胆沢物語『小夜姫③』【岩手の伝説㉑】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館


【五章】小夜姫【三節】


旅はいつしか伊達領に入っていました。

千賀の浦からは船でした。

※千賀浦・・・ちがのうら。宮城県松島湾南西部の浜辺。


小夜姫は博多から乗った船の経験があったので、眉をひそめましたが、船の進む波間に、多くの緑の松の生えている島々の浮かんでいるのには驚きました。

そこは松島でした。

小夜姫は、この世にこんな美しい風景があるのかと、うっとりと眺めていました。

そして思わず歌を詠じました。


松島や惜島で物を呉れよかし

 弐度度迎えて国の土産に

松島や苔の下なる父上に

 雄島で流すは涙なりけり

松島や嵐に吹けども寒からず

 錦にまさる島を見に来し


※松島や、心残りがある島だから、なにか物をちょうだいよ。再び私を迎えて、故郷への土産にしたいから。(またここを通って故郷へ帰りたいという気持ち。)

※松島や、死んで今や苔の下にいる父上を思うと、雄島では涙が流れるなあ。(雄島は昔は死者供養の霊場だった。)

※松島や、嵐に吹かれているけれども、寒くないよ。錦より美しい島を見に来たから。

※惜島(おしま)と雄島を掛けている?


松島から陸路に変わり、大松沢、吉川と旅は急がれ、磐井川は水かさの少ない川でしたが、渡し舟が用意されておりました。

夕近い空の色が映った水面は、静かに流れて、いづこからか寺の鐘らしい音が流れてきました。

そうした静寂の中に身を任せている自分を顧みて、小夜姫は思わず涙ぐみました。


今日下る商人の為には磐井(祝い)川

姫がためには涙川なり


※今日は川が静かで渡りやすいので、商人にとっては祝いの川だが、小夜姫にとっては涙の川だ。


磐井川を越えると、もう吉実にはこの辺は、散策の範囲内でもありました。

わずか一ヶ年たらずの旅ながら、長い長い旅から故郷へ戻った懐かしさが込み上げてくるのでした。

そして九州筑紫を出発してから、八十五日を経過していることに気が付きました。

そして贄(にえ)上納の八月十四日を、わずか二日前の八月十二日でもあることに気が付いたのでありました。

吉実はこれから一気に下胆沢の自宅まで旅を続けることを決意いたしました。

姫の足がそれには無理であるなどということは考えませんでした。

ですから衣川を通る頃は夕食時で、林や森を抱えた家からは、食事の団欒を思わせるほのぼのとした灯りが漏れているのが見えました。

小夜姫は暗闇の中から、高い衣川の森を見上げながら歌を詠じました。


其の昔いかなる智織のふみ染めて

 衣川とは書きやますらん

昨日立ち今日来て見れば衣川

 裾のほころび下げ登るらん

音に聞こえし十草山とは申せども

 今日来て見れば一草もなし


※ずっと昔は、どのような智識(知恵)で織物を踏み染めて、衣川という地名を書いたのでしょうね。

※昨日出立して、今日来て見れば、衣川を裾のほころびを下げながら登るのでしょう。

※噂に聞いていた有名な、十草(とくさ、縁起の良い植物)が生えている山とは言うけれども、今日来て見れば一草もない。

※江戸時代は八月上旬が立秋、八月十五日が中秋の名月なので、本格的な秋に入っていた。寒いから懸命に裾を下げ、十草がすでに枯れ果てた、暗く淋しい景色の中を歩いていたということ。衣という字に対する皮肉か?

※昨日たち(立ち、裁ち)今日きて(来て、着て)見れば衣川 裾の綻さけ(裂け、鮭)上るらん ・・・ ある労働者がこの歌を詠み、蒲生氏郷(がもううじさと)が感心して労役を免除したという、有名な歌。本歌取りという技法。


徳沢長根に立てばもう、下胆沢はもう一里でした。

歩行も限界の姫に鞭を加えながら、吉実はひたすら道を急ぐのでした。


吉実の館に着いたのは夜中でした。

古川から飛脚(郵便)を出しておいたので、館ではあらかじめ到着を知って、下僕(しもべ)や近所の人々が大勢集まっておりました。

座敷も綺麗に掃除されて、百目蠟燭が煌々煌々と輝いて、昼も欺くほどでありました。

※百目蝋燭・・・ひゃくめろうそく。1本の重さが100匁(もんめ)ある大きなろうそく。


その夜は疲れてもいるということで、軽い祝宴だけで、いづれ一切は明日ということでした。

吉実の妻は、小夜姫を紹介されてびっくりしました。

あまりにも娘に似ているからでありました。

いや、自分の娘よりももっともっと美しく、高貴さが漲って(みなぎって)いました。

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