつもはメルマガ向けに夫婦でダイアローグをしているのですが、今月はちょっと趣向を変えたいと思います。

というのは「おうちの人間カンケイ」を対話的にする方法については、だいたい同じような話に行き着くのということが分かってきたからです。「最初にセルフコンパッション」「異なる時間(ポリリズム・ポリタイム)の尊重」「フツウを止める」。本当に大切なことはそんなにたくさんないのかもしれません。

代わりといってはなんですが、今月は20日と30日の2回にわたり、いつもとちょっと異なるテーマでお送りします。今夜はふゆひこが下書きして、けいこが目を通し、二人で細かな修正をしました。

今日ことばにしてみようと思ったのは、私たちがたびたびお聴きしてきたお困りごとについて。

「病院や主治医、いまの治療が信頼できない。オープンダイアローグを使って回復したい」というご相談についての、私たちの気持ちです。

「対話的な態度で行う対人サービス全般」がオープンダイアローグ

2018年7月に「相談室おうち」(当時)を開いて以来、私たちのもとには上のようなご相談がたびたび舞い込みました。

「オープンダイアローグ」について、「精神科の新しい治療法」というイメージが広く持たれている印象が私にはあります。そして、いまの治療や医療に対し「うまくいっていない感じ」を強く持っている人ほど、その期待を大きく膨らませているのではないでしょうか。

その期待の大きさは、医師や医療機関が実施するのでなくてもいいから「オープンダイアローグ」というものを使ってみたいと、私たち精神保健福祉士の相談室に遠方からもご相談が寄せられることに表れていると思います。

実際、オープンダイアローグは医療機関でなくても実践できると私は考えています。私たちは「治療」はできませんが、オープンダイアローグはできるのです(クオリティは別問題ですが)。この話がちょっとややこしく聴こえるとすれば、それは「オープンダイアローグ」の定義やそこにイメージしているものが人それぞれ異なることに理由があるのだと思います。

「オープンダイアローグ」と聴いてまず思い出されるのが、発祥の地・ケロプダス病院(精神科の病院)で行われてきた対話的な治療です。日本では琵琶湖病院さんの実践がこれに最も近いのではないでしょうか。

私は、精神科医療機関によって治療として行われる「オープンダイアローグ」を「狭義のオープンダイアローグ」と呼んでいます。ところが、聴くところによると当のケロプダス病院では、自らが提供する医療をもはや「オープンダイアローグ」という特別な名前では呼んでいないそうです。なぜなら、対話を通じて治療するのがすでに「通常の精神科医療」になってしまったからです。

『開かれた対話と未来』や森川すいめいさんの文章では、対話主義は態度であるというような表現が使われており、私も深くうなづくものです。「対話的な態度(対話主義)でもって行う対人サービス全般」こそオープンダイアローグなのだと私は思います(私はこれを「広義のオープンダイアローグ」と呼んでいますが、dialogical practices(その他の対話実践)のような括られ方がポピュラーなようです)。

それを『TEDx』になぞらえて「対話主義x」と表現するとすれば、「対話主義xケロプダス病院」が「(狭義の/オリジナルの)オープンダイアローグ」。同様に、対話主義が精神科病院(医療)だけでなく福祉や教育、企業と組み合わさることもあるでしょう。私はそれらも等しく「オープンダイアローグ」と呼びたいと思います。そして、それらが対話的であることが当たり前になったとき、それらは「オープンダイアローグ」という特別な名前で呼ばれる必要がなくなる。そういうことなのだと思います。

私たちの「相談室おうち」は「オープンダイアローグ」を掲げてきましたが、病院ではありません。「対話主義x」の考え方をあてはめると、私たち夫婦がこれまで従事してきた障害福祉やメンタルヘルス、ひきこもりや家族関係に関する相談支援(ソーシャルワーク)に「対話主義」を掛け合わせたものが私たちの行う実践です(対話主義xソーシャルワーク)。私たちはそれをもって、しばらくの間「オープンダイアローグ」と呼んでいました。

日本(の、病院の外)でオープンダイアローグをするということ

そんな「相談室おうち」の掲げる「オープンダイアローグ」という名前に一縷の希望を見出されて、冒頭のようなご相談がたびたび寄せられてきました。「病院や主治医、いまの治療が信頼できない。オープンダイアローグを受けて回復したい」。

一般の方の持つ「オープンダイアローグ」のイメージに思いを馳せれば、そのご相談は、現在の通院/入院先が対話主義での治療を行っておらず、また狭義のオープンダイアローグ(対話的な精神科医療)を提供する医療機関がお住いの地域にないために、同じ「オープンダイアローグ」の冠を掲げる私設相談室に藁にもすがる思いで寄せられたものだろうことが想像できます。主治医や入院先が「話せる(対話してもらえる)」と感じられる存在であれば、わざわざ遠方の、医療機関でない相談室を、全額自費で使おうなどとは誰も思わないわけですから。

要は、よりよい治療を受けたい(という気持ちを分かってほしい)、ということなのではないかと思います。

これまで「主治医や通院・入院先と治療方針についてうまく意思疎通できない」というご相談を受けるたび、私たちは悩んできました。

そもそも、医療職でない私たちは、「オープンダイアローグという治療を受けたい」というご要望に対し、「はい、わかりました」とは言えません。

また、現在担当しておられる医療スタッフの皆さんを抜きにして対話ミーティングをすることがどのような影響をもたらすかを心配しました。例えば、医療者さん抜きで対話ミーティングを開始して、その過程で一時的に精神症状が顕著になり医療職や病院のバックアップが必要な事態になったとき、それを得られる関係でいられるだろうか・・・。

だからといって、会ったこともない医療スタッフの方々にどうしたら対話ミーティングという謎イベントにご参加いただけるか、その足がかりも分かりませんでした(「早期ダイアローグ」という方法をとって病院スタッフさんとお話しし、うまくいったことが一度ありました)。

病棟の中で対話ミーティングをさせてもらえるだろうか。

オープンダイアローグが精神科「医療」の方法だと認知されつつある中で、医療職でない私たちがそれを標榜していることは、病院にはどう映るだろう。そもそも標準的な医療の世界からは、オープンダイアローグ自体が怪しげな代替医療と思われていないだろうか?

