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老いなき世界を獲得したら、人は鬼になるのか

今日は本のお話。ベストセラーになったこちらです。

『LIFE SPAN 老いなき世界』

(音楽ファンとしては『ライフスパン』より邦題の『老いなき世界』のほうがタイトルオマージュっぽくて好きです)

めっちゃかいつまんで言うと、老化を避けられない運命ではなく病気(それもラスボス的な意味を含ませて)ととらえ、長寿遺伝子といわれるサーチュイン遺伝子を活性化させる物質を運動や食事のしかたとかテクノロジーの活用で増やすことで健康寿命を延ばしましょうって話です。

一応健康に関する業界に身を置いてる人なので発売して半月後くらいに読んでみてまして、

「マジかだったら全体の社会保険費用下げて手元資金(=手取り)増やして長い未来を楽しく過ごそうぜ」

みたいになってたんですが、

「老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだ」

と「鬼滅の刃 無限列車編」の作中で煉獄杏寿郎さんにお説教されたのでちょっと立ち止まって考えなおしてみてるところです。

老化を克服するということは、それすなわち鬼になるということなんでしょうか?

人が老化を忌み嫌うその文脈はギネス記録を更新したいとかではなく、容姿であれ身体機能であれピークを保った状態でやりたいことへの情熱があるから、それを妨げる老化(しかも現状避けられない現実)を怖がるんですよね。

老いないことはあくまでも手段、プロセスです。目的じゃない。

だから逆に辛いのは老いること、死ぬことそのものではなく、自分の情熱の状態と肉体の強度がアンバランスなことなんじゃなかなと思います。

情熱を傾けたいものがあるのに加齢性の病で身体がまともに動かないことで自分を惨めに感じることもあるでしょう。

煉獄さんの父上は特定の病でこそありませんが、鬼狩りとしての肉体の衰え(それを自分の無能さとも感じていたようです)を受け入れられず、妻も失い、それでも生きながらえていることを恥じているような雰囲気があります。

一方、物語に登場する鬼の中には鬼狩りに斬られることでとても穏やかな表情で死を迎える鬼もいます。

いつの間にか目的(強さ)と手段(不老不死)が入れ替わってしまったことに気付き、醜く再生し続けた自らの姿に失望した鬼もいました。

それもまた悲劇です。

望むカタチでもないのにいくらでも再生してしまう鬼みたいになっちゃうのは、実は現代医療ではあり得ることかもしれません。

鬼狩りに斬ってもらうみたいなのも原則禁じられてます。

そしたらもう救いないじゃない・・・。

あれっ、いつのまにか「ライフスパン」じゃなくて鬼滅の話になってた!

話を戻しますと、人間は明確な目的が見えない状態で「健康長寿になれる方法」を聞いてそれを生活にとり入れたとしてもイマイチ続かないことが多いです。

長寿の先にある鬼の持つような虚しさを無意識の中に感じ取って、目先の「めんどくさい」の理由を底上げする形になっているのかもしれません。

結局そういうところに注目しだすのはなんらかの病が始まってからなのですが、気付いた時にはもう自分の望むようには身体も動かず、さらに恐ろしいのは、老化の末病になった箇所を対処療法でつぎはぎのように治され、もういいよと本人が思っても生き続けてしまうこと。

鬼滅の刃の世界観(時代背景も大正時代です)では志半ばで早くに死を迎えることも多いのに比べて、現代日本は早死にするよりそちらのほうが可能性がはるかに高いんじゃないかと思います。

どうせなかなか死ねない世界なら、まずはやっぱり強い情熱、煉獄さんのいうところの「心の炎」が消えないことこそ人間として老いなき世界を迎える準備となるのではないでしょうか。

煉獄さんみたいに無意識領域まで燃やすのはなかなか難しいでしょうが(苦笑)

彼のように何か大義を持たなくてもいいと思うんです。ただ、好きなことややってみたいことが次から次へと出てくるような生き方をしていけばいいのだと思います。

しかし私の仕事、健康啓発で無関心層の行動変容を促さなきゃいけないんですけど、鬼滅の話ナシでそういう話を構成するにはどうしたらいいですかねえ。

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