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成長痛

人と関わって良いものを得られる時もあれば、
誰かが何かをしてしまった時、また悩まなければいけない日が始まる。


足りないもの

子供って無邪気で、怖いもの知らずな感じがしてすごく羨ましいです。
最近は、コミュニケーション力について悩む機会が増えたので。

映像を作る時は、とにかくコミュニケーションが必要だってことを最近学びました。
会話をして、自分の思いを伝える。
伝わらなくても良い、伝えようとする意思が大切なんだと知りました。
ただ、時々それを躊躇う自分がいます。
それは、心の傷が私を守ろうとするからです。
自分の心の内」と「自己防衛」がぶつかり合うんですよね。
そうすると、過去に出来た癒えない傷を守ろうとして自らを守る方に動いてしまうんです。
だから、コミュニケーションもまともに取れていない状態で、時間だけが過ぎて行くんです。

癒えない傷を守りながら、自分を表現する方法を今は模索しています。

余計な一言

あの頃は、何を言っても許されました。
終いには、可愛がってもらえた。
なのに成長して行くにつれて、立場は変わっていく。

仲が深まるにつれて、お互いの言葉使いもあまり気を使わなくなってきます。
初めの頃は、会話が途切れ途切れでぎこちない感じだけど、
数ヶ月もすれば、相手の言葉がなくても通じるようになる。
でも、いつもここで失敗する。
仲良くなったからって何でも言って言い訳じゃない。初めの頃と同じように空気を読んで話さなければいけない時だってある。
なんでだろうな。
私は、いつもここで失敗するんだよ。

「どこかに考える頭を置いてきたみたい。」

自らを絶望の淵に追い込み、苦しくさせている。
何度、同じ経験をしても学ばない。
それが「私」みたいです。

必要とされているのか

最近こんなことを考える。

「私は、必要とされているのか?」

実際、必要とされていない「お荷物」みたいな感覚に陥る時が凄く多い。
悔しいが、きっとこの感覚は側から見てもそう見えるほど間違っていない感覚だと思っている。

大学生になってよく感じていたことがある。
世の中は主体性のある人が重宝されるのだと。
心の内」では、私にだって出来る!と思っていても、実際それが行動になっていなければ世間は評価してくれないということ。

「あぁ、社会は厳しいな。」

制服を着ていられるうちは、ほとんどが受け身の授業だった。
板書をしていれば、話を聞いて頭で考えていれば授業は終わっていた。
今思えば、それがどれだけ楽だったことか…

本題に戻り、結果として私は必要とされているのか。
この答えはまだ出ていません。が、いつかは、必要とされる存在になれるように日々精進したいと思っているところです。笑

どんな自分でも良い

失言をしてしまう自分も、必要とされていない自分も愛してあげる。
世の中良いことばかりじゃありませんから、今ある最大限を尽くす。
そんな自分を自分が1番愛すること。これが何より大切だと感じています。
失敗や、苦しい経験をたくさんしてきた人ほど相手の痛みが分かるものです。
だから、どんなに自分が弱々しく見えても、最後には「お疲れ様、良くやった!」と褒めてあげられるように、これからも日々頑張りましょう!

辛いことも苦しいことも、いつかは笑い話にできる日が来ると願って…

それでは、また次回!

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