そのような不安を抱えつつも、そのこと自体について、最初にご相談くださった方(多くはご家族で、精神科にかかるお身内のためにオープンダイアローグを受けさせてあげたいというご希望からでした)との対話を続け、一歩一歩、「局面」というか、プロセスを進めて行きました。

その結果、病院に入って対話ミーティングを開催するのを許されたこともありましたし、反対に、お医者さま抜きで(知らせずに)対話ミーティングを開くことになったケースもありました。私たちの関わりとの関係は分かりませんが、結果的にお薬が減った方や全く要らなくなった方も複数います。診断が変更になった方もいらっしゃいました。

私たちは基本的に、いま現在診てくださっている主治医や通院/入院先の病院と、ご相談者さんやご家族との関係が、うまくいくようになることを願っています。だから、冒頭のようなご相談を受けたときに真っ先に思い浮かぶのは「ご相談者さんのこの気持ちは、どうしたら病院の人に伝わるだろう?」ということです。

だから、病院のスタッフさんが参加する形で対話ミーティングができないか、その可能性について考えたり、そのことについてご相談者さんのお考えを聴いたりします。また、対話ミーティングの開催希望があること(開催すること)だけでも主治医に伝えておく必要がないかをご相談者さんと対話することもよくあります。その場に参加できなくても、そこで聴かれたことが少しでも届くように、来られなかった方宛てに、私たちが「リフレクティングレター」と呼んでいるお手紙を書くこともありました。

それらの試みは、ひとつひとつ異なるケースの、ひとつひとつ異なる局面で、そこにいる人と対話を続け、どうしたらいいかを考えて編み出されたものです。むろん正解はありませんし、これからも工夫を続け変化していくものだと思います(それが「日本(の、病院の外)でオープンダイアローグをするということ」ではないでしょうか)。

精神科医療との対話を目指しながら明日の転院先を探すという現実

他方で、ご相談者さまからご連絡いただいた直後には「これまで誰が力になってくれましたか」「対話ミーティングに参加してほしいのはどなたですか」ということもお尋ねします(フィンランドでもなされている、基本的な質問です)。そのとき、そのご回答の中に主治医や病院スタッフの方が含まれないことがあるのです。私たちはそれをとても残念に思います。

これまでの学びやトレーニングを通じて、私たちはフィンランドの中の、ケロプダス病院があるエリア(西ラップランド地方)のエピソードをいくつか聴きましたが、主治医や病院と患者や家族との関係がこのようになっている例を聴いた記憶がありません。私たちが聴いたのは、ケロプダス病院のように「医療機関が直接オープンダイアローグ型の精神科医療を行っている例」か、「街のかかりつけ医の先生が患者さんを診たときに、対話ミーティングが必要と考えて、ケロプダス病院のチームに対話ミーティングの進行を依頼し、ご家族やかかりつけ医もそこに参加する」といったようなケースです。医療機関自身が対話的な医療を実施しているか、少なくとも対話実践にフレンドリーなのです。そこでは、医療者は確かに「力になってくれるネットワークメンバー」として認知されています。

日本の精神科病院さんがその自認する責務を、信じたやり方で一生懸命果たされようとしていることを、私は疑いません(その結果、ユーザーから「分かってもらえなかった」「傷つけられた」と思われてしまうのだとしたらとても残念なことです)。

また私は、精神科医療スタッフのナラティブや個々の病院の物語、そして精神科医療自体の物語(歴史)にも耳を傾けねばならないと思っています。また、ダイアローグが「黒船(脅威)」に見えたり「対話的に実践しましょう」というメッセージが現在の医療実践を否定するものとして伝わったりすれば、それこそダイアローグにとって自殺行為だと考えています。

とはいえ、冒頭のようなご相談が私たちに届くのも現状なのです。この現状に対し、私にはこれだ!という解決策はありません。また、短期的に考えなければならないことと、長期的に取り組む必要があることとがあるように思います。

(その一環として、比較的フォーマルに病院の中に入れていただけるように「地域移行支援事業」という福祉サービスの市指定事業者になったところです。)

と、ここまで書いてきて、だんだん「やっぱりこれからもひとつひとつの局面でご相談者さんや周りの人と対話して、どこへ行くか分からないプロセスを一緒に進んでいくだけなんだな」と思えてきました。ひとり納得して、今夜はこの辺りで終わろうと思います。

おわりに

私の個人的な願いとしては、「オープンダイアローグ」が ”特別な治療法” としてではなく、「対話的な態度でもってふつうの対人サービス(医療含む)をすること」として広まってほしいと思います。

また、私たちのような私設ソーシャルワーク相談室にこのような「受療相談」がたびたび寄せられる現状について、関係者と広くオープンに対話できたらと思います。

何より、みなさんが「ここは対話的だなあ」と感じる病院や支援機関がありましたら、ぜひお知らせください。対話主義と矛盾したことを書くようですが、「現在の担当スタッフとご相談者さんとがうまくいくようになること」は、私の願いではあっても、ご相談者さん自身の(目下の)ご希望ではないこともあるのです。

長くなりましたが、読んでいただいてありがとうございます。

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